馬の博物館(その2)~神奈川県横浜市中区の博物館 | 九州下町おやじの珍道中

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2020年8月下旬の横浜根岸散策の続き。

 

馬の博物館」の続き。

 

 

馬の博物館(その1)のレポ

 

 

 

 

 

館内を進むと、お馬さんが♪馬小屋のようですが…

 

 

 

 

その隣には、昔の家が再現されていました。家の中の土間のようです。

 

 

 

 

こちらは、「曲り家(まがりや) 菊池清之助宅(一部移築)」。

旧所在地は、岩手県遠野市松崎町駒木。

この民家は、天保年間に建造されたと言われる遠野地方の中規模の曲がり家で、規模によって異なりますが、土間(にわ)を挟んで馬屋と台所・座敷の一部を再現したものです。

 

 

 

 

移築・再現された家を見るのも、なかなか面白いな~♪

 

 

 

 

大東亜戦争 軍馬祭ポスター

昭和17年(1942)、上野動物園で挙行された軍馬慰霊祭のポスターで、日中戦争が拡大し軍馬の犠牲が増大するにつれて、軍馬を弔う軍馬祭が各地で行われるようになりました。

 

 

 

10月24日は、靖国神社秋季例祭の翌日であり、軍馬祭が戦没者の慰霊・顕彰に準じる位置付けであったことが窺えます。

 

 

 

こちらは、「軍馬凱旋記念蹄鉄」。野戦重砲兵第五旅団帰還部隊、昭和14年(1939)。

中国戦線から帰還した記念の蹄鉄。アジア・太平洋戦争では、70万頭余の軍馬が動員されたと推定され、ほぼ全頭が命を落とし日本に帰ることはありませんでしたが、愛馬思想の高まりを受けてか、一部の健康な馬は帰還させていたようです。

 

 

 

 

こちらは…「愛馬進軍歌」とあります。「藤原義江吹込み」「ビクター」ともありますが…💦

昭和14年(1939)のレコードポスターだそうです。

 

 

 

 

愛馬進軍歌 絵本」昭和14年(1939)発行

 

 

 

 

神奈川県動物愛護会のパレード(『動物愛護の日写真帖』より

 

 

 

 

軍馬丙功章」(上)、「軍馬甲功章」(下)。

 

 

 

 

種付合格証」明治43年(1910)

民間の牝馬1号が、国有種牡馬ファリエロ号との種付を認められた証書で、国有種牡馬と荒廃する場合、牝馬も体高約136.3cm以上を基準とし、1号は約143.9cmの為、合格したと思われます。

 

 

 

1号は洋種と在来種との雑種とみられ、更に洋種と種付けする交配サイクルにより、軍需に適した馬が生産されました。

 

 

 

挫切鋏(ざせつばさみ)」

皮膚を切開後、睾丸以下の精系を挟んで切除する去勢器で、日露戦争後、馬匹去勢法が本格的に運用されると、種牡馬(しゅぼば)検査法の基準=体高約136.3cm以上を満たさない牡馬な去勢されました。

 

 

 

在来種は136cm未満が大半のため種牡馬から外され去勢の対象となる一方で、洋種や雑種が種牡馬となることで、大型化が図られました。

 

 

 

こちらは、「小金駈騎馬之人数」「勢子」「与力同心」の人数が記されている書物ですが…

 

 

 

 

この書物は、「小金御鹿狩之書付」。

享保11年(1726)現在の松戸市周辺で実施された8代将軍徳川吉宗による猪狩の記録で、「駈騎馬(かけぎば)」は騎乗して獲物を追い込んだ後、槍を使い猪や鹿を仕留める役、「勢子」「与力・同心」は獲物が逃げないよう周りを囲み壁になったり、追い込んだりする役。

この時は、鹿470、猪12、狼1を仕留めています。

 

 

 

 

こちらの書物は、「吾妻鑑 巻第十三」。

紙本木版墨摺で、正安2年(1300)頃成立、寛永3年(1626)刊。

富士の巻狩で、源頼朝の嫡子源頼家が初めて鹿を仕留めた時の話のページになるそうです。

 

 

 

 

馬車の展示もあって…

 

 

 

 

お馬さんの写真も…

こちらは、「狼来襲のための首鈴(軍馬補充部雄基支部)」昭和6年(1931)撮影。

 

 

 

 

ニホンオオカミの説明もありました。

絵は、かのオランダ商館の医師シーボルトの「日本動物誌」のもので、犬との外見上の違いは、額の凹凸が少ない、肩幅が狭い、胸の真下に前肢があるなど。

地面から肩までの体高は推定56~58cmと、70cmを超すユーラシア・アメリカ大陸のオオカミと比べて小さく、図の狼は43cm程と推定され、かなり小さいです。

 

 

 

 

こちらの書物は、「和漢三才図会巻第三十八」。

紙本木版墨摺、寺島良安、正徳2年5月序。

江戸時代の百科事典「和漢三才図会」には、狼の尾を馬の胸前につないでおくと、邪気を避け、馬が物に驚かなくなるとあり、他の伝承では、狼の牙を身に着けると、どんな荒馬も狼の気を恐れ、自由に馬を扱えるようになるといい、狼の恐ろしさが、悪いものを取り払うと観念されたのでしょうか…

 

 

 

 

こちらは、「旧津軽藩畜産記録」。明治時代写。

馬産地。津軽藩領の小栗山村、相馬村、紙漉沢村、五所村(いずれも現在の青森県弘前市)で放牧していたが馬が狼に襲われました。特にまだ体の小さい子馬が格好のターゲットになっていました。

 

 

 

狼に対しては、鉄砲で駆除する他、毒殺や落とし穴を掘って駆除。狼は馬の天敵なのです。

 

 

 

古そうな屏風も展示されていて…

 

 

 

 

この屏風は、「富士巻狩図屏風」。

建久4年(1193)源頼朝が御家人を集めて行った、富士裾野での大規模な巻狩を題材とした屏風。右隻第六扇で、傘持ちを従えて芦毛の馬に騎乗しているのが頼朝でしょう。

 

 

 

馬、犬、猪、鹿、猿、熊、狐、狸、鷹、鶴、雉、雀などが入り乱れ、右隻では猪鹿狩を、左隻では鷹狩を中心に描いています。

 

 

 

富士巻狩図屏風」の左隻。

 

 

 

 

こちらは、「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん) 巻十上」。

紙本木版墨摺。喜多村信節撰、文政13年(1830)序、明治13年(1880)刊。

国学者喜多村信節の随筆には、様々な本を引用しながら、犬が鷹の餌として利用されていたことが記されています。

 

 

 

江戸時代、鷹の餌用として村に犬を飼育させていた藩もあり、猟犬もいれば、鷹の餌にされた犬もいました。

かなりの誇張もありますが、昔は町で犬を見つけたら、殺して食べていたと言います。

 

 

 

「北斎漫画 十四編

紙本木版多色摺。葛飾北斎著、文化11年(1814)成立、明治45年(1912)刊。

オランダやポルトガルから唐犬(洋犬)が輸入され、鷹狩や猪鹿狩などの際に猟犬として使われていました。確かな品種は不明ですが、風貌からグレイハウンドのような大型犬だったと考えられます。

 

 

 

議場に珍重され、将軍や諸大名から引っ張りだこで、大名屋敷の跡地から大型の洋犬が出土しています。

 

 

 

和漢三才図会第四十一 水禽類

寺島良安書、紙本木版墨摺、正徳2年(1712)5月序。

鷹狩では鶴が最上の獲物とされ、贈答品でもありました。徳川将軍家は鷹狩で仕留めた鶴を大名に下賜し、拝領した大名は親類、家臣、幕臣などに吸い物にして振る舞っていました。

 

 

 

百科事典「和漢三才図会」には、鶴は美味しいこと(但しタンチョウは不味い)や鶴の血を温かい酒に入れると良いと書かれています。

 

 

 

武用弁略 巻第八

紙本木版墨摺、木下義俊編、貞享元年(1684)序、弘化3年(1846)補刻。

江戸時代の兵法書で、展示は鷹の部位を図解した箇所。「鷹」はタカ科の総称で、鷹狩で使われていたのは、オオタカ、ハイタカ、ハヤブサなどで、オオタカはカモ、キジ、サギなど、小型のハイタカはヒバリなどを捕まえるのが得意とされています。

 

 

 

 

また別の古そうな屏風があって…

 

 

 

 

この屏風は、「鷹狩図屛風」。

紙本金地著色、六曲一隻。江戸時代前期。

騎乗した若殿の前を、鷹匠が鷹2羽と、犬牽(いぬひき)が白と黒の犬2匹を連れて鷹狩に赴いています。

 

 

 

狩りは、獲物の鳥に向かって鷹を放ったら、馬を走らせて鷹が仕留めた鳥を捕獲する方法で行われ、鳥が草むらなどに逃げ込んだ場合には、犬を使って鳥を追い込み捕まえました。

 

 

その3」に続く。

 

 

 

 

馬の博物館

神奈川県横浜市中区根岸台1-3

 

 

 

 

根岸森林公園

神奈川県横浜市中区根岸台

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/negishi/

 

 

 

 

 

 

 

 

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