ヴェルディ「仮面舞踏会」の考察 | 小野弘晴のブログ

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歌劇「仮面舞踏会」は、G.ヴェルディの第23作目のオペラで、1859年2月にローマで初演された。

この時ヴェルディ45歳(僕も今年45歳)。


長いヴェルディのオペラ創作活動の中でも、30代の半ばから40代半ばにかけての約10年は創作意欲がとても強く、一般的にいわゆる「中期」として一括りにされるこの時期のオペラだが、実際は一作ごとに違う新しいチャレンジを試みていて、ベルカントオペラの代表的な作曲家たち、ドニゼッティやベッリーニらから受け継いだ伝統と束縛から脱却し、より自由に、より個性的で密度の高い音楽表現を求めた。

そこにはヴェルディの真摯な創造の軌跡が感じ取れる。


特にヴェルディ43歳の年に書かれた「シモン・ボッカネグラ」と、その2年後に書かれた「仮面舞踏会」の2つの作品は、それまでの形(様式)にとらわれない、新鮮な音楽と劇的表現を発見しようとする強い意欲が譜面にもはっきりと見える。


上記の形を模索し始めた時期に書いたとされる「シモン・ボッカネグラ」は、その時期がまだ早すぎて充分な成果を生むことができずに失敗し、後年大きな改訂をすることに至ったが、この経験の後に完成された「仮面舞踏会」は、ヴェルディの作品ナンバーに新しい歴史を刻み、まさに「ヴェルディ後期」に向けて大きく踏み出す重要な意味を担った。


40歳になったヴェルディが確定的に決別することとなった旧来のスタイルの一つに、1820年代以来イタリア・オペラの基本的な定型として用いられてきた「カヴァッティーナ→カバレッタ形式」の形式がある。


それはアリアだけでなく重唱や合唱にもそのまま応用されたが、ヴェルディは1839年作「オベルト」以来この形を用いて、作品ごとにそれを拡大したり変化を加えながら、音楽と感情の強い密着に努力し、ドラマと歌唱の一体化を生み出してきた。


そして遂に、1853年「イル・トロヴァトーレ」と「ラ・トラヴィアータ」を最後にこの定型から脱却した。

従来の形式を基本とする限りは、より新しく、密度のある、高い劇的表現には届かないとヴェルディ自身が感じたのである。


しかしながら、長年にわたって形式とされてきたカヴァッティーナ→カバレッタ形式の放棄といっても、ヴェルディ自身にとっても簡単なものではなく、それに代わるアイディアがあったわけではなかった。


ヴェルディはまず、フランスオペラの「グランドオペラ形式」にそのヒントとアイディアを見つける。


イタリアとはまた違った伝統や形式を応用したり、舞曲リズムを用いて、今までにない音楽、つまり「かつてのイタリアオペラの形式」からの脱却という意味では新しい様式の作品となった。

それが、「ラ・トラヴィアータ」から2年後の1855年「シチリア島の夕べの祈り」だが、輝かしいイタリアの気配を残しながらも今までの伝統や形式に束縛されずに、より自由に、心情と歌唱の一体感に到達したのは、アメーリアやレナートの感情と音楽の素晴らしい一体感を得たアリアを確証に「仮面舞踏会」においてであった。


ライトモチーフの使用や対位法的な処理に加え、意識して旋律から虚飾を取り去り、ドラマや歌唱には歌謡性よりも性格性を求め、聴衆には単に興奮や快感を感じさせるものではなく、劇的な真実表現のために、より深く、より豊かな感情露出を求めた。


1853年から1859年のこの6年は苦悩や発想の転換、アイディアの捻出や様々な表現の試みによって、ヴェルディにとって前例を見ない生き生きとして熱情的なところに、この「仮面舞踏会」の生命力や性質を感じることができる。


上記のような端的な歴史から、「作品の完成度」という点では、時代や評論家によっては賛否は様々で、「ヴェルディ最高の作品、深みのある最高の表現オペラ」とするものから、「ヴェルディ最悪のオペラ」という否定的な意見まで極端に分かれている。


しかしながら、この6年間における決別と挑戦、模索、チャレンジの数々があったからこそ、その後の「ヴェルディ後期」の傑作が生まれたという事は間違いないはずである。


数多くのヴェルディ作品の中で僕はこの「仮面舞踏会」は、「オテッロ」に並ぶ一番好きな作品です。


6/24は紀尾井ホール「仮面舞踏会」是非ご来場くださいませ。

皆様のご来場心よりお待ちしております!


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