久しぶりにロック評論家的な内容のお話を・・。

今から40年ほど前、Streets of Fireという映画が公開された。

主演はマイケル・パレとダイアン・レーン。マイケル・パレという役者は一発屋に近く突然現れ、突然いなくなったので、事実上この映画のスターはダイアン・レーンなのだが、特筆すべきは、脇役がその後メジャーなスターになるウィリエム・ダホー(プラツーン)やニック・モラニスなこと。監督のウォルター・ヒルは昔から大好きな監督なのだが、先見の目があったのだな。

 

あ、最初から脱線。実はこの映画のために書き下ろされたオリジナルの楽曲についての話をしたかったのだよ。

私は前々からハリウッド映画のサウンドトラックが好きで、その理由は日本と違って、レコード会社の対応が柔軟で、監督の好みでありとあらゆる楽曲が集約されているんだよね。

十代前半からローリングストーン(雑誌です)の専属記者だったキャメロン・クロウの映画のサントラがロックファンの間で受けるのも、音源使用の垣根がほぼないハリウッドならでは、なのだ。

 

一方、このストリート・オブ・ファイヤーのサウンドトラックは既存の楽曲を集めたのではく、この映画のために有名、無名関係なく書き下ろされているのだ。

どちらかというと激しいアクション映画の監督として知られているウォルター・ヒルは、私的にはミュージックビデオの才能に着目していた。

彼の出世作である48 Hoursの黒人バーの演奏のシーンの編集は、ストーリーテラーのそれではなく、音楽をよく理解したひとでないとできないレベルだ。Streets of Fireはその流れを受けて、マイケル・パレ扮する元軍人が暴走族にさらわれた元カノのダイアンレーン扮するロックシンガーを助け出す、という物語なのだが、前編60年代から70年代のロックの王道的な音楽が大音量で奏でられている。

その中でもラストシーンの Tonight Is What It Means To Be Youngは何度観ても鳥肌が立つ、ロック映画の金字塔だ。

 

特筆すべきは、この映画が撮影、編集されたのは1984年。ここから少々専門的な話になるが、その昔、映画は35ミリのフィルムで撮影され、現像され、映画館で映写機にかけられていた。フィルムというのはフィルムのスチールカメラが1秒間に24コマ、シャッターを切っているのと同じことで、ネガを現像してプリント(スチールではポジ)に焼いて、それをシーンごとに切って、テープでつなぐのだ。それが編集という作業なのだが、当時は撮影中の映像をモニターで映し出したり、ネガから直接ビデオやディスクなどにデータでコピーして、パソコンで編集するなど、という技術がなかった。

何がどう撮影されているかも、カメラのファインダーを覗いているカメラマンの記憶しかないのだ。つまり監督でさえ、翌日現像が上がってくるまでどんな映像を撮ったのかがわからない。つまり、現場は常に手探り状態だったわけだ。その上、映画には大勢のスタッフと機材とセットなど莫大なお金と労力がかかっているから、やり直しはできない。

今の映画やCMやミュージックビデオはカメラからフィードした映像データをマックに取り込み、撮影しながら仮編集をしてそのカットがオッケーかどうかを確認しながら進めることができるから、当時の手探りの現場とは石器時代と現代ぐらいの開きがあるのだ。

 

じゃあ、フィルムの編集が実際どう行われたか、という話は割愛するが、要するに、このラストシーンのように短いカットを音楽のリズムや展開に合わせて編集するという作業が、今のデジタル技術の幕開けのずいぶん前にフィルムの編集で行われ、かつそのクオリティーは現代のデジタル編集をはるかに凌駕するレベルだということに読者の興味を喚起したいのだ。

 

そして、もうひとつ。撮影する際のフィルムには音は記録されない。映画やCMでは役者のセリフなどは別に録音される。

現像されたフィルムの映像とは別に録音された音声を合わせる作業をシンクロ、というが、そこであのカチンコが使われるのである。一般に知られているカチンコは、監督が「よーい、アクション」という掛け声のあとに助監督がカチンと鳴らす合いの手のように思われているが、実はあのカチン、という音が音声テープに録音され、フィルムであの棒が板に当たる瞬間のコマに合わせることによってフィルムと音声が同じタイミングで回る、という非常に単純な仕組みになっている。

 

このラストシーンの現場を想像してみよう。

音声は全て音楽なので、現場での音声の収録はない。代わりに現場でこの音源を流して、それにわせてダイアンレーンは口をうごかし、踊り、バックも演奏をしている演技をする。MTVの登場により全盛を極めたミュージックビデオの演奏シーンは、一つのアングルで一曲一通りクチパクをして歌わなければならなかった。理由は二つ。ひとつは、35ミリのフィルムカメラは大きくて重たくて、それぞれがフィルムロールを抱えているから、撮影部隊は基本一台しかオペレートできない。せいぜい2カメ、予算があれば3カメ、が限度だ。おそらくこのシーンは最低でもカメラを2台使っていると思うが、それでも撮影できるのあ2つのアングルしかない。今のライブ映像のように100台近いデジタルカメラを同時に、なんてあり得ないわけだ。しかも、だ。フィルムには制限時間がある。35ミリのフィルムには1000フィートと400フィートの2種類しかなく、1000フィートでせいぜい10分弱。つまり10分撮影したらロールチェンジと言って、フィルムを新しいものに入れ替えなければならないのだ。

そんな気の遠くなるような作業をどれだけ繰り返したのか・・。

しかもそこに写っている映像は翌日まで見ることさえできないし、編集はフィルムをバラバラにしてテープで繋いで逐一映写機で繋がりやリズムを確認していくしかない。

 

長くなってしまったが、そういう視点でこのシーンを見かえすと、あらためて、カメラマン、助監督、監督、編集、に脱帽なのだ。

 

最後に、当時の石器時代的なやり方が、今のデジタル技術を超えている、と書いたが、なんでもかんでもその場で確認ができて上がりに近い作業ができることによって、むしろクリエーターの感性が鈍くなっているような気がしてならない。

監督の意のままに作ることが許される映画では説明がしにくいから、CMを例にとってみよう。

CMは企画から納品まで、絶対的に広告主の意向が強く反映されるのは当たり前なのだが、撮影現場にクライアントの担当者が同席し、撮影中の映像をオンエアの映像レベルで同時に見られることにより、予定していなかったアクションやタレントのアドリブ、監督の思いつきなどが排除される傾向にある。

例えば、ビールがコップに注がれるシーンがあるとすれば、広告主はそのブランドで定められた泡の出方やグラスのもち方、ビールの色など、その場で確認し、それに反するものはNGとしてしまう。もしモニタリングができない昔なら、現像してみたら、泡がこぼれたカットがとても美味しそうだから、それを使って編集したら喜ばれた、ということがあり得たのだ。

 

映画の編集者は基本現場に立ち会わず、撮影された映像だけを見て、どのカットをどう繋いだらいいかを考える。昔は監督も同じだったのだ。現場では手探りだった映像が、こんなふうになってたんだ、と驚き、自分の予想を超えた面白いものになる、というマジックが、今、技術の向上によって失われているような気がしてならない。