~こまどり 第参章『糸口』~




相変わらずの江戸の光を浴びながら、一人の男が縁側で文を読んでいた。

時折吹く風が、男の長い漆黒の髪を楽しそうに揺らすが、男は煩わしそうに額髪を掻き上げる。

「少年か……」

形の良い唇から零れた言葉は静かに庭に落ちていった。其れをぼうっと見ていた男は、不意に後ろを向いて微笑んだ。

「そんな所にいないで、こっちにおいで」

男の視線の先には、男を凝視する一人の赤子。

「おいで、朔夜」

男はそう言って手を広げて見せる。其れを見た朔夜と呼ばれた赤子は、男の膝の上に登ると満足気に笑った。


何時もは母親に抱えられている存在の温かさに、男が思わず微笑んだ刹那、背後から女の声が飛んできた。


「悠助、朔夜を見なかった?」

「朔夜なら此処にいるよ」

男、元へ悠助は腕の中にいる赤子を、女に見せるために振り返った。

綾菜は其の姿を見て微笑むと、悠助の隣に腰を掛けた。

「……平和ね」

縁側に足を投げ出すように座った綾菜は、そう言って眩しそうに目を細めた。

「俺達はこの先、平和なんて言っていられないだろうな」

悠助は、己の結い上げられた髪を引っ張る朔夜を見詰めながら呟いた。

「……龍影からの文には何が書いてあったの?」

綾菜の言葉に、悠助は無言で文を渡した。綾菜は其れを静かに広げる。




――悠助、お前達が江戸に戻った後、俺は山倉時雨に襲われた。何の被害もないから、それについては安心しろ。だが、色々と気になることが出てきた。

一、山倉には殺意はなく、娘の為にやったことらしい。山倉は妻を病で亡くし、娘を一人で育てているが、その娘も病に掛かっている。金があれば治る病だが、今の山倉家にそんな金はない。途方に暮れている時、一人の少年がこう言ったそうだ。
龍影という男が山倉氷雨を殺した修羅の弟子だ。その男を殺せば、金を出してやる。
山倉はそれに縋るしかなかったみたいだな。

二、山倉は邪鬼の妖刀を持っていた。調べてみたが、柄の中に弓螺の札が貼ってあった。あの祠に貼ってあったものと同じものだ。
悠助、これから書くことは俺の憶測に過ぎねぇ。其れを読むかはお前が決めろ。――




龍影の文は此処で一枚目が終わっていた。続きを読むか読まないかを選べるようにだろう。
綾菜は悠助を一瞥したが、悠助は庭を見詰める視線を崩すことはなかった。

綾菜は静かに続きを読み始めた。




――俺は、羅刹の事件には直接関わっていない。だが、羅刹の事件はまだ終わっていないと俺は思っている。少なくとも、黒幕はずっと前から動いていたのは間違いねぇ。


山倉が言っていた童は、師匠に邪鬼の妖刀を渡した童と同一人物な気がする。そして、其奴は弓螺と関わりがあった。弓螺は刹鬼を生み出した巫女。その刹鬼は、人を殺し物を滅ぼす恐ろしいものという意味を持つ。


分かるか、悠助。羅刹も同じ意味を持つんだ。


偶然だと言われてしまえば其れで終わってしまうかもしれねぇ。だが、俺はどうも腑に落ちねぇ。羅刹、刹鬼、弓螺、童。どんな繋がりがあるのかは知らないが、必ず何かある。黒幕は、俺達に自分の存在を知らせる為に山倉を使ったんだろう。接触する時はそう遠くないぞ。――





龍影の文を読み終わった綾菜は、一瞬にして己の身が恐怖に染まっていくのを感じた。

家族を奪った羅刹が、又しても家族を奪おうというのか。

綾菜が思わず文を強く握り締めた刹那、悠助に優しく抱き締められた。

朔夜を支えていない右腕で、綾菜の頭を包むように己の胸に抱える悠助。

「父上が亡くなった時の母上の表情を、大人になった今でも忘れられない。そして、あの時の己自身の気持ちも。だからこそ、お前達を置いて逝くつもりは毛頭ない」

そう言いきった悠助に、綾菜は声無き涙で頬を濡らした。

そんな綾菜を慰めるかのように、朔夜は綾菜の頬に触れる。

小さくも今を生きる存在に、綾菜は今度こそ声を出して泣いた。

悠助は、江戸の空を真っ直ぐに見詰めながら、朔夜と綾菜を抱く腕に力を入れたのだった。




雪代を捕まえてから三日目。
龍影から届いた文を読んだ悠助は、雪代がいる部屋に向かっていた。


『自分達の存在を知らせる為に山倉を使ったんだろう』

「(龍影に対して山倉時雨ならば、俺達には雪代というわけか……)」

悠助は思わず眉間に皺を寄せたが、静かに部屋の中に声を掛けた。

「雪代、話がある」

「入っていいよ」

悠助は其れを聞いて部屋に入ると、早々に本題を切り出した。

「雪代、お前に今回の事件を起こすように言ったのは一人の童ではなかったか?」

雪代は思わず目を見開いた。しかし、直ぐに視線を落として気持ちを隠す。

「随分、確信した言い方ね」

雪代はそう言って小さく笑ったが、悠助は雪代を見詰めて口をしっかりと結んでいた。

其れを見た雪代は一瞬顔を辛そうに歪めて口を開いた。

「……私はねぇ、姐さんと同じ花魁になって吉原でも結構有名だった。でも、来る客は皆決まってこう言った。『紫苑の方が素晴らしい』と」

雪代は悠助の視線から逃れるように畳を見詰めた。

「同じ立場になったはずだったのに、姐さんの背中はちっとも近付かなかった。寧ろ離れた気がしたよ。でも、そんな私にも身請けの話がきた」

其の時の事を思い出すかのように、雪代は落としていた視線を悠助に戻した。


「私は認められたと思った。でも其れはとんだ勘違いだったのさ。身請けをした男も、姐さんと私を平気で比べた。そして果たしてこう言った。『紫苑の方が矢張り良い女だ』と。私は悔しかった。姐さんのようになろうと頑張っても誰も認めてくれない。でも、そんな生活もある日突然終わった」

薄暗い部屋の中に差す江戸の光と共に、迷い込んだ風が静かに二人の髪を撫でる。

「何時もと変わらない日が始まって、終わるはずだった。でも其の日の夜、屋敷にいた私以外の人間が全員殺されたんだ。たった二人の童にね。私は其の童にこう言われた。『好きに生きろ』と。今思えば、私がやることを見通していたのかもしれない」

雪代は再び視線を落として畳を見詰めた。

「利用されたと思わないのか?」

「結果的に利用されていたのだとしても、決めたのは私だもの」

雪代が小さく笑って呟くと、悠助は穏やかに口を開いた。

「お前は、姐さんのようになろうとしたと言ったが、俺はなる必要はなかったと思う。お前は雪代であって、紫苑ではない。其の儘で良いのではないか?雪代の道はまだ生きているよ」

悠助はそう言って部屋を後にした。残された雪代は窓に目を遣り、眩しそうに目を細める。

「其の儘で良い……。まだ……道はあるのね」



落ち着きを持つ其の言葉を、風は江戸の空へと舞い上げる。



――江戸の空は快晴だった。

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