JR東北本線・国府多賀城駅近くの館前遺跡から、案内の道標に従ってしばし歩いてまいりますと、広々した芝地(水辺部分はあやめ園になるらしい)の向こうに、大きな瓦葺きの屋根が見えて「すわ!歴史的建造物か?」と。

 

 

実はただの(といっては失礼ながら)お寺さんであるようでしたが、それでもお寺の屋根の手前側には太い柱が並んでおりますな。そこの部分はやはり、古代史跡の再現であるということで。

 

 

つまりは、いよいよ多賀城の史跡がもうすぐのところまで来ていることになりますな。ただ、一番上の写真で目を止めるべきは左側の丘の上の方でありましたよ。小さなお堂が見えておりましょう。これが国宝「多賀城碑」の覆屋であるということでして、取り敢えず丘の上を目指します。

 

 

苦になるほどではありませんけれど、思いのほか「登るな」という印象が。あたりがかような丘陵地ではあるとは想像していなかったもので…。とまれ、たどりついた覆屋はこのように。

 

 

全面的に格子が入って中が覗けるようになっているも、画像にあしらうには多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室にあったレプリカの方がよろしいかと。

 

…前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記され…、後半には、神亀元年(七二四)、大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、天平宝字六年(七六二)、藤原恵美朝臣朝獦が多賀城を修造したことが記され…ています。(多賀城市教育委員会)

と、これによって多賀城創建は724年、したがって2024年は創建1300年に当たるということが分かるというわけですな。ただ、本当に8世紀に造られた碑であるのかどうか、今でも疑う説の方々もおるようですが…。一方では、かような解説もありましたなあ。

 

…(仙台藩)2代藩主伊達忠宗の頃に土中から発見されると、西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地「壺碑」(つぼのいしぶみ)と関連付けられ、有名になりました。それにより、当時の文化人や学者の注目を集めるところとなり、仙台藩や民間の俳諧師により保護顕彰されてきました。江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、時間とともに変わりゆく歌枕の中で、多賀城碑だけが昔からの変わらぬ姿を留めていることに感動したことを、『おくのほそ道』に記しています。

碑文の真偽はともあれ、古えを偲ぶよすがとして歌に詠まれて「歌枕」ともされるという文化史的な一面もあったということで。もっとも、多賀城碑が「壺碑」であるかどうかもまだ議論の余地はあるようですけれどね。

 

ちなみに、多賀城碑に今のように覆屋が施してあるのは徳川光圀(水戸黄門)の発案であったようでありますよ。

(光圀は)文化財保護にも取り組み、藩内外の由緒ある神社仏閣について保護・復興に努め、仏像や古碑などの修理にも尽力しています。
…大日本史編さんにあたっての資料調査を行っていた丸山可澄から、多賀城碑が苔むした状態であることを聞き及んだ光圀は、仙台藩主伊達綱村に対し、碑の覆屋(おおいや)を建ててはどうかという内容の書簡を送ります。…これがきっかけとなり、綱村の代に覆屋が造られたと考えられています。(「多賀城市の文化財」HP)

古代史の謎は当然ながら、そうは簡単に解明されるものではないのでありましょうね。

 

 


 

月々の父親の通院介助を、このところ日帰りで対処してきておりましたが、久しぶりに泊まりででかけることに。つきましては明日(3/14)はお休みとして、また明後日(3/15)に、ということで、よしなに願いますです、はい。