一気に冷え込みが加速しましたね。出張にしばしば訪れる北海道ではすでに吹雪いているようです。昨夜は、ぷりっぷりの鶏肉――それも当日の朝に〆たばかりの新鮮な――と生ビールを五感で味わいながら、痛風疑惑も忘れ飲んだくれていました。果たして、一週間の疲れがどっと来たようで、大事な仕事で頭が重いわけであります。うっかり永眠することのなきよう私は筆をとった次第で、長い前置きをしても仕方がありませんね。早速本題へまいりましょう。

 2010年の7月、ハーバード大学のMBAビジネススクール学長にノーリア教授が就任しました。ここで、ドラスティックにスクールのカリキュラムが変わったといわれます。今まで、ハーバードMBAといえば「ケーススタディ(実際の経営事例を紐解いていく)」研究メソッドでしたね。これはおそらく何となく誰もがわかる話なのでしょうけれども、ノーリアさんはこれとは別のメソッドを打ち出したのです。当然、歴史に学ぶという視点もありますから、ケーススタディメソッドは活きています。ただ、IT関連に代表されるように現代のビジネススピードは非常に早い。つまり、「今」この時に「未来」を見据えたいのであれば、ケースという「過去」がアテにならない場合があることに留意が必要ということです。

 では、どんな新メソッドが導入されたのかというと、「フィールドメソッド」。実際のフィールドに足を踏み出し、たくさんの経験を積み、体でビジネスを習得していこうというような考え方です。具体的には、大学がお金を出し、実際のコンサルティング業務などを遂行させるということであって、要するに机の上に研究場所がないということですね。

 これの何が良いかという話の前に、「判断」と「決断」の違いをお話しなければなりません。「判断」が過去に対するものであり、「決断」が未来に対するもの、という解釈あたりは小耳に挟んだことがあるかもしれませんが、「判断」は自らの考えを定める・当たりをつけるにとどまるのに対し、「決断」は自らの意思をはっきりと決定する・意思決定するという意味を持っていると定義されます。

経営すなわちリーダーに求められるのは「決断力」です。前途の通り、未来をつくる力である「決断力」には、十分な情報を収集する時間的要素は加味されない、考えているだけではいけない場合があります。極端な話、「今すぐに決める必要があれば、事前情報も何もなくても決定する必要がある(かつ、それが正解でなければならない)」ということです。(対して、「判断」は十分な情報からじっくり考え決めることができますし、そもそも決める必要すらありません)

 決断をすれば、当然それが「正解」であったか、「失敗」であったかという結果が生まれます。言うまでもなくリーダーには正解することが求められますので、決断時のエビデンスというのが非常に重要なものになってきます。ただ早々簡単にエビデンスを得られるわけではないのもまた事実。

そこで、なるべく多くの決断フェーズを「経験」し、時には「失敗」を重ねながら、いざ自身が本当にリーダーシップを発揮する際に、誤ったエビデンスに基づいた決断をしないよう、事前にフィールドにてリアルな学びを行うメソッドが重要になるわけです。ざっくり言えば、「過去」だけでなく「今」の世界で通用するリーダーシップを養うためには、リアルな「経験」「失敗」を事前に重ねておくことが必要だということですね。

素振りをしない野球選手がいきなり甲子園でホームランは打てません。期末テストで0点の人がいきなり大学入試に合格することもありません。泥臭いつらい練習、ヒットや三振の山、予習や復習、模試での一喜一憂、これらを通じてこその結果ですから、それはリーダーだって同じことなのです。誰もがリーダーに突然なれるわけではありません。そこに至るまでの過程をしっかりと、正しく、描いていく必要があるのでしょう。

悲しいかな、現在の我が国においてはそこまでフィールドメソッドが浸透していません(理由が何であれ)。いったい、2030年には消える仕事といわれている世のセンセイ方はいつまでドメスティックなのか、次世代リーダーは誰が育てるのか、そもそもこうした現状やグローバルの流れに誰が気づいているのか、いわゆる課題は山積みのような気がします。それでも、そうした課題・無理難題も楽しんで解決できる人はきっといるはずで、そんな仲間に出会い、話し、自身の至らなさに気づくたくさんの「経験」を積むことが私たち一人ひとり求められているのでしょうね。

雲一つない冬の快晴は気分が実に良いものです。太陽もてっぺんまでのぼり、気温もほどほど。素晴らしき昼寝日和に、今や目蓋はリーダーの責任より重く、心地よい空気にしばし体を預けたくなってきました。久々の更新でしたので、おやすみなさい。

3連休の予定ブログネタ:3連休の予定 参加中
野球三昧の三連休。楽天に敗北を喫しうちひしがれフラフラ飲みにいった翌日、僕は店のおやじと仕入れにいった。少し肌寒い車の中には、何故か不釣合いなスラックスと厚手のジャンバーを着込んだ任侠映画の主役がいて、くわえタバコをプカプカ、モクモク。
まだ夢から帰ってきたばかりの僕は、マンション前でクラクションを鳴らされ呼び出されるという昭和に困惑しながらも、業務用スーパーへ車を走らせた。
外環の手前、川口は安行にある何やら地下鉄のような名前の仕入先は、会員制である。僕はおやじの後ろをついて巷スーパーの2倍はあるであろうカートをひきづり、店内をまわった。
出入り口に貸し出し用のジャンバーがあるくらい店内は寒く、広い。そこにどうみても歳とったスナックのママや居酒屋の店主みたいな顔がうろうろしているんだからご苦労なこって。
ひとしきり脱帽した後に、相場の半値近くで置かれている水やら、キロ単位の冷凍ものをカートに投げ入れていく。もちろん学生時代に延々と筋切りしたブラジル産の鳥肉も。
少し前にノンオイルフライヤーを買っている僕は、そこで調理できるものを一式、ついでに圧力鍋やらフライパンをレジへ。結局諭吉一人も失わずに全てを手に入れた。
ほくほくと焼き芋の如く火照る僕の得た学びを、ぜひともこの場で共有しよう。

・美馬、則本、まーくんは反則。

・軽自動車でタバコを吸う時は窓を開けよう 。

・マンションの待ち合わせでピッピピッピとクラクションを鳴らさないでくれ。

・一般道は60キロ制限です。

・世の中にはあんなに大きなカートがあるのだね。

・客層は飲食店オーナーばかりだけど、みんなほんとに元気。

・食品だけでなく家電も安い。

・なぜか古臭くカードが使えるレジは1つしかない。

・野菜や鮮魚はここで買うものじゃなさそう。

・値段は秘密。
「先生」、好きになってことある?ブログネタ:「先生」、好きになってことある? 参加中

学校の先生になりたい人が多い。とりわけ自分の母校には、毎年多くの教育実習生が訪れているようだ。かくいう自分もこの例外ではないが、後輩には既に立派な先生になっているのも何人かいて、勝手に鼻を高くしている。そんな今日は、そんな鼻から吸い込む息がツンと冷たい仙台より、 グローバル社会と先生に関するレポートを書き下ろそうと思う。(※そもそもグローバル人材の定義が曖昧ではあるものの、本文はそこまで明確な定義をせずとも読める内容なので、各々の解釈で読んでいただきたい。)
ご存知今や社会は島国である日本であってもグローバル化が進んでいる。それは、企業の海外進出や、外国人の増加からも見て取れる。換言すれば、従来一つであったコミュニティ内に、外部コミュニティが含まれるようになり、少しずつ価値観などは変容を見せるのではないかということ。
これを多様性(ダイバーシティ)なんて綺麗な名前で呼んだりもするが、OECD(経済協力開発機構)では異質性と呼ぶことのが多い。
異質性という言葉からはどちらかといえば否定的なニュアンスが汲み取ることができ(個人的にはあまり好きではないが)結局韓国人が日本の国旗を燃やすように、衝突する要素を多分に含んだ世の中になったということであろう。
さて、そんな衝突を解消する手段としては、選択的合意形成と共同的合意形成の二つをあげることができる。どちらか一方に決めましょう(どちらかは諦めましょう)というのが前者、共同で決めて行きましょう(お互い腹落ちしましょう)というのが後者である。言うまでもなくOECDは世界的な教育方針として後者を掲げる。
これを一つの事例で見てみよう。
『ここにオレンジが1つある。これを姉妹が互いに欲して衝突している。どのように解決(合意形成)すれば良いか。』といった命題を、選択的、共同的それぞれの手法で考えてみたい。
選択的合意形成を行った場合、例えばじゃんけんなどで姉が勝ち、妹はオレンジをまるまる手に入れることが可能だ。反面、妹は諦めることになる。選択的合意形成とは、合意形成とはいえどちらか一方が涙を飲まざるを得ないものである。
対して、共同的合意形成を行った場合、話し合いにより実は姉はジャムを作りたくオレンジの皮が欲しい、妹は食べたいから中身が欲しい、ということが判明し、互いに満足する結果となった。もちろん、二人とも笑顔である。
以上より、共同的合意形成は衝突をソフトランディングさせることができるといえる。では、どのようにすれば事例の姉妹のように共同的合意形成ができるのだろうか。
答えは簡単、合意形成までに「なぜ?」を繰り返すことである。すなわち、共同的合意形成とは、「なぜ?」を突き詰めることであり、この力が衝突の増えるであろうグローバル社会には求められていると考えられるのだ。
しかし、この「なぜ?」を問う力は日本人とりわけ若者には足りないと言わている。その理由は遡れば教育にあるとも考えられていて、だからこそ先生の関わり方が非常に大切になってくると訴えるタイトルにした。
では、なぜ教育にその理由が存在するかといえば、学校の先生は絶対、或いは、みんな正しい、といった教育前提が存在するためである。これが生徒に対してどのような影響を及ぼすかというと「思考放棄」だ。
そういった前提を覆すためには、やはりなぜを突き詰める授業があって良いのだろう。もちろん、盲目的に従わせていた方が、先生にとってはストレスなく授業はできるかもしれない。しかしながら、果たしてそれで生徒がこれからの社会を生き抜いていけるのだろうか。また、先生がよく言う「科目の楽しさを知ってもらいたい」などの夢は本当に実現されるのであろうか。(社会を生き抜けなければ、科目の楽しさはまず知ってもらえない)
そのような意味で、別に英語の先生に限らず、義務教育・高等教育の部分から先生の果たすべき役割は大きなものであると考える。そして、なぜを考えられる先生は、おそらくモテるに違いない。

以上