「先生」、好きになってことある?ブログネタ:「先生」、好きになってことある? 参加中

学校の先生になりたい人が多い。とりわけ自分の母校には、毎年多くの教育実習生が訪れているようだ。かくいう自分もこの例外ではないが、後輩には既に立派な先生になっているのも何人かいて、勝手に鼻を高くしている。そんな今日は、そんな鼻から吸い込む息がツンと冷たい仙台より、 グローバル社会と先生に関するレポートを書き下ろそうと思う。(※そもそもグローバル人材の定義が曖昧ではあるものの、本文はそこまで明確な定義をせずとも読める内容なので、各々の解釈で読んでいただきたい。)
ご存知今や社会は島国である日本であってもグローバル化が進んでいる。それは、企業の海外進出や、外国人の増加からも見て取れる。換言すれば、従来一つであったコミュニティ内に、外部コミュニティが含まれるようになり、少しずつ価値観などは変容を見せるのではないかということ。
これを多様性(ダイバーシティ)なんて綺麗な名前で呼んだりもするが、OECD(経済協力開発機構)では異質性と呼ぶことのが多い。
異質性という言葉からはどちらかといえば否定的なニュアンスが汲み取ることができ(個人的にはあまり好きではないが)結局韓国人が日本の国旗を燃やすように、衝突する要素を多分に含んだ世の中になったということであろう。
さて、そんな衝突を解消する手段としては、選択的合意形成と共同的合意形成の二つをあげることができる。どちらか一方に決めましょう(どちらかは諦めましょう)というのが前者、共同で決めて行きましょう(お互い腹落ちしましょう)というのが後者である。言うまでもなくOECDは世界的な教育方針として後者を掲げる。
これを一つの事例で見てみよう。
『ここにオレンジが1つある。これを姉妹が互いに欲して衝突している。どのように解決(合意形成)すれば良いか。』といった命題を、選択的、共同的それぞれの手法で考えてみたい。
選択的合意形成を行った場合、例えばじゃんけんなどで姉が勝ち、妹はオレンジをまるまる手に入れることが可能だ。反面、妹は諦めることになる。選択的合意形成とは、合意形成とはいえどちらか一方が涙を飲まざるを得ないものである。
対して、共同的合意形成を行った場合、話し合いにより実は姉はジャムを作りたくオレンジの皮が欲しい、妹は食べたいから中身が欲しい、ということが判明し、互いに満足する結果となった。もちろん、二人とも笑顔である。
以上より、共同的合意形成は衝突をソフトランディングさせることができるといえる。では、どのようにすれば事例の姉妹のように共同的合意形成ができるのだろうか。
答えは簡単、合意形成までに「なぜ?」を繰り返すことである。すなわち、共同的合意形成とは、「なぜ?」を突き詰めることであり、この力が衝突の増えるであろうグローバル社会には求められていると考えられるのだ。
しかし、この「なぜ?」を問う力は日本人とりわけ若者には足りないと言わている。その理由は遡れば教育にあるとも考えられていて、だからこそ先生の関わり方が非常に大切になってくると訴えるタイトルにした。
では、なぜ教育にその理由が存在するかといえば、学校の先生は絶対、或いは、みんな正しい、といった教育前提が存在するためである。これが生徒に対してどのような影響を及ぼすかというと「思考放棄」だ。
そういった前提を覆すためには、やはりなぜを突き詰める授業があって良いのだろう。もちろん、盲目的に従わせていた方が、先生にとってはストレスなく授業はできるかもしれない。しかしながら、果たしてそれで生徒がこれからの社会を生き抜いていけるのだろうか。また、先生がよく言う「科目の楽しさを知ってもらいたい」などの夢は本当に実現されるのであろうか。(社会を生き抜けなければ、科目の楽しさはまず知ってもらえない)
そのような意味で、別に英語の先生に限らず、義務教育・高等教育の部分から先生の果たすべき役割は大きなものであると考える。そして、なぜを考えられる先生は、おそらくモテるに違いない。

以上