儀府文献が描く「その女性」

さて、改めて儀府成一の文献「やさしい悪魔」「火の島の組詩」に対する意見・感想に入りたいと思いますが、儀府文献は前記事でも書いた通り「読み応えがあり過ぎる」内容、特に「やさしい悪魔」は森荘已池の文献を大きく膨らませて派手なデコレーションを施したような内容なのです。

それらを最初から細々と取り上げていくと次第にただのいちゃもんレベルになっていく危険性もありますので、「特に気になった部分」を書いていきたいと思います。

「その言葉」を使う必要があったのか

まずは「やさしい悪魔」より、上田哲さんも「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」で指摘していたこの一節。内村康江(高瀬露さん)が自分への好意を募らせアプローチを加速させてきたことに気づいた賢治の描写です。

賢治が意識したとき、相手は目をぎらぎらさせて、いや目ばかりか全身を燃えたぎらせて、ぶつかりそうな近さに立っていた。それはもはやまぎれもなく、成熟した性器を完全にそなえたひとりの異性であった。賢治は戦慄した。今にもおっかぶさって来そうなその性器に——性器という感覚に。

儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」 芸術生活社 1972(昭和47)年

初見時、即座に頭の中に浮かんできた言葉は「気持ち悪い…」でした。立て続けに目に入る「性器」という単語のせいで「今自分が読んでいるのは『宮沢賢治の評伝』だよね?」と戸惑ったことも覚えています。

上田さんは「賢治の心情の内奥に立ち入っている。これは想像というより下劣な儀府の心情の表現にすぎない」と強い言葉を使って批判しています。

全くその通りだと感じます。この一節だけ見たら官能小説か何かと勘違いしそうです。ただただ下品としか言いようがありません。内村康江の情熱に圧倒されている賢治を描くのにわざわざ「性器」なんて言葉を用いる必要があるのでしょうか。

こんな言葉を使ったせいで、多数の読者が内村康江に対し「隙あらば賢治に襲いかかり『既成事実』を作ってしまいかねない性格の女性」という印象を抱いてしまったのではないでしょうか。

いや、そういう目的があるからこそ「性器」なんて言葉を3回も使ったのかも知れません。

その現場を見たんですか?

もうひとつ「やさしい悪魔」より。賢治が「自分との結婚の準備を進め始めた」内村康江を避ける行動を取るようになったという場面の後にくるこの場面。

前後の状況ははっきりしないが、あるとき賢治は、内村康江に蒲団を贈った。なにかの返礼としてであった。(中略)蒲団というからには、座蒲団でもなければ、ネグリジェとかパジャマのようなものではなくて、やっぱりきちんとした、それも若い未婚の婦人用の美しい蒲団だったにちがいない。その前に相手から何を贈られ、どんな状況でのそれは返礼だったのかも不明だ。だが贈り主は、選ばれた、かくれもない立派な独身の男性だった。それを受ける女性も、まだうら若い未婚の女性だった。しかも彼女の胸には、すでにその人への愛が芽ばえていて、恋愛から結婚への過程をたどっていた。 折もおり、その人から、如何にもやさしい心がいっぱいこもっていそうな、ふわりとした、上品な趣味を思わせる優雅な蒲団が届けられたのだ。 内村康江の胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。叫びながら今までの迷いを一擲して、宮沢賢治との結婚を敢然と決意した。いや、かっきりと決意をあらたにしたのは、このときだったと思われる。

儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」 芸術生活社 1972(昭和47)年

まず、賢治が内村康江に贈ったという蒲団がどんなものだったかという点。若い独身女性が喜びそうな美しい蒲団だと最初から決めつけています。「美しい蒲団だったのかもしれない」ならともかく「美しい蒲団だったにちがいない」です。そして文章が進むと「如何にもやさしい心がいっぱいこもっていそうな、ふわりとした、上品な趣味を思わせる優雅な蒲団」と具体的になっています。

そして、初見時に思わず失笑を漏らしてしまった「蒲団を受け取った内村康江の反応」。

胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。

断定調で並べ立てているため非常に臨場感がありますね。「パアァ…」という効果音とキラキラのエフェクトをバックに満面の笑みを浮かべる内村康江の姿が浮かぶようです。

そしてこの後、この文が続きます。

しかし、それとは気のつかない賢治であった。私はこのときの賢治ぐらい、間のぬけた、こっけいな賢治をみたことがない。そしてそれ以上に、痛々しい賢治も。

儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」 芸術生活社 1972(昭和47)年

ここまでまとめて、儀府に問いたいです。

「いや、実際に見たんですか? 賢治が贈った蒲団も浮かれた様子の内村康江も何も気づいてない様子の賢治も、その目で見たんですか? それとも本人たちに聞いたんですか?」

「その場にいて実際に見た・本人たちに聞いたとは書いていない」と言われればその通りですが、大半の人は一読したら「儀府は一連の様子を実際に見ていた・本人たちに一連の話を聞いたんだ」と思ってしまうはずです。

しかし前記事でも述べたように儀府は賢治が宮沢家別宅で独居自炊の生活を送っていた時期には面識どころか手紙のやりとりすらしていない状態で、この騒動にも立ち会っていないのです。内村康江のモデルである露さんは言うまでもなくといった感じですね。

その考えを聞いたんですか?

やさしい悪魔」の章は「ライスカレー事件」の記述を経て「聖女のさましてちかづけるもの」という賢治の殴り書きに内村康江を結びつけるような記述、「賢治にとって内村康江とは何だったのか」という記述、そしてまとめとして「儀府の内村康江に対する考え」の記述があります。

まとめの記述に対する意見・感想は次記事に回させて頂き「火の島の組詩」に対しての意見・感想に移ります。

この章では内村康江は「聖女のさました人」と称されています。次に引用するのは、宮沢賢治がCという女性1に出会い彼女の住む伊豆大島へ赴いたことを知った「聖女のさました人」=内村康江がどう考えどういう行動を取ったのかを記した箇所です。

Cが賢治を訪ねて花巻へきたこと、賢治がC兄妹の招きに応じて大島へいったことー普通ならばだいたいこの辺の動きで断念し、おとなしく身をひきそうなものだが、聖女のさました人(引用者注・内村康江のこと)は逆だったらしい。相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。それにもまして、賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、打算からやったことだと邪推し、 恋に破れた逆恨みから、あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、最悪の状態に陥ったのだと考えられる。あれほど温厚で、人のためなら自己犠牲も辞さなかった賢治が、冤を雪ぐ、というほど大げさなものではなかったにせよ、わざわざ関登久也の家まで出かけてこの件に触れたのは、よくよく腹にすえかねたからだったと思われる。彼女は不純な女だと傍人に漏らしたというのも、こんな事情に由るものだったに相違ない。

儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」 芸術生活社 1972(昭和47)年

相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった」などと、内村康江のCに対する嫉妬心やその理由をまたしても断定調で書いています。

内村康江の職業は小学校の先生です。1920年代の小学校教員の給料が平均どれくらいなのかを調べてみるとそんなに恵まれたものではなかったようです。女性であればさらに低い額になるであろうし、働いて食べるのが精一杯というのも確かだったかもしれません。しかし…もう一度儀府に問いたいです。

「いや、その考えをどうやって知ったんですか? 内村康江から直接聞いたんですか? これもあなたの下劣な心情を表現しているだけではないですか? あなたのやっていることこそ邪推じゃないんですか?」

Cという女性を「名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性」とすることで内村康江に惨めなイメージをつけようとするのを忘れないところはさすがだなと思いました。

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  1. この女性も名前を公にされていますが、当記事ではイニシャル表記のままとさせて頂きます。 ↩︎
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