話の内容・西方の村・彼女の勤務校

当記事より「高瀬露さんが宮沢賢治のもとを頻繁に訪れるようになった、それに対して賢治がどういう行動を取ったか」という「逸話」について感想や意見を述べていきたいと思います。

話の内容を整理します

露さんが賢治と知り合う・羅須地人協会の活動に関わることになったきっかけなど文献によってバラバラであったりはっきり語られていない部分もありますが、逸話の内容は概ね以下のような感じとなっています。

小学校の教員をしている女性(露さん・文献によっては仮名を付けられている)が賢治の知人を介して羅須地人協会のメンバーとなった。
賢治は明るくよく気のつく彼女の来訪を歓迎していた。
やがて彼女は賢治に恋愛感情を抱き、何かと理由をつけては賢治のもとを訪れるようになった。
ついには1日に2度も3度も昼夜を問わずというかたちになり、協会の他のメンバーは彼女に遠慮するようになってしまった。
彼女の頻繁な訪問に辟易した賢治は居留守を使う・押し入れや別の部屋に身を隠す・顔を汚して応対する1・ある難病に罹患していると騙るなどしたが、彼女の訪問は止むことはなかった。

話を一読すると、他人事ながら彼女の「情熱」に圧倒されたり対応に四苦八苦している賢治に同情したりしてしまいます。

「女性の素性ときっかけ」を整理します

悪評系の「頻繁な訪問をした女性の素性・彼女が賢治や協会に関わるきっかけ」を森荘已池と関徳弥の文献からそれぞれ挙げて参ります。

●女性の素性(職業・住まいなど)
森荘已池:「花巻の西方の村で小学校教員をしている」
関徳弥:「或る女の人」「賢治を慕ふ女の人」という表現のみ
●女性が協会に関わるきっかけ
森荘已池:女性が勤務先で稲作指導に来た賢治を見かけ、ある協会員を介して協会に関わる
関徳弥:「賢治を非常に慕ひ、しばしば協會を訪れ」との記述のみ

関徳弥は「賢治のもとに集まった人の中にはこういう人もいた」という程度の伝え方にとどめている感じです。森荘已池は女性の職業・勤務先・協会に関わるきっかけをある程度具体的に伝えています。

逸話をよく読んでみると…

それでは、森荘已池の文献をもとに「頻繁な訪問」について考えていきたいと思います。

該当箇所を引用します。

その協会員のひとりが、花巻の西方の村で小学校教員をしている女の人を連れて来て宮沢賢治に紹介した。その女の人は村へ稲作指導にきた賢治を彼女の勤めている学校で、はじめて見たのであった。そののち彼女はときどき賢治を下根子の家に訪問するようになった。

(中略)

彼女の好意に溢れた贈物は、だんだんと彼を恐縮させ、精神的に息づまらせて行った。もちろん、そのたびごとに彼は本とか、花とか何かしらきっと返礼はしていたがしばらくすると、どうやら彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。

森荘已池「宮沢賢治と三人の女性」 1949(昭和24)年

文章を何度も読み返してみると矛盾している部分が見えてくると思います。そもそも「花巻の西方の村」「遠いところ」とは何処のことなのでしょうか。

「西方の村」と彼女の勤務校

「花巻の西方の村」とはどこなのか・「女の人」=露さんの当時の勤務校を、上田哲さんの文献から引用します。

西の方の村というのは、一九五四年(昭和29)四月一日の市制施行にともなって花巻町ほか湯本、矢沢、宮野目、太田の各村と合併するまでは湯口村といっていた地域であろう。村の小学校というのは、寳閑尋常小学校であった。 当時の所在地名は湯口村字鍋倉で一八八九年(明治22)の市町村制施行以前は鍋倉村という小さな村であった。現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺りと聞いているが、学校は廃校になって跡形はない。森は、遠いところと彼女が学校の附近に住んでいたように想定しているが、湯口村の何処に住んでいたかによって違うが花巻駅までは四キロから五キロ、賢治が住んでいた羅須地人協会までは五キロ以上六キロは離れているので、 何もしないで交通機関のない当時往復するだけで二時間前後はかかるのである。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年

旧ブログ運営時は宝閑尋常小学校の所在地を上田さんの「現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺り」という記載をそのまま受け入れ、記事の内容もそれに従った記述をしておりました。その後読者の方から「熊堂古墳群付近にあった小学校は別の学校で、宝閑尋常小学校はもう2〜3キロほど離れている」旨のコメント2を頂きました(感謝!)。

宝閑尋常小学校のあった湯口村鍋倉・現在の花巻市鍋倉がどの辺りかをGoogleマップで検索し結果を以下に貼付しました。

旧ブログに頂いたコメント通り、鍋倉地区は花巻南インター・熊堂古墳群より北西に3キロほど離れている場所と分かりました。地図を拡大すると「宝閑」という地名も見えてきます。露さんの勤務校である宝閑(寶閑)尋常小学校はこの付近なのだろうかと考えました。この場所であれば羅須地人協会=賢治の住まいから7〜8キロほど離れてしまうことになりますね。

なお、賢治と露さんの「真実」を綿密に調査・研究されているブログ「みちのくの山野草」様が記事「「上鍋倉」とは「寶閑小学校」の辺りだった」において宝閑尋常小学校の詳しい所在地を公開されています。その地点に印をつけたGoogleマップを以下に貼付します。

「宝閑」より少し南西の地点が所在地だったのですね。

宝閑小学校は1968(昭和43)年3月(昭和42年度)を以て廃校3、2023年8月現在の跡地(上記地図の印をつけた地点)はかつて学校があったという形跡すら残っていない状態4です。

1日の大半を賢治の住まいからかなり離れた場所で過ごす状態で「頻繁な訪問」ができるのか。それは次記事で考えたいと思います。

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  1. 文献により顔につけたものが「墨・炭・灰」とバラバラに記されていてはっきりしないため、このような表現とさせて頂きました ↩︎
  2. 併せて当時付近を通っていた「花巻電鉄」という軽便鉄道の情報も頂きました。本当に感謝しております ↩︎
  3. 花巻物語事典」様>記憶する風土 > 岩手日報記事>「名残惜しみ離散会」参照 ↩︎
  4. Googleマップストリートビュー閲覧 ↩︎
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