「労働者の全面的稼働性」と「全体的に発達した個人」――百木獏「未来社会」論文によせて | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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【主たる素材】百木獏「マルクスの未来社会論を再考する」

 

 最初に断っておくと、百木さんのこの論文全体を取り上げたエントリーではありません。たった1ヵ所、以下の部分に関するものです。

マルクスの未来社会論が抱える困難は多岐にわたるが、実はこの「諸個人の全面的発達」、すなわち「アソシエーションのアソシエーション」を実現・実践しうる主体の登場こそが、最大の困難であると言うことができるのではないか。マルクスの描くアソシエーション社会に期待を寄せる論者の多くは(もちろんマルクス自身を含めて)、こうした「諸個人の全面的発達」を所与の前提としているが、おそらくはマルクスのアソシエーション論の最大の難関はそこに存するのである。

 まず、「諸個人の全面的発達」というのがそもそも胡散臭い。マルクス自身は、『資本論』第1部第13章では、諸個人の発達については「全面的」(allseitige)とは言っていません。「労働者の全面的可動性」(allseitige Beweglichkeit des Arbeiters. )で「全面的」を使い、諸個人の発達については、「全体的に発達した諸個人」( das total entwickelte Individuum)と「全体的」(total)を使っているのです。一見大した違いはないように思えるかもしれません。しかし、「全面的発達」と読み違えた瞬間に「一人一人の人間があらゆる方面に精通している」という無茶な話に見えてくることは避けられません。「全面的」なのは発達ではなく、「可動性」です。少々大袈裟な描き方ですが、「全面的」とは「多数の生産部面へ」という意味に他なりません。そのことは、「全体的に発達した諸個人」の内容規定からもうかがい知ることができます。

さまざまな社会的機能を次々と取り換える全体的に発達した個人

必ずしも一人一人がすべてをこなすことが要求されているわけではありません。多様な機能を次々と行使するということです。確かに、その多様な機能を行使しうる能力が相互に孤立した各個人に属するものであるなら、これは超人だらけの世界ということになるでしょう。しかし、われわれは、ここでフォイエルバッハ・テーゼ6を想起すべきなのです。

人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なの である。

*ただし、この「総体」は、 Ensemble(アンサンブル)

全面的な能力を一人一人が例外なく備えなくても、相互補完的な関係の中でトータルな存在として社会的な能力を自分のものとして活用できるということです。単独者としてすべてをこなせる能力を一人一人が自分に内在させましょうという話では、全くありません。

諸個人は自己の主体性の発現過程たる労働の過程において,自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している(社会的労働!)。主体とは再三強調したように自己の諸前提を産出しつつ自己関係する自立的運動であるが,個人はこのような主体として,自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定しているのである。1個の個人において実在する同一の主体的自己媒介運動は,同様の自己媒介運動構造をもつ他の諸個人を前提するとともに自己のために措定している。(有井行夫「マルクスの社会システム把握と矛盾論・疎外論・物象化論」)

ここで有井氏が述べているのは、諸個人の一般的な在り方であって、特殊資本主義的な在り方でもなく、資本主義を乗り越えた自由な個体性としての在り方でもありません。

 では、資本主義において上記のような一般的個人は、どのような特殊歴史的な規定を帯びるのでしょうか。それはこうだと思われます。実際には、「自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している」にもかかわらず、全くその自覚がないまま、結果的に、排他的な諸個人として互いに私利私欲のために「自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定している」のが、物象的依存関係(資本主義)における諸個人です。

 それに対して、未来社会の諸個人は、自分たちの相互媒介性に無自覚な故に互いに排他的にふるまう状況を克服した個人、自覚的な協力関係の中で「さまざまな社会的機能を次々と取り換える全体的に発達した個人」なのです。

 そして、このような個人は、確かに未来社会の成立にとって不可欠の前提条件ですが、しかし、それ自身の根拠を欠いた「所与の前提」、マルクスの願望の産物などではありません。

近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業に絶えず変革し、大量の資本と労働力の大群とを、一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働を転換、機能を流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。

むしろ、それは、資本主義それ自体が生み出した「労働者の全面的可動性」をいわば逆手に取ったものなのです。大工業の資本主義的な形態は、労働する諸個人に多面的な機能の担い手となり、資本の都合に応じてその機能を代わる代わる果たすことを強制します。資本の勝手な都合によって、あの部面からこの部面へと追い回される不安定な生活の中で否応なく身につけさせられた多面的機能を、個々バラバラにではなく、トータルに、つまりアソシエイトした主体として、発揮することが資本主義乗り越えのカギです。勿論、それでもなお、全面的に可動的な労働者から「全体的に発達した諸個人」への転化は、確かに困難を伴うでしょう。しかし、百木氏のように、「全体的に発達した諸個人」を、無前提に出現することが根拠もなく期待されているに過ぎないものと見てしまえば、この転化の困難さや障害が具体的にどのような内容を持つのかすら理解できないことになるでしょう。そして、実際に百木氏はそれを理解していないのです。

 

 

 

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