2019年11月25日の愛媛県松山市歴史散策の続き。
「伊佐爾波神社」の続き。
伊佐爾波神社(その1)のレポ
回廊を更に進むと、奉納絵馬が並んでいました。
こちらの絵馬は、騎馬武者。昭和9年の銘があります。
こちらは、湾内と船が見えますが…日露戦争の旅順の攻防を描いた絵馬のようです。明治39年の銘があります。
こちらは、佐々木高綱、宇治川の戦いを現した絵馬のようです。昭和14年。
こちらは、文政12年奉納の絵馬。荷車に鉢植えの植木が載せられた構図ですね。
虎を抑え込む猛者。文政12年の銘。
この絵馬は「和藤内の虎退治 文政12年(1829) 豫洲 今治 山本雲渓」。
近松門左衛門の人形浄瑠璃の名作「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」に出て来る、父は中国人、母は日本人である「和藤内」という人物が主人公で、清に滅ぼされた明の復権運動の物語で、全部で五段に分かれていますが、その二段目に虎狩りが出て来ます。
こちらは、「四十七士像」。赤穂浪士を描いた絵馬のようです。
こちらは、合戦の様子のようです。
こちらも、騎馬武者。
回廊を進みます。
「伊佐爾波神社」の本殿。
お神輿もあって…
朱の社殿がキレイですね~
「伊佐爾波神社」の正面、参道・石段。
「伊佐爾波神社」のお参りを終えて、道後温泉方面に進みます。
すると、町家が見えて来て…
こちらの町家には、酒樽の看板が!酒屋さんのようですが、渋か~♪
更に進むと、右手に、「時宗 寶厳寺(ほうごんじ)」と刻んだ石碑が見えて来ます。
「宗祖 一遍上人 御誕生旧跡」とあります。
石碑の所で右折して、路地を進んで…
路地をしばらく歩くと、お寺が見えて来ました。こちらが、「宝厳寺」。
門前には、「一遍上人御誕生舊跡」と刻まれた石碑と…
「南無阿弥陀仏」と記された石碑があって…
由緒書き「一遍上人の誕生地」
「宝厳寺」は一遍誕生の地と言われ、寺伝によると、天智天皇7年(668)斉明上皇の勅願で、国司越智宿弥守興が創建、当初は法相宗に属し、その後、天台宗に転じ、時宗が隆盛し弟子の仙阿がここに住むようになって、正応5年(1292)寺は再建され時宗に改めたとあります。
時宗の開祖一遍は、河野通広の第二子として延応元年(1239)に生まれ、幼くして僧門に入り、文永11年(1274)時宗を開き、翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀仏」と記した賦算を始めました。
弘安2年(1279)信濃国佐久郡で念仏踊りを始め、正応2年(1289)神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し、一所不在、捨聖(すてひじり)、遊行上人と尊崇されました。
「一遍上人御誕生旧跡」の碑は、河野一族の得能通綱が建立したと伝えられています。
一遍上人は、伊予の出身だったんですね!
山門。楼門のようですね。
山門をくぐると、句碑がありました。
こちらは、正岡子規の句碑でした。「色里や 十歩はなれて 秋の風」。
明治28年10月6日、快晴の日曜日だったので、子規は同居の漱石と道後へ吟行、その日のことを記した「散策集」に、「宝厳寺の山門に腰うちかけて」と前書きしてこの句があります。
文字は、句集「寒山落木」の自筆拡大です。
こちらにも歌碑があって…
この歌碑は、斎藤茂吉。「あかあかと 一本の道 通りたり 霊剋るわが 命なりけり」。
茂吉の第二歌集「あらたま」(大正10年刊)巻頭六の「一本道」の第一首。
「霊剋る(たまさわる)」は「命」「吾」などにかかる枕詞です。
当寺との関わりは、昭和12年5月12日、茂吉が参拝したことによりますが、この歌は、東京代々木ヶ原の斜陽のイメージに孤独な者の一筋の人生行路を重ねたものと言われ、歌人山上次郎は茂吉の遺髪を受けてここに納めました。
文字は茂吉自筆です。
「宝厳寺(その2)」に続く。
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)
愛媛県松山市桜谷町173
宝厳寺(ほうごんじ)
愛媛県松山市道後湯月町5-4
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