天皇・皇后両陛下には、昨日、能登半島地震の被災地である当県の穴水町と能登町へ巡幸啓遊ばされたのですが、先月の22日に続いての行幸啓となります。

 

 

さて、昨日は、旧鳥越村である白山市別宮町鎮座・白山別宮神社の例祭奉仕のため、朝9時半に神役のFさんと出発し、1時間ちょっとで到着しました。

 

 

白山別宮神社の旧社格は、白山比咩(しらやまひめ)神社以降の白山麓の神社では唯一の郷社で、鎮座地の白山市別宮町は、そのミニ門前町ともいうべき町並みが社前に連なっており、隆盛を極めた往時を偲ばせます。

 

 

なお、社前の、手取川支流の大日川に架かる別宮大橋を渡ると、左手に道の駅一向一揆の里となり、さらに国道360号線を進むと三坂峠を越え、小松市に至ります。

 

 

白山別宮神社についてくわしく説明させていただきます。

 

 

白山七社の一つに数えられ、中宮(ちゅうぐう)、沙羅宮(さらぐう)とともに中宮三社とも尊ばれた同社は、村上天皇の応和3年(963)4月12日、白山の嶺上(みょうじょう)三神をお祀りしたことにはじまり、一条天皇の永延2年(988)8月、建物がすべて整ったとされる古社であります。

 

 

『加賀国内神名帳』には、「従五位 別宮明神」と載せられ、社地も広大で宝社(ほうしゃ)三間一面、神殿五間二面、渡殿(わたりでん)三間、小社二宇(う)、講堂五間二面などの建物があったといわれています。

 

 

神人(じにん)・衆徒(しゅと)も多く、社頭(しゃとう)はきわめて隆盛でしたが、戦国時代の混乱により社殿等も廃絶し、わずかに名跡をとどめるのみとなりました。

 

 

藩政時代には前田家の崇敬を受け、別宮奉行が補任(ぶにん)され面目を保ちました。明治8年6月に郷社に列格し、同10年3月31日、内務省より白山比咩神社の摂社(せっしゃ)に定められ、同13年6月、仏体を除き鏡を御神体としました。

 

 

ここで白山七社について説明いたします。

 

白山七社は、白山信仰の全盛期にその中心となっとなっていた、当県における本宮、金剣宮、岩本宮、三宮、中宮、佐羅宮、別宮を言いますが、七社は「本宮四社」と「中宮三社」 に大きく分けられます。

■本宮四社

○白山本宮(はくさんほんぐう)―〔古宮公園・白山市鶴来〕

○金剱宮(きんけんぐう)―〔白山市鶴来日詰町〕

○三宮(さんのみや)―〔三宮(白山比咩神社=しらやまひめじんじゃ)は、室町時代に火災で焼けたため、その末社であった三宮に本宮を遷して現在に至っている〕

○岩本宮(いわもとぐう)―〔能美市辰口にある現在の岩本神社〕

 

■中宮三社

○中宮(ちゅうぐう)―〔白山市中宮・笥笠中宮神社=すがさちゅうぐうじんじゃ〕

○佐羅宮(さらのみや)―〔白山市佐良・佐羅早松神社=さらはやまつじんじゃ〕

○別宮(べっくう)―〔白山市別宮町・白山別宮神社=しらやまべっくうじんじゃ〕

 

 

平安時代に、白山登拝の起点の馬場(ばんば)が、それぞれ加賀・越前・美濃に設けられ、加賀の馬場では「本宮四社」とされる白山本宮・金剱宮・三宮・岩本宮と、「中宮三社」とされる中宮・佐羅宮・別宮の総称として、近江の日吉七社に倣(なら)い「白山七社」の語が用いられました。

 



白山七社は、白山の禅定道(ぜんじょうどう)の一つである加賀禅定道の中心的神社となり、それぞれに勢力を誇りました。

 

 その白山七社のうち、中宮と別宮の二社の宮司を私が勤めさせていただいております。


 

白山七社の一社にして中宮三社の中核をなす神社であったので、白山別宮神社は白山信仰との深い関わりから、境内に摂社「観音堂」があります。
 

摂社・観音堂には、白山三所権現の本地仏である、十一面観音立像(白山妙理権現)、十一面観音座像(大行事権現)、聖観音像(大汝権現)をお祀りしています。

 

 

そもそもは御神体であったものを、先述のとおり、明治10年3月31日内務省より白山本宮・白山比咩神社の摂社(せっしゃ)に定められ、同13年6月、仏体を除き鏡を御神体としました。


ではありますが、現在も氏子の方達は観音堂として大切にお守りされています。特に聖観音像は室町時代の作と考証され、貴重な文化財でもあるので、ガラスケース内に安置して盗難防止のためのセンサーまで設けてあります。


 

また、このお堂は、地元では「石神さん」の愛称で呼ばれている末社の「市杵島姫(いちきしまひめ)社」です。

 


 

お社の中には巨大な石神が祀られていて、祭礼ごとに瓶子(へいし)のお神酒をこの石のご神体へと注ぎ、氏子内の鎮火を祈願しています。


 

大祭の神饌(しんせん=神様のお供え)を撮ってみました。

 

白山本宮・加賀一ノ宮 白山比咩神社の摂社でもあったため、祭典は今でも厳粛です。30年ほど前までは、氏子の方々2名が装束の狩衣(かりぎぬ)を着て、手渡しでの神饌伝供(しんせんでんく)を奉仕いただいておりました。

 

神饌調理は代々総代さんの役目で、神職が調理する以上に美しく盛り付けられております。神饌に鯛と鯉を大祭毎にお供えされておりますが、鯉をお供えするのは旧・官国弊社(かんこくへいしゃ)以外、県内でもそうありません。

 

 

午前11時の祭典開始前に社殿前で撮っていただきました。

 

 

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