「究極の短歌俳句100選」(4)女性とは | よっ、大統領!

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てきとーなこと書いてます。

「録画し損ねた!」

 

とがっかりしてた番組、

 

まだ放送されてました。

 

私が見た「(3)恋」は終わってしまいましたが、

 

「(4)女性とは」と、次は「(5)」の放送があるようです。

 

 

 

 

で、「女性とは」を観ました。

 

やはりヤマザキマリさんも風間俊介さんも

 

ちょいちょい挟む感想が鋭い。

 

そして、いくつか知っている歌・句がありましたが、

 

今回、先生の解釈を聞いて、

 

意味を勘違いしていたことに気付いたものがありました。

 

そのうちの一つ、和泉式部の歌。

 

「黒髪の

 

乱れも知らず

 

うち臥せば

 

まづかきやりし

 

人ぞ恋しき」

 

私は

 

「あの人のことを恋し乞いながら

 

髪を乱して床にうつ伏していると、

 

そばに来てくれて

 

恋乱れた黒髪を撫でてくれたあの人、

 

ああ、あの人が恋しくてたまらない」

 

という意味だと思ったのですが、

 

そうではなく、

 

「うち臥して、

 

『かきやりし人』

 

を思い出して

 

恋しく思っている」

 

そうです。

 

確かに。

 

寝乱れているようなところに

 

急に男が入ってくるのは不自然ですね。

 

「かきやりし」は、

 

おしゃれをしてデートで会っている時のことでしょう。

 

そして、その楽しかったデートを思い出して、

 

「恋しい恋しいああ恋しい」と

 

髪の乱れもそのままに

 

床に伏してギリギリと彼を思っているのでしょう。

 

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このように私の勘違いもわかり、勉強になったのに、

 

文句を言って申し訳ないのですが、

 

「女性とは」というテーマは残念でした。

 

「どうせ女性歌人ばかり選んで、

 

『女性は抑圧されていたから~』

 

とか言うんだろうな。

 

でも、男性だって、逆の意味で抑圧されてるよね?

 

そもそも、戦地に行かされるのは常に男性。

 

平和時は自由に仕事が選べるというけれど、

 

仕事をするということは、

 

社会に出て、競争をする=戦うことを義務付けられているということ。

 

短歌の世界に限っていえば、

 

男性の職業歌人の方が自由で好き放題やっているようだけど、

 

それでも、

 

『女性とは』というくくりがあるのに、

 

『男性とは』というくくりがないのは充分ではない。

 

というか、『女性』『男性』ではなく、

 

いっそ「社会と個人」というくくりの方がいいのでは?」

 

と思ったので。

 

そんなわけで、

 

設定されたテーマにはイマイチ共感できませんでしたが、

 

選ばれた作品は、どれも素晴らしかったです。

 

社会がどうあれ、

 

懸命に、命を全力で燃焼させて生き抜いた、

 

力強い「人間」ばかりで、

 

圧倒されました。

 

特に圧倒されたのは、やはり与謝野晶子です。

 

「春みじかし

 

何に不滅の

 

命ぞと

 

ちからある乳を

 

手にさぐらせぬ」

 

中城ふみ子

 

「灼きつくす口づけさへも目をあけて

 

うけたる我をかなしみ給へ」

 

も力強く、そして切なく、

 

社会を圧倒する力のある歌だと感じましたが、

 

やはり与謝野晶子の方が、圧倒的です。

 

ド直球のすごさ。

 

わかっていても手が出せず、見送ってしまいます。

 

当時のことは知りませんが、

 

たぶん、「下品」とか「卑猥」とか、

 

与謝野晶子の歌は、

 

賞賛と同じかそれ以上の非難にさらされたのではないでしょうか?

 

彼女ももちろんそれをわかっていただろうし、

 

あらかじめ、非難を受けないように、

 

「乳」という直接的な言葉を避けたり、

 

「手にさぐらせる」という能動的な言葉を避け、

 

受動的な表現に変えるとか、

 

あるいは後半を

 

「愛しい人が来るのを待っている、ああ切なく哀しい」

 

という設定に変えてしまうとか、

 

逃げを打つこともできたはずです。

 

なのに、一切、それをせず、ストレート勝負――

 

まるで「漢(おとこ)」です。

 

もはや「漢(おとこ)」です。

 

作品自体も生き生きとして素晴らしいですが、

 

いわゆる情緒を振り切って、

 

自分の思い・自分の歌を貫いた、

 

潔い作者の人間性にも魅了されます。

 

今回、紹介された作品の中で、

 

一番心に残ったのは、やはり、与謝野晶子のこの歌でした。

 

次点は二つ。

 

一つは晶子のライバルの山川登美子の歌です。

 

「後世は猶

 

今生だにも

 

願はざる

 

わがふところに

 

さくら来てちる」

 

奇しくも、作中に「さくら」があり、

 

晶子の先の歌と同じく「春」の歌ですが、

 

同じ「春」なのに、対照的な内容です。

 

一方は春を謳歌し、欲望を高らかに解放しています。

 

が、登美子は、

 

「今も未来も何も願わない・・・

 

欲望など、ない」

 

というのです。

 

そんな彼女のふところ――胸に、

 

さくらが来て、散る。

 

ライバルの女性が

 

その胸の「乳」を「愛しい男にさぐらせ」る春、

 

登美子の胸では、さくらが散っていくのです・・・

 

それでも、登美子の歌には「可哀想な」印象がありません。

 

悟りを開き、達観したような、

 

むしろすがすがしさすら感じさせられます。

 

そして、読後に残るのは、

 

散りゆく桜の美しさ。

 

切腹する前の武士は、彼女と同じ心境だったかもしれません。

 

「女性とは」というカテゴリーで紹介された歌ですが、

 

与謝野晶子には「漢(おとこ)」、

 

山川登美子には「散り際の武士」を感じました。

 

素晴らしい歌は性別を超えるんですね。

 

もうひとつの次点は、葛原妙子

 

「早春の

 

レモンに深く

 

ナイフ立つる

 

をとめよ素晴らしき

 

人生を得よ」

 

早春、レモン、ナイフ。

 

不穏で未熟で、甘くないものばかり並べて、

 

まだ若く、未熟で、危なっかしい若すぎる女性「乙女」に、

 

「素晴らしき人生を得よ」と呼びかける、

 

不安定さに惹かれました。

 

「不安定」というと、悪いイメージもあるけれど、

 

「完成していない」がゆえの、

 

「おおいなる可能性」もあるのです。

 

不安定でいいから、

 

私もあの頃に戻りたいな、と

 

この歌を読んで思いました(笑)

 

 

 


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