福岡城 下之橋御門 筑前竹槍一揆 米騒動の痕跡 | OH!江戸パパ

OH!江戸パパ

「OH!江戸おやG」のブログです!

テーマ:
本日は福岡城桜まつりに合わせて内部公開された伝潮見櫓と二層櫓門下之橋御門の話をします。
 

【伝潮見櫓】福岡県指定文化財
(伝)と言うのはこの櫓が黒田家より移築された時は潮見櫓とされていました。しかし実際は潮見櫓ではありませんでした。これとは別に崇福寺に福岡城から移築された月見櫓は棟札が見つかり本当は潮見櫓だったと判明しました。目と鼻の先に崇福寺より移築された本物の潮見櫓と(伝)潮見櫓があるので混同しやすいです。
 

伝の方の潮見櫓内部は漆喰がはがれていたりかなり傷んでいます。普段は公開されていません。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築された後に昭和31年に再び福岡城へ出戻りしました。潮見櫓でないとわかりましたが、判明してはないものの本丸裏御門の西にあった太鼓櫓が黒田別邸に移された記録があり太鼓櫓の可能性が高いとされています。個人的には「伝太鼓櫓」に変更したら良いのではと思いました。
 
【伝潮見櫓1階室内】
 

【伝潮見櫓2階室内】

【旧黒田邸】伝潮見櫓

【下之橋御門】福岡県指定文化財
1805年に建築され元は二層の櫓門でしたがいつの頃かに単層の門に変更されていました。2000年に不審火で半焼しました。修復作業で本来あったであろう二層部分も合せて2008年にニ層櫓門として復元されました。下之橋御門は建築当時の位置を保っています。
 

【筑前竹槍一揆の痕跡】
柱に抉れたような痕があるのは明治6年6月に起きた福岡県内で約10万人が蜂起した筑前竹槍一揆でついた傷と言われています。
大干ばつで飯塚市の日吉神社で雨乞い祈願をしている農民達が米相場の情報を旗振り通信や火で合図する「目取り」を発見。米価暴騰の原因はこれら悪徳業者の為だと抗議をしに猪藤宿の目取頭の「筆海」を訪ねたところ口論になり、若者が多数押し寄せ乱闘になりました。
 
※江戸時代から米の先物取引で旗振り通信は利用されました。米の相場師が遠眼鏡を使い、リレー方式で現地に伝達しました。米を安い時に買い高い時に売り利ざやを稼ぎます。この時米の現物は動きません。
この騒ぎで農民側が数名捕縛された為に嘉麻郡27か村の25〜60歳の者が隊を組み立ち上がり「筆海」や近隣住宅、富商宅、目取り仲間の目明かし宅を襲撃しました。その後に騒動は膨れ上がり10万人が参加して、県庁のあった福岡城を目指しました。
博多の豪商や為替方の小野組は軒並み襲撃されました。
 
農民達は竹槍、鍬、鎌等の農具を振り回しこの門や上之御門に殺到しました。県庁官舎も襲われました。銃撃隊は発砲し抜刀隊も斬りつけ鎮圧されました。県庁が襲われた事で責任を取り、権典事時枝明や鎮撫総督中村用六達が割腹しました。中村用六は筑前勤王党の中村円太、中村恒次郎の中村三兄弟の長兄です。
【筑前勤王党 中村三兄弟】
中村用六
筑前竹槍一揆の責任を取り切腹
中村円太
筑前勤王党に危険分子と思われ殺害される
中村恒次郎
長州軍に帯同し禁門の変で戦死
 

古い部材も残され使用されています。
 

【下之橋御門2層部分】
 

 
 

 【不審火で焼け焦げた部材】