∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-2>「名古屋市守山区中志段味天白元屋敷遺跡」について

2014-12-17 17:00:17 | A-2 >桓武平氏水野氏

 この度、水野氏史研究会会員で、「志段味の自然と歴史に親しむ会」世話人の高木傭太郎(愛知東邦大学非常勤講師)氏から、水野氏史の研究にも深く関連する貴重な情報をお寄せ頂き、拡散を望まれております。
 
 志段味地区を支配した水野一族は東谷山東、瀬戸の水野村(愛知県瀬戸市)の豪族であり、桓武天皇の孫高望王の三男鎮守府将軍平良兼の末裔と云われています。志段味に最初に城を築いたのは水野小(又)太郎良春または水野雅楽助良春(うたのすけよしはる)で、両者は多分同一人物と思われますが、これまでの研究では「志段味城」の場所の所在とされる場所は複数の説があり、詳細は不詳でした。

 今般、「高木氏の提案」が改訂されネット上で閲覧出来ますので、是非ともご高覧いただきたくご案内致します。

 以下に、高木氏からのメールを転載しますので、FNS(「Facebook」、Twitter)、home page,blogなどでシエア頂きたく御願い致します。また併せて、日本中世史の研究者および瀬戸・東濃の焼き物・茶道研究されておられる方々には、貴重な文化財保護の立場から、啓蒙頂きたく本会からもお願い致します。


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水野氏研究会御中

水野氏の館である可能性の高い遺跡です。
以下の情報を流していただければ幸いです。
高木傭太郎

天白元屋敷遺跡の見学会とシンポジウムについて、12月中に開催をするということで、
準備がすすめられていましたが、区画整理を取り仕切る公社がストップをかけたようで、
いまだに日程すら決まっていません。
 そこで、「志段味の自然と歴史に親しむ会」として行動を起こすことにしました。

 さる13日に栄の名古屋市教育館で、名古屋市主催で「歴史の里」の講演会とシンポ ジウムが開催されましたので、その会場で、添付しました「志段味の魅力は古墳だけじゃない」というチラシと私の提案を、参加した200名の市民と、河村市長・文化庁の講師・愛知県教育員会の講師に渡しました。
私の提案は、市民 ・市長にもこの遺跡の意義がわかるようにと、書いたものですが、現状では、まもなく破壊されてしまいますので、研究者の皆さんに情報を流し、個別に見学を申し入れて見ていただきたいと思います。

 連絡先の野田農場の野田照美さんに連絡を取れば、発掘現場と交渉をしていただけます。

 この問題に関心のありそうな、研究者・研究団体にこの情報を流していただくようお願いいたします。
                                 高木傭太郎
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[添付ファイルおよび参考資料]

●「志段味の自然と歴史に親しむ会」のホームページ>


●「志段味の自然と歴史に親しむ会」「Facebook」


川湊・居館・志段味城 いま甦る中世の天白・元屋敷遺跡
 ★瀬戸・東濃の焼き物を積み出した川湊の「居館(城)」遺跡(名古屋市守山区中志段味天白元屋敷遺瀬戸・東濃の焼き物を積み出した川湊の「居館(城)」遺跡(名古屋市守山区中志段味天白元屋敷遺跡)を中核にした、「自然とお茶文化の里・志多味苑(仮称)」構想の提案
         「志段味の自然と歴史に親しむ会」世話人  高木傭太郎



はじめに

 去る11月8日の中日朝刊の記事によりますと、現在発掘調査中の名古屋市守山区中志段味天白元屋敷遺跡から、最大東西110メートル南北100メートルの可能性のある有力者の居館の溝(名古屋市域最大)が出てきているとのことです。
 また、発掘の調査員から私が直接うかがった話によれば、出土した三万点余の遺物の内、6割が鎌倉期末期から江戸期初頭のものであり、瀬戸・東濃の焼き物が多く、その多さからして、この館は、庄内(土岐)川の積み出しの川湊の施設であるとのことでした。
 遺跡の全貌を知るには、調査報告書の公表を待たなくてはなりません。しかし、今回の調査は、開発を前提にした記録調査で、計画では来年三月までに調査を終え、この遺跡は調整池建設のために破壊することになるとの説明でした。つまり、市民や研究者がこの遺跡の全貌を知り、その価値の検討を開始する頃には、この遺跡は破壊されていることになるという日程で、事態は進められています。
 私は、取りあえずは、この調査を中断状態に留め、調査報告書の公表後に十分な時間を取って、広く市民・研究者の意見を求め、この遺跡の持っている潜在的価値を見定めた上で、開発か保存かの方針を決めるという手順を踏むべきであると考えるものです。
しかし、こうした手順が全く期待できない状況で進んでおり、しかも緊急を要しております。そこで、この遺跡の破壊を止めるのは、この事業の直接の執行者である中志段味の区画整理組合と公社のみでなく、この事業の管理責任を持つ市当局の直接の判断を求める以外にはないと考えました。
 そして、その際の判断材料にしていただくために、以下の二つの文章を提出することにいたしました。
一つは、この天白元屋敷遺跡が、現在の時点でわかっている「瀬戸・東濃の焼き物を積み出した川湊の居館(城)」という点だけからしても、従来の志段味地区のイメージを変えると同時に、様々な点で歴史の認識の変更をせまる画期的遺跡であり、今後歴史の解明や書き換えを通して、市民の歴史認識に大きな影響を与える貴重な遺跡であることを一歴史研究者として述べたいと思います。
二つは、現在の計画に対して、遺跡の保存を中核にした「自然とお茶文化の里・志多味苑(仮称)」構想を提案したいと思います。

(1)天白元屋敷遺跡の「川湊の居館(城)」は画期的発見
この遺跡が、画期的な発見といえる第一の理由は、志段味の歴史のイメージを大きく変えることです。私は、「名古屋のチベット」という言葉を聞いたことがありますが、志段味地区は、主要な交通道から外れた辺鄙な場所であり、貧しい農村地帯で、古墳や民俗文化が残されているものの、文化的後進地帯であったとのイメージが定着しています。
今回の発見は、そのイメージは江戸期の歴史によってつくられたもので、それ以前は、経済・文化の先進地帯であったことを明らかにすると思います。
庄内川の流通については、これまでの歴史では全く触れられていません。その中流域に名古屋市域最大級の居館(城)があったことが驚きといえるでしょう。
従来の尾張の流通は、伊勢湾沿岸の湊と木曽川・五条川流域と鎌倉街道を軸に考えられてきました。そのため、尾張の歴史もこの西南部で描かれ、尾張東部と志段味地域は、歴史のない経済・文化の後進地帯とのイメージが定着しました。
しかし、今回の遺跡の発見は、庄内川の志段味地域までは、船運が盛んな重要な流通路であったことを明らかにしました(これより上流の定光寺付近は渓谷であり船ではいけません)。江戸中期まではまだ新川は作られていませんので、五条川は庄内川と合流しており、この五条川・庄内川が、尾張平野の物流の大動脈であったと思われます。五条川は、伊勢湾沿岸部と結ぶだけでなく、木曽川とも結ばれており、長良川と木曽川の合流地点であった墨俣とも結ばれていた交通路であったことは中世の旅の記録に出てきます。
志段味の川湊の重要性は、瀬戸・東濃の焼き物地帯を後背地に控えていることにあります。瀬戸・東濃の焼き物は、生産地の窯址については多数発掘されて研究がすすんでいるものの、どこから運びだされ、流通がどのように行われたかについては、従来明らかになっていませんでした。この時期の瀬戸・東濃の焼き物は、一般には「古瀬戸」として知られ、中国・朝鮮の焼き物の代替品として釉薬をほどこした唯一の国産高級品として普及したもので、全国の城館遺跡や都市遺跡から多数出土しており、当時の先進文化の代表的なものです。
 この遺跡の詳細な調査が進展するならば、どの時期にどこの窯で焼かれた物が、この川湊の館を通じてどこに運ばれたかを解明することになります。それは、焼き物の流通史の解明に大きく寄与するだけでなく、志段味地区がその流通の要の位置にあった先進文化地帯であったことを明らかにすると思います。

第二の理由は、この流通に関与した館の主を通して、この時期の東海地域の政治史のみならず、全国政治史にも多くの論点を提示する可能性を持った遺跡であるという点です。それは、この遺跡から新たな歴史認識を求める話題が、今後発信されることを意味し、従来尾張西部を中心に描かれてきた歴史のイメージを大きく変えることになると思います。
 既に、鎌倉期においては、瀬戸の焼き物は、幕府権力を掌握していた北条氏の直接の支配下にあったことが指摘されています。とするなら、この遺跡の遺物の多い南北朝期・室町期・戦国期・織豊期・江戸幕府成立期においては、どのような政治権力がこの焼き物の流通に関わったかが問題となります。
まずは、この居館(城)の主(あるじ)が問題となり、出土遺跡と他の史料とをあわせて、活発な議論が展開されると思われますが、その場合、幕府・守護大名・戦国大名・信長・秀吉・家康とこの館の主との関係が当然注目されるところでしょう。
 例えば、美濃の守護土岐氏は、鎌倉期は東濃の国人領主でしたが、南北朝の動乱で足利将軍に協力し、室町初期には外様大名でありながら、美濃と尾張の重要地域の守護となります。土岐氏の出世とこうした動きをもたらした要因の一つに、庄内・土岐川の流通と焼き物の支配を想定することが必要とされるでしょう。
 その後、越前から入ってきた斯波氏が尾張の守護となりますが、斯波氏や戦国期の岩倉・清須の守護代織田家が、庄内・矢田川流域とその流通をどのように支配しようとしたか、この館の主とどのような関係にあったが、まず問題となります。そして、織田信長も、尾張統一の過程でどうような関係をもったかが、検討されることになるでしょう。
例えば、織田信長が、清須から小牧に尾張支配の拠点を移したことも、庄内川の流通と志段味の川湊から北上する陸路の重要性を抜きにしては説明できないでしょう。
信長の美濃攻略過程での庄内・土岐川流域の武将達と焼き物地帯の掌握も論点の一つです。この点については、織田信長の朱印状が残されており、その理解をめぐって既にいくつかの説が提示されていますが、この遺跡の発見により、新たな視点で再検討が行われると思われます。織田信長については、「楽市楽座」政策が有名であり、その流通政策が注目されていますが、信長政権の性格にかかわるこの問題についても、この遺跡は新たな論点を提示すると思われます。

この遺跡が画期的である第三の理由は、従来、京都・堺など関西の商人を中心に描かれてきた飲茶文化の歴史に修正をせまるものとなる点です。
尾張出身の信長・秀吉は、お茶文化に深くかかわり、堺の商人の今井宗久や千利休を茶頭にした茶会を開いたことで有名ですが、そこからあたかも彼らからお茶を「学んで始めた」というイメージが定着しています。しかし、信長・秀吉だけでなく、彼らから学んだとされる佐久間信盛・織田有楽斎・古田織部など、尾張・美濃の武将達は、以前から相当高い飲茶文化を身につけていたと考えたほうがよいことをこの遺跡は語ってくれるでしょう。
 瀬戸・東濃からの焼き物の流通にたずさわるこの館の主が、自ら飲茶文化を身に着けたことは、当然考えられることです。しかも、この地の上流には、永保寺・定光寺など、中国からの飲茶文化を流入し日本への定着に大きな役割を果たした臨済禅の名刹が多くあります。江戸時代の尾張で出版された茶の指南書には、永保寺・定光寺と内津は、銘茶の産地であると書かれています。これらの禅宗寺院が領地に植えた茶の栽培が始点となって、この地が銘茶の産地となったと考えられます。
 となると、庄内・土岐川の川湊に居館(城)を構え、大陸からの焼き物の禅宗寺院への輸送に関与していたであろうここの主が、館でも茶寄合を地域の人々と開くようになっただけでなく、さらには、高価な中国の焼き物に代わって、国産の高級茶器の初期の受容者であったことは当然考えられることです。川湊の館とこの地域は、日本の飲茶文化の揺籃の場であったと考えられるのです。
 そのことを伺わせる史料が残されています。戦国期の定光寺の記録である『定光寺祠堂帳』は、「志段味」の地名に「志談味」「志多味」の字を充てています。「人と談じながら茶を味わう」「多くの茶を味わう」の意味で、この館や志段味地域が、「寄合の茶」の盛んな場所であったからこそ、この字が充てられたと考えられます。
 その伝統は、この館の廃される江戸の初頭までは続いていたようです。中志段味の庄屋もしていた旧家に残された伝承によれば、天白元屋敷の主は、尾張の殿様にお茶を教えていたとのことです。
 尾張東部と東濃は、茶器の国産化の産地であるだけでなく、その流通に携わることとこの地に普及した禅宗寺院とお茶の栽培によって、いち早く飲茶文化を取り入れ、日本に茶の文化を定着させた重要な場でもあったと考えられるのです。この地域の飲茶文化の伝統が、信長・秀吉とその家臣達に継承され、関西の茶人と結びついて、飲茶文化の近世以降の発展をもたらしたという歴史像を提示するのに、この居館(城)遺跡は大きな意味を持つといえるでしょう。

(2)「自然とお茶文化の里・志多味苑(仮称)」構想の提案
 以上の天白元屋敷遺跡の画期的意義の踏まえただけでも、現在進行中の発掘調査は、より下層の古墳・古代遺跡の発掘調査に入る前に中断し、この中世館遺跡を破壊することなく保存することが必要であることは、明らかであると思います。
 そして、調査報告書を公表した上で、研究者のみでなく多くの市民やジャーナリズムの関心を引くために、この「瀬戸・東濃の焼き物を積み出した川湊の館」遺跡を見学し、過去の歴史が想像できるように史跡公園として整備して残すことを提案したいと思います。
 同時に、この遺跡に隣接して既に保存されることになっている、「才戸流れ」と「くろがねもちの木」の自然と一体のものとして散策できるようにするといいと思います。「自然とお茶文化の里・志多味苑」という名はいかがでしょうか。
 それは、多くの市民の関心を呼び、市民の歴史イメージに影響を与えるだけでなく、志段味地区の魅力を向上させ、区画整理事業の進行にも貢献することになると思います。


●「中日新聞」2014/11/21朝刊 記事



●天白・元屋敷遺跡のチラシ












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