ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

題記のアルファベット・・・ゴルフをなさる方は、もうお分かりですょネ。


まずこれをキャディーバックに入れずにコースに出る人はいないであろう、サンドウェッジの略称です。

(と言っても、最近はクラブに〝S〟と刻印せず、58とか60などロフト角が入っているケースが多いですが。)


今日は、バンカー・ショットやグリーン周りのアプローチに欠かせないこのクラブの考案者にして、全米オープン・全英オープン・全米プロ、そしてマスターズ・トーナメントの四大メジャーを全て制した初のグランド・スラマーである

 

 ジーン・サラゼン

  Gene Sarazen

の命日・没後25周年にあたります。

 

      

 

1902年にニューヨーク州ハリソンに生まれたサラゼンの父親は、イタリア移民の大工さんでした。

家が貧しかったために、彼は小学校を中退して働き家計を助けたそうですが、10歳からキャディーを始めたことが彼の運命を決定づけました。

自然にゴルフをするようになった彼は、19歳でプロに転向。

 

150cmそこそこという小さな体ながら闘志の塊だった彼は、その翌年の1922年にいきなり全米オープンと全米プロで優勝。

更に翌年には全米プロを連破。

 

当時はプロゴルフ黎明期でライバルはウォルター・へーゲンら少数だったとはいえ、1932年に全米オープン2勝目と全英オープンで勝利を収めるのは偉業と言っていいでしょう。

そして〝球聖〟ボビー・ジョーンズが1934年から開催したマスターズ・トーナメントの第2回大会では、最終日の15番ロングホールで第2打を直接カップ・インさせる伝説的なダブル・イーグル(アルバトロス)を決めて逆転優勝。

史上初のグランドスラムを達成しました。

今でも毎年マスターズが開催されるオーガスタ・ナショナルの15番には、クリークに〝サラゼン・ブリッジ〟が架けられており、プレーヤー全員がこれを渡ってグリーンに歩を進めています。

 

約50年間の現役生活で、ツアー通算41勝(内シニア2勝)

メジャー7勝はアーノルド・パーマーと並ぶ歴代7位タイ。

 

しかも最後に出場した1973年の全英オープンではホール・イン・ワンを達成。

 

これは現在に至るまでツアーにおける最高齢(71歳)記録でもあります。


そして冒頭ご紹介したサンドウェッジの発明ですが・・・実は厳密にいうと、このクラブを最初に考案したのは、彼のライバルであったウォルター・ヘーゲン。

 

しかし彼が1930年に考案したのは、ソールが凹んだ下駄型クラブで、翌年には使用禁止になってしまいます。

サラゼンは自宅裏にあったコースのバンカーでこのクラブの試打を繰り返した末に、それとは逆・・・つまり現在のサンドウェッジのようにバンス(ふくらみ)をつけることを思いついたのです。

 

     

残念ながら、私は彼の現役時代のプレーを生で観る機会はありませんでした。

私が知るサラゼンといえば、サラリーマン時代ゴルフに熱中していた頃に自らがコース監修を手掛けたコースで開催されていた 『ジーン・サラゼン・ジュン・クラシック・トーナメント』 のたびに毎年来日し、18番グリーン脇の特別席で選手たちを迎えていた姿。

その穏やかな顔立ちは、まさに好々爺・・・とても歴戦を勝ち抜いてきたプロゴルファーという感じがしなかったことを憶えています。

 

     

 

1974年に設立されると同時にゴルフ殿堂入りしたこの名ゴルファーが97歳で天寿を全うしたのは、20世紀最後の年・・・1999年5月13日のことでした。

伝説のプロゴルファーのご冥福を祈りつつ、彼が遺した名言のひとつを、皆様にご紹介致します。

〝スウィングの細部をいちいち考えているゴルファーは、大したことがない〟

 ・・・・・ギクッ。😨



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先週に引き続き、新社会人・若者に伝えたい至言です。

 

人間、叱られているうちが華。




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・・・といっても、某タイヤ・メーカーのことではありません。


 Broadcasting Satellite 

 

すなわち衛星放送に関してのお話です。

 

現在多くのご家庭で普通にご覧になっているであろう衛星放送が日本で始まったのが、今からちょうど40年前の今日・1984(昭和59)年5月12日のことでした。

 

意外と歴史は古いんですネ。

専用の人工衛星を打ち上げてテレビ放送を行うという、世界的にも珍しい方式だったとか。

 

当初はかなり大々的なキャンペーンが行われ、NHKが視聴者獲得に躍起になっていた記憶があります。

 

BSの受信には専用のアンテナとチューナーが必要で、契約したご家庭の窓や屋根には白いお皿のようなアンテナがつけられました。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

当時は自宅にこのアンテナをつけることが、一種のステータス。

 

暫くすると、マンションのベランダに全く同じ方角を向いたアンテナが2つ、3つと徐々に増え、やがてはそれがついていないご家庭が逆に目立ったりして。

 

私も地方に転勤した際に社宅用マンションに取り付けたんですが、NHKの集金人がアンテナを見て受信料を徴収にくるという話を聞いて、わざわざ地上からは見えない屋上の真ん中に設置しコードだけ部屋まで引っ張り込んだものです。😅 セコッ


このBS放送が始まったことで、私のテレビ視聴時間は増えました。 その要因としては、

 

① プロ野球を始めるとしたスポーツ中継が増え、同時に試合

      途中での放送打ち切りがなくなった。

② 地上波よりも、質の高い教養番組が多い。


などが挙げられましょうか。

最近の地上波放送は低俗バラエティー番組ばかりで、かつ偏向・情報操作が酷い報道番組ばかり。

我が家では、スポーツ中継以外地上波は観ておらず、BS・CS放送ばかり視聴しています。

もっとも、最近はそのBSでも通販や韓流ドラマが増えてグッと視聴時間が短くなってますが。

テレビ各局も下らない番組ばかり垂れ流していると、スポンサー離れが止まらずジリ貧になるのでは?

まぁ個人的には停波して欲しい局ばかり・・・もうオールドメディアの時代は終わったと思ってますが。



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皆さんは、〝ねずみ算〟ってご存知ですょネ?

 

ねずみが一定期間にどれだけ増えるのか?という和算の問題なのですが、具体的な問題としては

 

「正月に、ネズミのツガイが子ネズミを12匹産んだとすると、親と合わせて14匹になる。 このネズミは、2月に子ネズミがまた12匹ずつ産んで・・・と、毎月1度産み続けていったら、1年後の12月には何匹になるでしょう?」

 

さて、いったい何匹になると思いますか?

 

正解は・・・ナント 27,682,574,402 匹! 😨

 

あくまでこれは数字の魔力を示す問題なのですが・・・この爆発的な繁殖力を例えに〝ねずみ講〟などと呼ばれたのが、無限連鎖講という商法。

     

 

これは、金品を支払って講に入った参加者が、自ら子会員を募集することによって配当を受け取るというシステム。 会員を増やせば増やすほど自分が受け取る配当が増えるため、参加者は必死に会員を増やそうとするわけで、それを無限連鎖と表現します。

 

しかし人間の数には限りがありますから、いつかは破綻することはちょっと考えれば分かるはずなのですが・・・人間、欲をかくと目が見えなくなるようで、多くの方がのめり込んだ末に出資金が戻らない、という被害に遭っています。

 

そこでこれを禁じた無限連鎖講の防止に関する法律、いわゆる

 ねずみ講防止法

が施行されたのが今から45年前の今日・1979(昭和54)年5月11日のことでした。

 

この法律ができた端緒は、配当が受け取れなかったり勧誘トラブルが頻発して1970年代に社会問題となった 『天下一家の会事件』

 

最終的には首謀者の内村健一が所得税法違反で起訴され実刑が確定したものの、法律の不備を埋めるために議員立法で提出・可決されました。

 

しかし残念ながら、その後も金品の配当商法から商品販売に形を変えた、法律違反もしくはスレスレのマルチ商法に姿を変えて存在し続けています。


同法施行後も、国債を扱った『国利民福の会事件』 や、中高生の間で広まった 『ハッピーバンク事件』 などが起き、更に最近ではネットを利用した新手のネットワークビジネスも登場していますが・・・私は、常々こう思っています。

 

〝人間、本当に儲かる話は他人には内緒にする〟

 

と。 またねずみ講に手を染めれば必ずと言っていいほど友人を失い、自らの信用をもゼロにしてしまいます。

 

自分だけは引っかからない・・・という過信は禁物。

 

オイシイ話には、くれぐれも用心しましょう! 


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ゴールデン・ウィーク中、久しぶりに書棚から取り出して読み返した本の後書きに、新聞記者が寄せたこんな一文がありましたので皆さんにご紹介致します。(※一部編集・抜粋)

 

     ◆    ◆    ◆    ◆

 

今の政治には期待を抱けない。 望みをかけられない。

これが最大の問題ではないか。

 

歴史上、転換期には必ず 〝悪党〟 が現れて時代を変えた。

 

平清盛・織田信長、いずれも旧来の社会制度・伝統・因習を叩き潰して新しい時代への道を開いた。 

 

『太平記』の足利尊氏も、南朝の忠臣・楠正成でさえも悪党と呼ばれた。

 

決して悪人のことではない。 強い人、頼もしい人に近い。

 

終戦後の日本では大小の悪党が走り回っていた。

 

保守本流の吉田茂を始め三木武吉・松野鶴平・岸信介、いずれも悪党の顔・・・河野一郎・池田勇人や佐藤栄作も悪党の匂いがする。

 

田中角栄は悪党の時代の最後のヒーローだ、と言ってよい。

 

     

 

現在の政治家には強さと個性が欠如している。

 

よく言えばアカ抜けしているのだが、頼もしさが全くない。

〝優等生〟である。

 

ますます激しい国内外の情勢に対応していくには、新しい政治の流れを作っていかなくてはならない。

 

既成勢力の枠を超え既得権を排除していくため、力強いリーダーシップが必要だ。 

 

今こそ悪党が必要不可欠ではあるまいか。

 

先日政治記者の先輩と焼き鳥屋で酒を酌み交わした。

70歳を過ぎて、なお雄弁。

 

「田中角栄は悪党かもしれないが、何かやってくれるという期待感があった。ところが今は期待感なんてどこを探してもない。」

 

隣のの席で見知らぬ中年サラリーマンがいきなりテーブルを叩いた。

 

「そうだ、その通り!」

 

      ◆    ◆    ◆    ◆

 

思わず私も机を叩きたくなるような文章ですが・・・この 『田中角栄回想録』 (早坂茂三・著 集英社文庫・刊)が出版されたのは、今から30年以上前の1993年。

     

 

残念ながら、それから現在に至るまで日本の政界は何ら変わることなく・・・いや、むしろ更に劣化しているとさえ言えましょう。

 

喧嘩もしたことないような優等生の世襲議員やハニトラに引っかかった媚中議員ばかりが幅を利かせる政界に、戦後最大の危機に直面している現代日本を救う頼もしい悪党 は、果たして出現するのでしょうか?

 

 

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今日のタイトルのアルファベット4文字、何の略語かお分かりになるでしょうか?

 

大陸間弾道弾?

う~ん、惜しい! それはICBM。

 

正解は、Ice Cream ・・・ 実は今日・5月9日は

 

アイスクリームの日

 

なんですって。 

 

ちょっと季節的に早い感じがしますが、今からちょうど60年前の1964(昭和39)年5月9日に東京アイスクリーム協会が記念事業を行い、諸施設へアイスクリームをプレゼントしたことに因むとか。

 

ちなみに日本で初めてアイスクリームが販売されたのは、明治維新前の1865年。

 

リズレーというアメリカ人が横浜の外国人居留地103番地(現・中区山下町103番地)辺りでアイスクリーム・サロンを開業しています。

 

また初めてアイスクリームを食べた日本人は、1860年に日米修好通商条約批准のため咸臨丸で渡米した使節団一行だったといわれています。

 

   

 

 ※咸臨丸に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

サンフランシスコに到着した彼らがアメリカ政府の出迎え船・フィラデルフィア号に乗り換えワシントンに向かう船中で、アイスクリームが振る舞われたそうな。

 

使節団の一員・柳川当清(とうせい)が、航海日誌(柳川日記)に、

 

「珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。

味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、誠に美味なり。

之をアイスクリンといふ。」

 

と書き残しています。

そしてこの使節団の中に、房蔵が加わっていました。
 

当然彼もそのアイスクリームを口にして、感激したのでしょう。

帰国後、既に日本で馴染みのあった氷水(氷を細かく砕いて砂糖や蜜をかけたもの)と一緒に、アイスクリームを〝あいすくりん〟と名付けて販売。

 

さぞ爆発的な人気で飛ぶように売れた・・・かと思いきや、さにあらず。

 

当時はまだ製氷技術が確立されておらず、北海道の函館で切り出した氷を輸送しなければならなかったため、〝あいすくりん〟の価格は超高価。

 

1人前のお値段は2分・・・当時の女工の給料10日分、大工の日当2日分に相当し、現在の貨幣価値で8千~1万円(!)という超高級品だったため、買うのは殆ど外人さんだったとか。

 

今でこそコンビニやスーパーでは様々な種類のアイスクリームが安価で売られていますが、そうなるまでには紆余曲折があったのです。

 

さて、皆さんにとってアイスクリームといえば、どんな種類・メーカーの商品でしょうか?

昭和世代の私にとってアイスクリームといえば、コレ。(

 

    ホームランバー

 

子供の頃、遊んだ後に必ず食べた 『名糖ホームランバー』

当時は一本ナント10円! いったい何本食べたことか・・・。

 

このアイス食べて、芯棒に〝当たり〟って書いてあると、もう一本貰えたんですょネ~。

これが日本で初めての当たりつきアイスの登場だったそうですが、友達の中には、当たりが出るまで10本以上意地になって食べてお腹壊したヤツとか、兄弟で結託してハズレの芯棒にサインペンで「当たり」って書いて持ち込み、店のオヤジにこっぴどく叱られて泣いて帰ってきたヤツもいたり・・・。

 

今になってみれば、友達は皆ワルガキばかりでした。

あっ、私はやってませんょ、そんなアホなことは! 

小さい時から“良い子”だったんですから。 

 

いゃ待てょ、そういえば弟を唆してやらせたこと・・・あったかな~?😅

 

ハーゲンダッツやらサーティーワンやら、今や美味しいアイスクリームが目白押しですが、今ナニ食べたい?って聞かれたら、私はやっぱり、この四角い棒アイスです。

 

今でも1本50円前後で売ってるらしいんですょ、このホームランバー。

 

  

 

今日、コンビニで探してみようっと。

 

まだ当たりでもう一本とか、やってるのかなァ・・・。

 

 

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戦後の自虐教育では、大東亜戦争前後の史実や人間的に私たちの規範となる優秀な日本人に関して殆ど教えていません。


そしてそれは軍人に限らず民間人に関しても同じこと。

 

今日は、是非皆様から子々孫々にその存在と偉業を語り継いでいただきたい人物をご紹介致しましょう。 その方の名は、


  はった   よいち
  八田 與一 

 

今日は、日本の教科書には載っていなくとも、現在でも台湾の中学生用教科書にその偉業が詳しく記載されており、同国の人々が親日である大きな要因となっている、この土木技師の命日にあたります。

 

       

八田氏は1886(明治19)年に現在の石川県金沢市に豪農の五男として生まれました。

 

頭脳明晰かつ海外での活躍を夢見ていた彼は、東京帝国大学工学部を卒業後、台湾総督府の内務局土木科にエンジニアとして就職。

 

そこで上下水道整備や発電・潅漑事業に携わると、弱冠28歳の若さで桃園大圳(たいしゅう)という灌漑設備を完成させ、評価を高めます。

 

31歳の時に地元・金沢の県議の娘さんと結婚した彼は1918年、台湾南部に位置する嘉南平野の灌漑設備工事に着手。

 

香川県の面積に匹敵する15万ヘクタールという広大な潅漑面積をカバーするため、貯水量1億5千万トンという巨大な烏山頭ダムを造るという、途方もないスケールの建白書を提出。

幸いにも理解ある上司がこれを支持し、山向こうの大きな河川からトンネルを掘って水を引き込むという壮大な土木工事は開始されました。

 

途中、トンネル内で台湾人・日本人合わせて50名以上が亡くなるという爆発事故が起き、八田氏も工事の中止を覚悟しましたが、遺族の方々から 「ここで工事を止めたら、犠牲者が浮かばれない」 と言われ、一念発起。

 

その後関東大震災の影響で人員整理を余儀なくされた際も、泣く泣く解雇した従業員全員の再就職先の面倒を見たばかりか予算復活後は再び現場に呼び戻すなど、とことん部下の面倒を見たといいます。

 

そして工期10年、総工費5,400万円 (現在の貨幣価値で400億円以上) の大工事は見事完成。

『嘉南大圳』 と名付けられたこの灌漑設備は、台湾に多大な大地の恵みをもたらしました。


彼の技術指導レベルの高さは、当時世界各地で建設されたセミ・ハイドロリックフィルダムのうち、現在でも稼働しているのがこの烏山頭ダムだけであることで証明されています。

   

          現在の鳥山頭ダム

 

この功績で勅任官となり、更なる開発工事に着手しようとしていた彼を、戦争による悲劇が襲います。

 

1942(昭和17)年5月8日、命令を受けて部下3名と共に現場のフィリピンに向かうべく乗り組んだ大洋丸が、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没・・・56歳での戦死でした。

 

(※終戦直後の1945年9月には、奥さんが烏山頭ダムに投身自殺を遂げ、ご主人の後を追われています。)

 

台湾には八田氏の銅像や記念館が建てられ、歴代総統は慰霊祭に参加するなど敬意を払うことを怠っていません。

 

台湾人なら皆知っている彼の名と功績を、同じ日本人の我々が知らないことで彼らに怪訝な顔をされる・・・こんな教育で良いのでしょうか?

是非彼の生涯を綴ったこちらの書籍をお読みいただき、次世代に偉大なる先人の偉業と台湾との関りを伝えていただきたく・・・。

 

台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯

                (古川勝三・著 創風社出版・刊

 

        

 

人種・身分など分け隔てなく人々のために尽力した敬愛すべき先人

のご冥福をお祈りするとともに、彼の偉業を子供たちに教ない我

が国の教育に改めて警鐘を鳴らしたいと思います。

 

 

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全く個人的な話で恐縮ですが、今日は私の伯父・渡辺佐一郎の命日にあたります。

 

とは言いながら、私はその伯父と面識がありません。 


それもそのはず、彼が亡くなったのは私の生まれる20年近く前・・・大東亜戦争開戦の約半年前でしたから。

 

佐一郎伯父は、父のちょうど一回り年上・1916(大正5)年生まれ。

 

父曰く、自分を非常に可愛がってくれた優しい兄だったそうです。

 

当時の世相を反映し、商家を営む渡辺家の長男でありながら陸軍士官学校を経て浜松陸軍飛行学校に入校、訓練に明け暮れる日々を送っていたとか。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-叔父

 

そして1941(昭和16)年5月8日、教官以下伯父を含めた訓練生5名を乗せた九七式重爆撃機が遠州灘上空を訓練飛行中に、突如天候が急変・・・飛行区域は視界ゼロの濃霧に包まれてしまいます。

 

当時の訓練機にはレーダーはおろか無線も搭載されていなかったため、状況が分からぬまま視界を確保しようと海面スレスレの超低空飛行を試みたそうですが、左翼が波に触れてしまい機体は海面に叩きつけられ大破。

 

乗員1名のみが浮いた車輪に捕まり漁船に救助されて奇跡的に一命を取りとめたものの、左後側方銃座にいた24歳の伯父を含め5名が海の藻屑と散ったのです。

 

(1名が助かったおかげで事故の詳細が判明し、遺族は最期の様子を知り得たのですが・・・その方は亡くなるまで終生僚友の供養を続けたそうです。)

 

伯父の遺体が発見されたのは事故から2週間後、志摩半島の海岸に打ち上げられていたところを収容された由。

 

当時の日本軍にはまだ余裕があったようで、伯父の遺骨を引き取った祖父が故郷・上田に戻る際は、そのためだけに客車を一両つけて丁重に送り届けられたとのこと。

 

駅に到着後、市役所前で盛大な出迎え式が執り行われたことを、当時12歳だった亡父は鮮明に憶えていたそうな。

 

「他の犠牲者には申し訳ないが、渡辺だけは生きて帰って欲しかった。彼が操縦していれば、こんなことにはならなかっただろうに。」

 

合同慰霊祭に参列した祖父母に、他の僚友が社交辞令抜きでそう語ったくらい優秀だったそうですが・・・現在僅かに1点だけ残っている、その伯父の自筆がコレです。(

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-叔父

 

「鎌原(※住所) 渡辺佐一郎」 と記されておりますが、驚くべきは伯父が20歳前の筆だということ。

 

私には逆立ちしても書けない達筆!・・・(以前知覧特攻平和会館を見学した際目にした隊員たちの顔写真や遺書と同じく)鋭い眼光・凛々しい顔写真と共に、当時軍人となり祖国や家族を守ろうとした若者の緊張感・覚悟が伝わってきます。

 

本家の墓所には、渡辺家累代之墓の他に、名前の上に星が浮き彫りにされた佐一郎伯父のためだけの墓石が並んで建立されています。

 

子供の頃は、どうして伯父だけ別に墓石があるのか? と不思議に思ったものですが・・・今にして思えば、祖父が跡継ぎにと考えていた期待の長男を若くして亡くした深い無念の思いがそうさせたのでしょう。

 

兄の遺志を継ぐため、軍人になるべく陸軍幼年学校に入学した父でしたが、戦地に赴く前に終戦・・・その幸運(?)のおかげで今、私がこの世に存在しているわけです。


そんな私は今後も微力ながら現在の弛緩した日本の世相に警鐘を鳴らし続けることを誓いつつ、悲運の死を遂げた伯父の冥福を祈りたいと思います。🙏


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おそらく日本国内で最も年間の演奏回数が多いと思われる・・・しかもそれが年末に集中している交響曲といえば、ベートーヴェン作曲の

 

 交響曲第9番 『合唱つき』

 

そう、いわゆる〝第九〟でしょう。

この作品がウィーンで初演されたのが、今からちょうど200年前の今日・1824年5月7日のことでした。

 

日本ではイギリス船が日本近海に出没し、翌年には江戸幕府が 『外国船打払令』を出した頃のこと。

 

ベートーヴェンに関しては、こちらの過去記事をお読みいただくとして・・・。(↓)

 

彼は22歳の時に有名な第4楽章のシラーの詩 『歓喜に寄す』 を読んで大いに感動し、その時からこの詩に曲をつける構想をずっと温めていたようです。

 

まだ交響曲第1番も作曲していない頃のことでした。

 

その約30年後、全く耳が聞こえない中でこの大作を完成させたベートーヴェンは、この日の初演会場となったケルンスナー・トーア劇場のステージに総指揮者としてステージに立ったのです。

 

しかし既に聴力を失っていた彼がまともに指揮など出来るわけはなし。

最初の出だしを合図した以外、オーケストラの団員は全員本当の指揮者・ウムラウフを見ており、ベートーヴェンはただ一心不乱に体を動かしていただけ。
 

     
       
ウムラウフ(右)とベートーヴェン(中央)    

 

それでも、この初演は大成功!

 

万雷の拍手に会場は包まれましたが、それが全く聞こえないベートーベンは聴衆に背を向け、立ち尽くしたまま・・・。

 

それを見かねたアルト歌手・ウンガーが彼の手を取ってクルリと聴衆の方を向かせた、というエピソードはよく知られています。

 

しかしその後は、合唱が挿入されるなど当時としてはあまりに斬新な曲であったため演奏は敬遠されたそうで、再び脚光を浴びるようになったのはワーグナーによるロマン派的解釈が認知されるようになったから。

 

ちなみに日本での初演は、1918(大正7)年6月1日。

徳島県・坂東収容所においてのドイツ人捕虜らによる全曲演奏とされています。 

(※2006年公開の映画 『バルトの楽園』 は、このエピソードを元に制作されました。)


   
        
板東収容所で練習中のドイツ人捕虜 

 

ところで、日本では〝第九〟が年末に集中して演奏されるのは何故なのか?

 

それは1937(昭和12)年、ローゼンシュトックが新交響楽団 (※N響の前身) の音楽監督に就任した際、「ドイツでは第九を大晦日に演奏している」 と紹介したことが発端だとか。

 

そして終戦間もない1940年代後半、収入が乏しい日本交響楽団(※N響の旧称)が楽団員の年末の生活を支えるため、大編成で合唱団も参加でき、また当時確実に集客が望めた数少ない楽曲だったこの大曲を年末に演奏し、これがやがて定例化した・・・といわれています。


(※戦時中に学徒出陣の壮行で12月に第4楽章が演奏されたことを受け、戦後になって戦没学生へのレクイエムとして年末の演奏が恒例になった、という説も。)

 

お時間のある方は、私が中学生時代レコードがすり減るほど聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏(1962年盤)をお聴きください。(

 

一般的には第4楽章が有名(↑43:00~)ですが、私は40歳を過ぎた辺りから、第3楽章の〝アダージョ〟(26:35~)を聴くと、ついつい涙腺が緩むようになりました。


さて、この演奏を聴いて7ヶ月後の年末に生演奏を聴きたくなった方、あるいはもっとこの大曲を深堀りしてみたくなった方のために、『第九』に関する著書をご紹介させていただきます。 

 『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』 

               (中川右介・著 幻冬舎新書)

 

     

 

同著には、前述した初演のエピソード以外に数多の裏話が満載。

そのうちのいくつかをご紹介すると・・・

◆結果的にウィーンでの初演になかったが、その会場決定までにはロンドンやベルリンなど他候補地との紆余曲折があった。
 

◆女性独唱バートについては、初演前にベートーヴェンの自宅を表敬訪問した美人歌手2人を指名。
しかしその時彼は聴力がなく、彼女らの声を聴けなかったから実力より顔で選んだ?😅

◆ベートーヴェンはかなり財政的に逼迫しており、初演を急いだ。しかし結果的に初演は成功したもののあまり儲からず、2度目のコンサートは赤字…大きく目論見が崩れた。

◆『第九』の演奏を1日2回、入れ替えなしで同じ観客の前で演奏した事例がある。

◆当時の演奏会は大曲を何曲も演奏したため1回4~5時間もかかった。 
第九は唯でさえ長かったので、時にはメインの第4楽章を省略したことが・・・。

もし現代で第4楽章を省略したら、観客は絶対に「金返せ!」って怒るでしょうネ。

今はドル箱の『第九』も、当初は儲からなかった・・・そして当時は現代のような著作権・印税なんてものはありませんでしたから、ベートーヴェンの懐具合もかなり苦しかったはず。

そこで彼が編み出した新たな収入源とは・・・あっ、このくらいにしておきましょう。

 

後は本書をお読みください。😁

 

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