以前、観音寺の庭に石柱が立っていてその石柱に彫られた文字のことを書いたと記憶していますが忘れておられる方々も多いと思うので再度書きます。

 

「我以外皆師也」 吉川英治 と刻んであったのです。

これは村上和尚の想いで建てられたものだと思いますが高さは1メートルほどのものです。

横に高さ5~6メートルほどの樹が立っていて見落としがちな何気ない風景の中にひっそりとなんの主張もせずあったのです・

 

己、以外あらゆる環境、人、出来事、自然、すべてが今生の学びの師であると言うことです。

そのような思いで自然の色々な面を観ていきますと普段気づかないことが一杯あります。

自然界は私達に生き方を教えているのです。

 

日本の国土は急峻な山が多く年間を通じて雨が降ります、高地には冬、雪が降ります。

その雪や雨は細い水源から徐々に大きくなる谷川となり場所によっては大きな河となります。

 

大雨や台風などの影響で災害が起きるから皆さんも洪水などの恐ろしさはよくご存じですね。

上流から樹や岩や色々な物が流されてきますその現象は太古の昔から繰り返されてきたのです。

時に山の麓の家や田畑に被害を与えるために砂防ダムというものがつくられている場所もありますが大きな流れになった水の力は飛んでもない大きな岩おもゴロゴロと流してしまいます、山の高地の岩はごつごつしていますね。

 

下流に流されてくる時は浮いて流されることはありません、あっちこっちぶつかりながら下流に流されて行くのです。

 

何万年何千年と時間をかけて流された岩はだんだんごつごつしていたのに角が取れて丸みを帯びてきます、大きさも小さくなってきます、一番小さくなったのは砂です。

夏に海に泳ぎに行く人もいるでしょう綺麗な砂浜の上を歩いても足の裏は痛くないでしょう山の高地の岩の上を素足で歩けると思いますか海外の元々高地に住んでいる人々でも岩の上を素足で歩くことはしません。

 

山は火山による噴火や大地の隆起によって作られたものです、岩は雨や雪や強い風にさらされ柔らかい部分が削り落され、ささくれたり、ごつごつした形状になってしまいます。

噴火した溶岩はそのような形状ではありませんね。

 

山の上から海に到達するには気の遠くなるほどの長い長い年月と言う時間がかかります。

その工程の一部をあなたの肉体人生に当てはめて考えてみてください、一部です。

最初素足で歩けないほどの岩も角が少しずつ取れて丸みを帯びてきますと素足で少しは歩けるようになりますね。

あなたの心の状態を言っているのです。

 

角が取れた心になれたら周りの人と上手にお付き合いできますね、ごつごつした心の儘の人は人間関係がうまくいかないことが多いでしょう。

 

山の高さや形状にもよりますが山頂から海にまで岩が砂になるまでは人間で言えば何百転生、何千転生、あるいはもっと多くの転生が必要かもしれませんが砂になる途中過程に私達は今、在ると言うことだと私は思っています。

 

このように書いていますと自然に任せれば角が取れた心になれると思う人もいるかもしれませんがそれは大きな間違いです。

 

他力で成長できることは絶対にありません。

この場合の水は自分自身の努力する意思の力であります。

自力で岩を押すのです、それが人間の生きる意味です。

 

栄耀栄華に生きるのがいいのではありません。

 

そんなの無理と言われるかもしれませんが人生を生きる中に知らずにそのようにしていることもあるのです。

 

年老いて心が丸くなれるように日々を生きる大切なことだと思います。

丸いということは互いに触れ合っても抵抗が無いということです。

 

タイヤも丸いですね、列車の車輪、ベアリングの玉、数えればたくさんあると思います。

 

丸い人同士に諍いは起きません。

 

大自然はその在り様において私達人間に教えているのです。