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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ゲートインするなら原液のままで 酒井かがり





     中万寺の太夫・玉 菊
中万字屋の太夫・玉菊は、人柄がよく、多くの人々に愛された。
玉菊は、吉原を1日貸し切りにしたという伝説の紀伊国屋文左衛門と財力を
競い合った奈良屋茂左衛門の寵愛を受け、身請け話が出てまもなく、酒好き
がたたって享保11年25歳の若さで亡くなってしまったという伝説がある。
燈籠に なき玉きくの くる夜かな





「吉原遊女の悲しい末路」
農家から身売りされた者が、何年ぐらい働けば自由の身になれたのだろうか。
その期間、すなわち「年季」は、27歳までという原則があった。
27歳まで遊女として勤め上げれば、借金も返済し終える計算になっていた。
しかし実際には、吉原で働いている最中にいろいろな出費があって、借金が
増えることも多かった。その場合、27歳になっても年季が明けず、さらに
数年働くことを余儀なくされたのである。
年季明けを迎える前に、体を壊して病死する遊女も絶えなかった。
仕事柄、梅毒などの性病にかかる者が多かったし、当時は死の病といわれた
労咳を患う者も多くいた。




不具合がふえてきたなきたなと思う日々  吉岡 民






           遊 女 の 日 常





死亡した場合は実家に連絡し、遺体を引き取りに来るように伝えることもあっ
たが、そんな手間を取らずに、亡骸を菰に包み、近傍の浄土宗浄閑塩寺の無縁
墓地に投げ込むように葬ることがほとんどだった。
反対に、遊女も、特に恵まれて幸せをつかむ者もあった。
身請けという制度がそれで、金持ちや馴染みの客の中には、大金を出して遊女
を落籍し、自分の妻や妾に迎える者があった。
ただし妓楼の側も借金の額そのままで落籍されては儲けにならないので、この
時とばかりに吹っかけた。
そのため、実際に身請けされた遊女の例を見てみると、三百両(3千万)とか、
五百両(5千万)などという金額が支払われている。




渾身の力で熟れている柘榴  中前棋人





    「青楼美人合姿鏡」
遊女の日常・貸本を手にする瀬川




なかでも松葉屋の花魁・五代目瀬川を高利貸しの鳥山検校が身請けした時には、
千四百両(1億4千万)という桁外れの金額が支払われ、人々を驚かせた。
こんなように、美貌と運に恵まれた遊女のなかには、吉原を出て幸せになる者
もあったが、そういう遊女はごくひと握りといえた。
多くの遊女はそんな機会の到来を待ち望みながら、年季明けまで働きづくめで
身体を壊し、短い人生を終えることになったのだ。
そういう意味では、吉原は、錦絵にも描かれるように、美しい着物をまとった
花魁が暮らす華やかな世界であると同時に、一度沈んだら滅多なことでは浮き
上がらない「苦界」と呼ぶにふさわいい場所にほかならなかったのである。
身請けが=幸せにつながるとは限らない一例として。
瀬川を身請けした鳥山検校の栄華も永くは続かず、事件から3年後の安永7年
(1778)あまりの悪どさを糾弾され、全財産を没収の上で江戸払いに処された。
これまで、鳥山検校の取り立てに苦しめられてきた江戸の人々は、お上の裁き
に喝采を上げたことだろう。




大富豪だけにフェロモン投げかける  宮井いずみ






    江戸の闇金「座頭貸し」(検校・人倫訓蒙図彙)





元禄の頃から盛んになった座頭の金貸しは「座頭貸し」とよばれ「座頭金」
盲人が高利で貸していた金を意味した。
鳥山検校の場合-----まず貸し付けの前に利息分を前引き(借り手に渡されるのは
6~8割程度)し、さらに礼金を取る。
当時、許されていた一般的な利息の水準は「二十五両一分」である。
(25両の借金に対して月に一分の利息がつく、一分は1両の4分の1だから
年利は12%になる)ところが、鳥山検校は「五両一」の利息を取っていた)
年利にしてなんと60%である。
「座頭金」は幕府が認めた官金であり「座頭貸し」は、債権が保証されたため
貸し倒れは滅多にない。が、
安永7年(1778)旗本の森忠右衛門とその子虎太郎が、借金の返済ができず
夜逃げするという事件が起きた。
旗本といえば、何かことあれば鎧兜を身にまとい将軍の元に馳せ参じるのが
お役目。その旗本が行方不明とあっては、幕府としても放っておけず、日頃
から高利貸したちの悪行に業を煮やしていた為政者は、これを契機に一斉摘
発に乗り出し、鳥山検校をはじめ20人ほどの悪質高利貸しが検挙された。




そのうちに外す梯子が掛けてある  筒井祥文  





蔦屋重三郎ー瀬川・鳥山検校のその後




「鳥山検校、松葉屋・瀬川落籍事件」
『安永4年、が吉原松葉屋の瀬川という妓女を落籍した事件は、
 おそらく当時の人々の耳目を驚かせたに相違ない。
 鳥山検校は、さらにその3年後の安永7年には、悪辣なる高利貸として
 処罰された』
筠庭(いんてい)喜多村信節『過眼録』によれば、
『安永七年、高利の金子を借したる者共、多く御咎めありし、其起りは、
 御旗下の士、筋わろき金子を借用し、出奔したりしよりの事と云う…中略…
 家財の外、有金廿両、貸金一万五千両、所持の町屋敷一ヶ所 鳥山検校…
 中略…此鳥山わきて名高く聞へしは、遊女を身請せし事にて噂高かりし也、
 瀬川を身請せしは安永四年なり、この瀬川の事は、余別に委(くわ)しく記
 したり、爰に略す、所持地所も一ヶ所にはあらず、浮世小路南側、又小舟丁
 にも存、北御番所付永御手当地と唱』とある。




神さんがくしゃみしてはる間に悪さ  居谷真理子





 
「玉菊燈籠」
玉菊を偲ぶ有志がお盆に燈籠を飾り弔った。これが「玉菊燈籠」の始まり。
「燈籠になき玉きくのくる夜かな」

「急戯花之名寄」
3月に行われた「俄」の行事の折に配られた吉原提灯。遊女の名が入っている




多くの文人と交流のあった津村正恭(まさゆき)の随筆『譚海』には、
『鳥山檢校と云もの、遊女瀬川といふを受出し、家宅等の驕りも過分至極せる
 より事破れたりといへり』
瀬川と同じ定めの玉菊を偲んで灯籠を吊るす行事『玉菊燈籠弁』では、
『真芝屋の屁川なり、いかに金がほしいとて、眼のない客を逢ひとをす。
 それもたて引かなんぞと、金気(け)のうすい砂糖なら張りも意気地も有で
 青楼の傾城ならんに、何ンほ女郎がこすくなつても、
 「遊女中間のつらよごし」「こんにやくのよごしがはるかまし」
 など』とも論評された。




くしゃみするたびに回りが黴ていく  中山奈々
 









「五代目瀬川がその後どうなったか」
三田村鳶魚『瀬川五郷』によれば、喜多村信節『筠庭雑考)』(いんていざ
っこう)に後日譚が記されているという。が、
現存の『筠庭雑考』にこの記事は見えず、宮武外骨「筠庭雑考」には次の
ように『只誠埃録』(しせいあいろく)所引の『筠庭雑考』が引かれている。




浮草の人生ですか池の百合  井上登美




「噂の中の瀬川」
『私が一時期住んでいた本所埋堀に大久保家の町屋敷あり、そこに大工をする
 傍ら大家を勤める結城屋八五郎のところに、切り下げ髪(首のつけ根で髪を
 揃えて後ろに垂らした髪型)の老婆がいた。これが実は、八五郎が妻である。
 名だたる鳥山檢校が身受した吉原松葉屋の瀬川の今の姿である。
 鳥山検校が罪科の後、瀬川は、
 噂をする人も多い中に、深川六間堀辺に飯沼何某といふ武家の妻となりて、
 子を二人生んで、夫を失い寡婦となってのち、大工八五郎仕事に雇われて
 この)屋敷に住むことになった、どのような縁があったのだろうか、
 密かに約束ごとをもって、瀬川は八五方へ逃げ辿りついて妻となる、
 そのまゝにてすむべきにもあらず、やむを得ず髪を切った、
 先に生んだ子のひとりは家督を継ぎ、ひとりは他の養子となるも、放蕩者で
 養家を飛び出し、行く所もなく、八五郎の所に舞い戻ってきて、果ては髪結
 となったとかいう、
 瀬川は、文字の書きぶりは今一なので、「かの飯沼氏より扶持など贈れる事
 とか」は八五郎が代筆していたとかの噂についての詳しい事は知らず、
 益のない咄ながら、傾城虎の巻などいふされ草紙にも出でて名高き女なれば
 語り草とする』




ジョーをもっていたから頑張った  井上恵津子






      田沼意次(渡辺謙)

      長谷川平蔵(中村隼人)
一橋治済(生田斗真)





「べらぼう ちょいかみ13話」
「もはや弱きものにあらず!」と声を荒らげる田沼意次
「座頭金だよ」と笑みをたたえて話す一橋治済(生田斗真)
蔦重が「座頭…」とつぶやく。
蔦重(横浜流星)は、留四郎(水沢林太郎)から鱗形屋(片岡愛之助)が再び
偽板の罪で捕まったらしいと知らせを受ける。
鱗形屋が各所に借金を重ね、その証文の一つが、鳥山検校(市原隼人)を頭と
する金貸しの座頭に流れ、苦し紛れに罪を犯したことを知る。
一方、江戸城内でも旗本の娘が借金のかたに売られていることが問題視され、
意次(渡辺謙)は、座頭金の実情を明らかにするため、
長谷川平蔵宣以(中村隼人)に探るよう命じる。




心の脆さをカネの前で知る  松田順久





「鱗形屋孫兵衛の子・長兵衛から責められる蔦重」
「そろそろ返してくんねえですか? うちから盗んだ商いを!」
鱗形屋が言い放つ。
鱗形屋の番頭・藤八(徳井優)が蔦重を追い出す。
「盗んだのは私にございます!」と叫ぶ誰かの声。
厳しい顔をしたまま長谷川平蔵が歩を進める。



パイナップルが居心地悪そうな酢豚  橋倉久美子










「橋の上で蔦重,大文字屋」
「じゃあな!」といってその場を離れる大文字屋。
「重三はわっちにとって光でありんした」
「蔦重さん!」北尾政演(山東京伝/古川雄大)が、嬉しそうに蔦重の顔を
覗き込む。
「本ってなあ、人を笑わせたり泣かせたりできるじゃねえか」と告げる源内。
その下に<蔦重は書で世を照らす>との文字が流れる。
本をめくる蔦重。
そこに「からまる」の文字を見つけた蔦重が何かに気付く。
「重三は、わっちにとって光でありんした」と涙を浮かべる瀬以。
その隣には夫・鳥山検校のカゲが――。




感嘆符発したままの冷凍魚  岡田幸乎

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毒消し草バケツの中で実らせる  村山浩吉






            俄 祭 り




江戸時代、俄とは、「仁輪加」「仁和歌」「二和加」などとも表記され
素人が演じる即興の芝居や狂言で、宴席や路上などで演じられた即興の
芝居で「にわかに始まる」ことから「俄」または「茶番」とも呼ばれた。
江戸時代中期には、江戸の吉原俄、福岡の博多俄が演じられ、明治には
「改良俄」「新聞俄」「大阪俄」といわれたものから喜劇劇団が生まれ、
現在の新喜劇にもつながるとも言われる。
【吉原俄の開催時期】
吉原俄は、毎年8月中旬~9月中旬、屋台の上で幇間と呼ばれる男芸者や
女性の芸者などが芝居を見せました。




にぎやかにしてくれ忘れさせてくれ  石橋芳山





     若木屋 vs 大文字屋





「べらぼう13話ちょいかみ」
昨年に続き吉原で行われる『俄(にわか)』祭り。その企画の覇権を巡り、
若木屋(本宮泰風)大文字屋(伊藤淳史)らの間で戦いの火ぶたが切られた。
蔦重(横浜流星)は、30日間かけて行われる俄祭りの内情を面白おかしく書い
てほしいと平賀源内(安田顕)に執筆を依頼すると、朋誠堂喜三二はどうかと
勧められる。宝暦の色男とも呼ばれている。秋田藩留守居役の喜三二の正体は、
かつて蔦重も松葉屋で会っていたあの男だった…。末尾へつづく。




舞っていたいのだ折り鶴だとしても  竹内ゆみこ




蔦屋重三郎ー江戸っ子侍・朋誠堂喜三二





 
     朋誠堂喜三二 
狂名は手柄岡持、俳名は月成。




上役で俳人の佐藤朝四にいろいろと教わりながら、江戸の文化サロンの一員に
なった。名が世に知られるようになったのは安永6年、また喜三二蔦重との
関係が密になるのもこの安永6年で鱗形屋孫兵衛が出版した「黄表紙」に作者
として筆を執ってからだ。





  
    平沢常富 (朋誠堂喜三二)      尾美としのり

 
宝暦の色男と呼ばれた朋誠堂喜三二は、秋田藩の江戸留守居役だった。
留守居役とは、その藩の外交官。江戸に常駐し、他藩の同役と情報交換するの
が仕事だ。情報交換は、どういうわけか吉原や遊里の料亭で行われた。
遊ぶ金の出所は藩の財布だ。
つまり吉原で飲んでお引けとなって朝帰り。
当然、繁華街に足繁く通うのだから、吉原との関係密ならざるをえない外交官
といっても藩では物頭ランク(今でいう中間管理職)、べらぼうに忙しいわけ
ではなく、吉原通いが職務になるくらいでなのでネタはある。
仕事の合間に戯作を書いてみたらヒットしてしまい一躍人気作家となった。




脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川




武士なのでそこそこの教養はあり、しかし江戸っ子の粋も通も洒落もわかる。
こういう人物が書く話は、どうしたって面白いのだ。
蔦重はこうした喜三二の、武士らしからぬ江戸っ子気質を見て懐に入る。
喜三二も吉原から這い上がってくる蔦重が気に入った。
蔦重の手口は、必ずしも真っ当なやり方ではない。
鱗形屋の危機に乗じて自分に近づいてきたのは明らかだ。
それでも吉原に通い、様々な権力者たちの噂ややり口を見て、清濁併せ呑んで
きた喜三二には、「この若造に賭けたら、面白いものが見れそうだ」
蔦重という人間に興味を抱いたのだった。





馬が合う無職とかいてある名刺  新海信二





       『見徳一炊の夢』①





前に軽く触れたが喜三二『見徳一炊の夢』を鑑賞してみよう。
浅草茅町の金持ちの息子、清太郎は厳しく育てられ、年頃というのに遊ぶこと
もままならず、手代の代次とお喋りをして憂さを晴らす日々。
ある日父の留守中に、二人で話しているうちに近所のかめ屋から蕎麦の出前を
注文する。蕎麦を待つ間に清太郎はうとうととし、夢の中に浅草並木の栄華屋
という夢を商う店が出現。栄華屋は邯鄲の枕を貸し出し、金額に応じた内容の
夢をみさせるという。
清太郎は自分の家から千両を盗み出し、50年分の夢を買う。
最初の20年は京、大坂、長崎と遊歴し、唐にまで行って遊蕩する。




この春のしどろもどろに咲いた花  平井美智子




40歳になり、江戸が一番自由だと悟り、戻って江戸の遊里で4人もの芸妓を
身請けし遊里での遊びに飽きると、俳諧、歌舞伎、能、茶道と通な遊びに嵌る。
70歳になると、さすがに家が恋しくなり、浅草茅町の実家に行ってみる。
実家では清太郎は死んだことになっており、家は手代の代次が継いでいた。
自分の50年忌が行われており、そこに借金取りがやってきて、清太郎が遊び
倒した50年分のツケ百万両を払えという。代次は全財産を処分しツケを払う。
そこに清太郎が戻り「何という恥か」と我が身を振り返る。




春先のお伽噺はみな斜め  筒井祥文





       『見徳一炊の夢』②





清太郎と代次は剃髪し、悟りを開き諸国へと修行の旅へ。
「百万両持っている人も、百万両使い捨ててしまう人も、共に生れた時は丸裸。
 あら面白や、南無阿弥陀 南無阿弥陀」
代次「若旦那居眠りをなされていましたか、まだ夢の中というお顔つきですが」
清太郎「不思議なこともあるものだ。50年は全て夢であったか」
小僧「富くじが当たるかもしれない。良い夢かも知れませんよ」
かめ屋「もし、お頼みもうしやす。いまお誂えの蕎麦が参りやした」




七味から反省文を書かされる  みつ木もも花




放蕩し栄華を極め、何もかも手に入れたのち、何もかも失う。
夢から覚めて現実をしるという、恋川春町『金々先生栄華夢」と同じ流れの
話である。
しかし、喜三二の方は、春町の金々先生が「栄華を極めたところで一炊(ご飯
が炊きあがるほど短い間)の夢だ。真面目に働こう」という悟りに対して、
「え、どうせ夢なら楽しい方が良くない?それもまた徳ってやつじゃん」
洒落ている。
「なんかめちゃくちゃ景気がいい夢みちゃったな」という清太郎に、小僧
「なんか良い前兆かもしれないっすよ、富くじ当たちゃうんじゃないですか」
と、これまた夢のようなことを言っている。そんな景気の良い話をしながら
これから食べるものは「オレが奢ってやれるのはこれくらいしかないんだ」
という一杯16文(520円)の蕎麦なので。




サヨナラも言わずに虹は去ってゆく  斉藤美恵子




喜三二は自身の身分をよくわきまえていた。
抜擢され留守居役となったとしても下級武士であり、藩士の一人にすぎない。
それでも江戸は自由だし、下級武士は気楽な稼業だ。
飲みニケーションがきつい時もあるが、藩の金で遊べるのならそれも乙なもの。
いまのこの状態を使用しまくろうという考えである。
喜三二のポシティブな思考と自虐が、戯作となり狂歌となった。
物語の中で、歌舞伎に茶道にと通な旦那遊びに興じるが、それは喜三二の自虐と
穿ちだろう。
そうやって栄華を極める遊びを演じ、あとで転けたところでそれは「あら面白や」
という洒落なのだ。




おもしろい一日だったまた明日  田邊 新二





               『亀山人家妖』 (朋誠堂喜三二作/北尾重政画)
版元と戯作者のやりとりを面白おかしく描いた黄表紙である。
軽妙なメタフィクション的展開が印象的に描かれる。
これを書いた朋誠堂喜三二は、北尾重政と共に「車の両輪として重三郎を
支えた」
天明期に入ってからの重三郎の躍進は、この二大巨匠のバックアップが、
基盤となっている。





町人髷の蔦屋重三郎と侍髷の朋誠堂喜三二





絵草紙問屋・蔦屋重三郎、絵草紙の作者喜三二が元へ年礼に来る。
「当春の『天道大福帳』は、とんだ評判が良う御座りまして有難う御座ります」
などとちよ/\ら(口先だけのお世辞)を言ふ。
「来年も頼みますよ」
と持ち上げられた喜三二は鼻高々。
「未年の春の新版青本を書いてくださいませ」
「来年のをもう頼むのか。さっさと正月の内に、書きやせう。
書こうと思へば直に出来る」
など大己(おほうぬ=自惚れ)を並べる。
「春の内書きやしょう。書こうと思えば直できる」
と安請け合いしたのである。ところが、アイディアが浮かばない。
来春出版の本の宣伝をしなければならない九月になって、
「せめてタイトルだけでも決めろ」と、
蔦重が、喜三二のところだけを空けた外題披露のポスターを持ってくる。
仕方なく喜三二はタイトルだけをひねり出す――




仕事場の鬼と虫とは馬が合い  北出北朗










「べらぼう12話ちょいかみ ②」
<喜三二>らしき人物を囲んで笑顔を見せる蔦重、勝川春章、北尾重政
「喜三二。朋誠堂喜三二」と話す源内
男性へ「喜三二大明神様!」と手を合わせる鱗形屋の一家。
画面下には<覆面作家を探せ>の文字が流れる。
歩きながら
「面白えこと言ってくんだよな!蔦重ってのは」『金々先生栄花夢』
作者・倉橋格こと恋川春町岡山天音さん)に話しかける男性。
それから吉原で開催された「俄」の祭りの様子が映し出される。
誰かを見つけて動きを止めるうつせみ。
「この野郎!」と憤りながら立ち上がる吉原の若木屋(本宮泰風)
揉める男たち。
「この祭り、勝てる!」と喜んだ様子を見せる大文字屋。
「鳥が啼く東の花街に…俄かの文字が整いはべり」の声を背景にめくられる本、
雀踊りを舞う女性たち、歌う午之助が続けて映り、踊りの衣装をまとった女郎・
うつせみが、誰かを前に動きを止める姿が…。
その下に<俄で吉原を統一せよ>の文字が流れる。




雫切る今日の答えは決めました  田村ひろ子

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わたくしの余白貸します月極めで  きりのきりこ





                                       「往   来 物」
往来物は主として手習いに使用される。いわば当時の教科書である。
蔦重は往来物の出版を手掛け寛政期前半まで毎年のように新版を刊行し続ける。
往来物は、相対的に価格が一冊4文程度の安く設定されているので、利は薄い
ものの長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品である。





      『夏柳夢睦言』 (松浦史料博物館蔵本)
  





 新たな分野へ一歩進むことへ蔦重は、経営を下支えするような株を確保する
ことに意を持ち続けていた。安永7年(1778) に富本の株を取得し、正本・稽古
本の出版を始める。
この段階での版株取得は、まさに時宜を得たものであり「富本正本・稽古本の
出版、往来物」など、地味ではあるが、経営の一角を支えるものとなる。
正本とは、初演時に発行されるもので、共表紙で表紙には、その浄瑠璃による
所作事の場面が描かれる。




北風とみの虫ほどの生きる知恵  大槻和枝





 『色時雨紅葉玉籬』 (松浦史料博物館蔵本)
稽古本は薄い藍色である縹色の表紙をつけた。俗に青表紙と呼ばれる。





蔦屋重三郎ー富本・稽古本





             富 本 牛 之 助




「富本節」江戸浄瑠璃豊後節の一つである。
江戸の芸能界を支えた人物の一人として富本牛之助がいる。
牛の助は、父・富本豊前太夫の実子で、その才能を受け継ぎ(1770)には、富本
豊志太夫を襲名。この美声の人気太夫の登場が、富本節に流行に火をつけた。
そして、安永後半期より、狂言作者・桜田治助の詞章による、道行き浄瑠璃の
大当たりが続いて富本節は、全盛期を迎えた。
当時の芸能界で名を馳せた牛の助の特徴は、美しい語り口と独特の節回し、
そして、もう一つ有名なのがそのご面相。
顔が面長だったことから「馬づら豊前」というあだ名で親しまれた。
江戸の庶民たちは、牛の助の浄瑠璃の語りをうっとりと聴きながら、その風貌
にも親しみを感じていたのである。




右肩にいつも乗せてる福の神  宮井元伸




富本節は、繊細で上品な節回し、豪快で力強いとは異なり、静かに語りかける
ような柔らかな旋律で、江戸の町人文化のなかでも、特に粋を重んじる人々の
間で人気を得た。
歌舞伎の伴奏音楽として使われ、特に、江戸の芝居小屋では、舞台の情感を盛
り上げる役割を果たし、顧客を物語の世界へと誘ってくるのである。
芝居小屋だけでなく、座敷での演奏としても、庶民の娯楽にもなった。
浄瑠璃は、単独で楽しむだけでなく、歌舞伎や人形浄瑠璃と深い関わりを持っ
ているほかに、商人や町人たちは、茶屋や宴席で三味線とともに語られる富本
節を楽しみ時には、自ら習うこともあったという。





                 富本豊志太夫(午之助)(寛一郎)




【べらぼう11話 ちょっとあらすじ】
『青楼美人合姿鏡』が高値で売れず頭を抱える蔦重(横浜流星)は、親父たち
から俄祭りの目玉に、浄瑠璃の人気太夫・富本豊志太夫(午之助)(寛一郎)
を招きたいと依頼される。りつ(安達祐実)たちと芝居小屋を訪れ、午之助
俄祭りの参加を求めるが、過去に吉原への出入り禁止を言い渡された午之助は、
蔦重を門前払いする。




ほおづきが津軽三味線奏でるし  酒井かがり




太夫の「直伝」
-----絵草紙屋に行くと、浄瑠璃の歌詞とメロディーが書かれた「正本」を見せら
れます。正本は浄瑠璃を嗜む人の教本の役割もしています。
その中でも、太夫の許可をとって出版している「直伝」がよく売れるとのこと。
芝居小屋で、馬面太夫こと富本午之助を鑑賞し、声の素晴らしさ、世界観などに
衝撃を受ける蔦重
さらに出待ちには、ファンが押し寄せ、太夫はスターの輝きを放っていました。
そこに鱗形屋(片岡愛之助)が現れます。
太夫公認の「直伝」が出版されていない富本節。
馬面太夫には「富本豊前太夫」を襲名する話があるとのこと。
その機会に「直伝」を出せれば…と、蔦重は考えます。




宴たけなわこそばゆい程今ピンク  山本昌乃




後日、小田新之助(井之脇海)の屋敷に訪れてみると、屋敷では、平賀源内
(安田顕)が「エレキテル」を修理していました。
蔦重は、馬面太夫との仲介を源内に頼みますが、源内はエレキテルに夢中です。
馬面太夫の吉原嫌いは、売れていない頃に素性を隠して若手役者・二代目市川
門之助と吉原の若木屋で遊ぼうとした際、バレて、二度と来るんじゃねえぞと
追い出されたことが原因だという話です。
役者が吉原で遊ぶのはご法度、ですが、太夫は役者ではありません。
そんな折、他流派の横槍が入り、太夫の襲名の話が流れてしまいました。




ポケットに心機一転メモのまま  市井美春




瀬川(小芝風花)が嫁いだ鳥山検校(市原隼人)が、浄瑠璃の元締めだと聞い
た吉原の主人たちは、頼みに行くことにします。
瀬川は鳥山検校の妻となり「瀬以(せい)」と呼ばれています。
久しぶりに顔合わせた瀬以と蔦重
その親しげな様子に嫉妬を覚えた鳥山検校は、瀬以にカマをかけてみます。




四つ角を右に曲がったばっかりに  津田照子





 門之助(濱尾ノリタカ)




吉原での接待
襲名の件は、やはり他流との手前もあり、簡単ではなさそうです。
蔦重は、太夫門之助を偽名で座敷に招き、ずらりそろった女郎とともに迎え、
かつての非礼を詫び、宴席を設けました。
外に出られない吉原の女たちは、本物の芝居も見たことがなく、富本節も聞い
たことがありません。
「最後に富本節を聴かせてほしい」という訴えを聞いた太夫は、
自分の歌と門之助の舞に涙する彼女たちの姿を見て、
「こんな涙を見て断る男がどこにいる」と、吉原の祭り「俄」に出演すること
を決意しました
そこへ検校から「襲名を認める」という文が届きます。
蔦重はすかさず「直伝」の出版許可を頼み込みました。




抜け道を探す発狂したふりで  森田律子




 
     恋川春町(岡山天音)




鳥山検校の屋敷では、瀬以が、検校に感謝の言葉をかけています。
芝居小屋の出待ちに、鱗形屋が来ています。
馬面太夫を追いかける鱗形屋は、「富本節の直伝を耕書堂から出すことを考え
直してほしい」と訴えます。
耕書堂は、地本問屋とトラブルを抱えているため、市中で売り広げられなくな
るという鱗形屋の主張に、馬面太夫は「義理が大事」と返します。
鱗型屋が浮かない面持ちで店に戻ると、倉橋格(恋川春町)が鱗形屋の次男・
万次郎に絵を描いてあげていました
小松松平家の武士である倉橋格は、家老がひどいことをしたという理由だけで
謝礼がろくに払えない鱗形屋に『金々先生栄花夢』を書き、次の原稿も持って
きていました。
倉橋格(恋川春町)の男気に救われた鱗形屋は、このまま「青本」に力を入れ
ていきます。
そして、蔦重「富本正本」に注力してくのでした。




まだ少しかじかむ指に花菜漬  前中知栄

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どん底になったら底を掘ってやる  黒田るみ子





          式亭三馬・「浮世風呂・浮世床」
滑稽本『浮世風呂』『浮世床』では、庶民の社交場である湯屋と髪結床での
会話を江戸弁で活写した。三馬は、草双子を数冊とじた合巻ものの人気を高
めた端緒を開いたことでも知られる。




「江戸訛りはどうしてうまれた」
死語になってしまった感のある「ダンディ」という言葉を、江戸でさがすと
「粋」だろう。これは男だけでなく女にも使われ「ダンディ」が、死語なのと
違って今も生きている。「あの男(女)粋だねぇ」というのは最上の褒め言葉
であり、そんな相手に憧れて惚れてしまう。
また「粋」につながる言葉に「通」がある。
人情の機微がわかり、粋でさばけた人である。
可能なら男ならだれも粋人・通人になってモテたいと思うが「粋」も「通」も
人柄や財力ほかが備わっていないと身につかない。
「いきな深川、いなせな神田、人の悪いが麹町」といわれる。
「深川」「日本橋」でもよく粋な旦那衆。「神田」は威勢がよくて勇ましく
格好もいい職人たち。それに対して武士が悪性で無粋だと批評したもの。
それでも男はみな自惚れがあり「オレはけっこうイケてるはずだ」と、
遊郭や岡場所へ繰り出す。






      江戸っ子ー②




古本をめくると死語のなつかしさ  通利一遍





      江戸っ子-①





江戸で格好いい男というと「粋人」のほかに「いなせ」「伊達」などがあり、
それに「江戸っ子」も挙げておかなければならないだろう。
「江戸っ子」は、江戸中期の田沼時代に生え抜きの先住町人たちの間で芽生え
た自意識である。
深川生まれで、銀座二丁目の町役人も務めていた戯作者の山東京伝は、
いやにこだわって「江戸っ子」の定義を並べたてた。
 江戸城徳川家のお膝元に生まれ、
② 宵越しの金を使わない、
 乳母日傘で育てられ、洗練された高級町人で、
④ 市川団十郎を贔屓とする「いき」と「はり」とに男を磨く生きのいい人間」
と表現した。このタイプの江戸っ子の最盛期は、天明期(1781-89)であった。
ところが江戸は、農村からの流入者や他国からの出稼ぎ人等の貧民が急増し、
江戸の都市化が進行すると、京伝の思惑をこえて膨張し、鼻っ柱が強くて威勢
のいい江戸根生(ねおい)の下層町人が、彼らとの差別化を図って、やたらと
「江戸っ子」を自称するようになったのである。




骨盤も背骨も日本製である  西澤知子





         狂言田舎操芝居舞台正面





蔦屋重三郎ー江戸訛り・蔵訛り






           「狂言田舎操」
式亭三馬の狂言「田舎操」は、江戸時代後期の滑稽本作家である式亭三馬が
書いた作品。




「荒っぽい江戸訛り・ワケあり廓訛り」
そんなこんなの風潮の中で使われるようになったのが「江戸言葉」である。
折よく今、大河ドラマのタイトル「べらぼう・べらんめい」と称される表現で
知られるのが「江戸訛り」である。
江戸に生まれたお歴々(旗本や御家人)が使う正真正銘の本江戸言葉に対して、
江戸の下町の町人が使う言葉は、式亭三馬の狂言田舎操』に述べている。
新開地の江戸には、多くの国々から多数の人々が流入してきて、多様な表現が
なされたと思われるが、やがて江戸根生いの町人たちの間に共通する言語表現
が生み出されていった。
その状況は江戸歌舞伎などでの表現に始まり、宝暦年間 (1751-64) 以降に顕著
となり、洒落本・黄表紙・滑稽本・人情本や川柳などに取り上げられて、完成
されていった。
ともかく、明和から化政文化にかけて、江戸庶民の生活実感を如実に反映して
いる。「江戸訛り」なくしては成り立たなかったといえる。




いさぎよくいらないものはみな捨てる  荒井慶子




「べらぼうの語源」
「べらんめぇ」とは「べらぼうめ」がくずれた言い方で、人を罵るときに使わ
れるが、「べらぼう」は、江戸時代に見世物で人気を博した奇人・「便乱坊」
(可坊)が語源であるといわれる。
また「べらぼう」は、穀物を潰す「へら棒」が語源「穀潰し」(ごくつぶし)
の意味であるともいう。ついでに引っ張り出せば、
「てやんでいべらぼうめ」は、相手の問いかけや失言に対して、威勢よく言い
返す言葉で、軽い罵倒を含む表現である。
「てやんでい」は、江戸弁で「何を言っていやがるのだえ」の転訛したもの。
「べらぼうめ」「ばか・阿呆」といった意味で、相手を罵倒する言葉である。
「あたぼうよ」「あたりまえよ、べらぼうめ」の縮めたもの。
何かと江戸っ子の訛りは荒っぽくきこえるが、根っからは「五月のの吹き流し」
のように、実際のところ「腹には何もない」のが江戸弁なのである。




投げ返す言葉の中にある縮図  近藤真奈





      狂言田舎操 
(式亭三馬、楽亭馬笑作 国直画)




「江戸訛り分類表」(江戸学辞典ゟ)
① aiの連母音を「エー」という。
迎酒(むけへざけ)大概(てへげへ)うるさい(うるせへ)世帯(しょてへ)
大事(でへじ)ない(ねへ)いい塩梅(いいあんべえ)一盃(いっぺへ)
② 「ヒ」が「シ」になる。
柄杓(ひしゃく→ししゃく)、日が暮れる(ひがくれる→しがくれる)
無筆(むひつ→むしつ)、百(ひゃく→しゃく)、人(ひと→しと)
③ 「ユ」が「イ」になる。
指切(いびきり)、亭主(てへしゅ)、寿命(じみょう)、野宿(のじく)
④ 音節が融合する。
聞けば→ききゃァ、なんぞは→なんざァ、あれは→ありゃァ、せねば→せにゃァ、
⑤ 接頭語を多用する。
始める→おっぱじめる、殴る→ぶん殴る、ど真ん中→まん真ん中
⑦ 長音化・音便化
大根→でーこん、大概にしやがれ→てーげーにしやがれ張り倒す→はったおす、
嫌なことだ→やなこった
⑧ 促音化
事だ→こった、眠くて→ねむくって、今から→今っから、有るだけ→ありったけ
⑨ 發音化
者だぜ→もんだぜ、買い物→けへもん、おまえのところ→おめへ ン とこ
⑩ 音節の脱落
誰が→だが、聞きなさい→ききなさへし、どないしましたか→どないましたェ、
ばからしゅうございます→ばからしゅございます、来ないかしらん→来ないしらん




主語のない会話ばかりで日を暮らす  水野こずみ





            式亭三馬 燈籠之図




「廓言葉」
現在では、訛りがあっても、言っていることがまったくわからないという事態は
起きない。しかし、明治半ばころまで、日本は「言語不通」------つまり一歩外に
でると言葉が通じない世界だったともいわれている。
遊女たちは、生まれた土地も親の身分もそれぞれで、遊女同士が互いにコミュニ
ケーションをとるのはもちろん、お客に応対するにあたって、共通の言語が必要と
されたのは当然であった。
通じないとはいかないまでも、遊女の訛りが嫌がられたのは、『満散利久佐』に
言うように「天女のように憧れていた遊女と、ようやく会えたと思ったら、もの
すごく訛っていて、田舎の貧しい出であることが丸わかりだった」----なんてこと
になれば、客の夢を壊しかねません。そうした言葉の問題を解決するために考案
されたのが「廓言葉」である。いつから使われるようになったのかは、定かでは
ないが、そのベースは、京都の島原遊廓で考案されたといわれている。
どこの生まれでも訛りが抜けやすい、勝手の良い言葉だったとか。




取り留めもない言葉が続くがらんどう  北原照子






       花魁・松葉屋瀬川




「廓言葉」=江戸時代に遊女が遊郭で使用していた特殊な言葉で「花魁言葉」
「里詞」「ありんす言葉」とも呼ばれた。
上の段でも軽く述べたように、廓ことばを使うようになった理由は=
① 遊女の出身地の訛りを隠すため。
 平等に客に接するようにとの配慮から生まれたアリンス国の国語になった。
「アリンス」「アリイス」「ゴザンス」「ザンス」「ワチキ」
「ワッチ」「ヌシ」などの言葉が含まれる。
【アリンス国の国語 紹介】
「よんできろ」(呼んでこい) 「はやくうつぱしろ」(急げ)
「いつてこよ」(行つてくる) 「あよびやれ」(ありき)
「ふつこぼす」(こぼす) 「けちなこと」(悪いこと)
「こうしろ」(さうせよ) 「うなさるる」(おそはるる)
「むしがいたい」(腹が痛い) 「よしやれ」(しやんな)
「こそつばい」(こそばゆい) 「おさらばえ」は「さようなら」など。
ドラマ「べらぼう」でも、「むしがいたい」や「けちなこと」「おさらばえ」
「さようなら」などのことばが出てきていました。
他でも
「ござりんせん」→ありません 「いりんせん」→「いりません」
「くんなんし」→ 「ください」 「しておくんなんし」→「してください」
「いたしんす・いたしんしょう」→「そうしましょう」
「どうともしなんし」→「あなたのお好きなように考えて」などがある。




下町で生まれ豊かな人情味  柴辻踈星





       瀬川(小芝風花と蔦重(横浜流星)




大河ドラマ9話「玉菊燈籠恋の地獄」(ちょっとリピートして廓言葉実践)
貸本業で松葉屋を訪れていた蔦重に借りていた本の感想をいう瀬川
「この本…馬鹿らしゅうありんした
 この話の女郎もマブも馬鹿さ。手に手をとって足抜けなんて、うまくいく
 はずがない。この筋じゃ…誰も幸せになんかなれない」
「あーあ」と溜息をつき、蔦重は、
「悪かったな。つまんねぇ話すすめちまって」
「何言ってんだい。馬鹿らしくて面白かったって言ってんだよ
と笑顔で蔦重に伝える瀬川。そして、
「このバカらしい話を重三(じゅうざ)がすすめてくれたこと、きっとわっち
 一生忘れないよ。とびきりの思い出になったさ
といい、軽く蔦重の手に触れて瀬川は、
「じゃ、返したよと、本を手の上に乗せてその場を去っていく。
うなだれる蔦重。
本をめくると、瀬川に足抜けをするべく、黙って本に挟み手渡した通行切手が、
半分に破られて、挟まれているのだった。




現状を維持することの難しさ   吉岡 民江

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油揚げこんがり焼いているキツネ  井上恵津子





『金々先生ー夢の始まり』 (恋川春町作画) 





「金々先生そゝのかされ、吉原へ行って以来「かけの」といふ女郎に馴染み、
親の意見もなんのその、一寸先は闇の夜も、手代源四郎・万八を連れて、
ひたすら通い詰める。今宵もまた、八丈八端の羽織、縞縮緬の小袖、役者染
の下着、亀屋頭など流行りの出で立ちで吉原へ足をのばす金兵衛。
お気に入りの女郎の気を引こうと金銀を枡に入れてばらまきます。
お付きの連中は「やった」とばかりに必死にお金飛びつくけれど、
女郎は「お金ではなびかないよ」とそっぽを向いている」




そうなのか僕に興味はなかったか  徳山泰子





金々先生 金をばらまくが肝心の遊女はそっぽを向いている場面。





恋川春町は、もともと勝川春章、鳥山石燕門下の浮世絵師である。
でありながら『金々先生栄華夢』という戯作によって、自分でシナリオを作り、
自分で絵を描きながら、新しいジャンル「黄表紙」を確立-----ということを
やってのけた。しかし、この黄表紙の濫觴『金々先生栄華夢』は、蔦屋重三郎
ではなく、鱗形屋孫兵衛が刊行している。この時、蔦屋重三郎は25歳。
駆け出しの、鱗形屋の刊行物の小売業者に過ぎなかったのである。
恋川春町は、その後しばらく、鱗形屋だけで黄表紙を発刊している。
春町の鱗形屋刊作品は12作におよび、しかも他の出版元からは、
一切出していない。




ト書きになかったシナリオの隙間  近藤真奈





                『金々先生 夢のお終い』





「金々先生所々にて大きくはめられ、今はすっかり威光も消え失せて、
昨日まで先生先生ともてはやしてくれた供の者も知らんぷりで寄り付かない。
無念至極に思けれども、すべては自業自得なのだ。
猪牙や四つ手に乗っていt身が、今はバッチを尻はしょりに日和下駄とでかけ、
心細くたゞひとり、夜な/\品川へ通う身になっている。
「変われば変わる世の中じやな~。アヽ いまいましい」
そんなところへ通行の男「駕寵の衆。こひ(声)かけて早めましやうぞ」




泣きべその男を包む女偏  東 おさむ





     『頼光邪魔入』 (北尾政美画)
黄表紙は草双紙の一種である。もともと幼児向けの絵本であった草双紙を
戯作的な発想をもってパロディ化したもの。
恋川春町作「金々先生栄華夢」を刊行されたところからその歴史が始まる。





蔦屋重三郎ー恋川春町 & 朋誠堂喜三二






 廃業前の孫の字が威勢のよい鱗形屋孫兵衛が描かれている。
表の春町と喜三二の二枚看板の字が大きい。





しかし安永9年(1780)、そのような春町の出版のかたちに異変が起こった。
春町が鱗形屋から離れ、この年以来、ほとんど全てが、蔦屋刊になるのである。
実は、この理由は、鱗形屋孫兵衛の、安永9年の出版元廃業にあった。
恋川春町という鱗形屋のスター絵師、スター黄表紙作者を、蔦重はそのまま
その知名度ごと鱗形屋の崩壊とともに、鱗形屋から受け継いだのである。
蔦重が鱗形屋から受け継いだものはそれだけではない。
そもそも蔦屋重三郎という出版業の始まりは、鱗形屋孫兵衛にその根拠がある。




好奇心いっぱい抱いて前を向く  柴辻踈星





蔦屋重三郎は安永2年(1773)に吉原大門口のガイドブック・細見業者として
出発するが、最初は、鱗形屋の発刊した吉原細見の、卸売り業者だった。
早くも次の年から出版業務を開始するが、それでも鱗形屋の小売りは
やめていない。そして周知のように、やがて細見出版元として蔦屋は鱗形屋を
しのぐようになるのである。
鱗形屋が細見の株を売ったからだと言われている。
春町の仕事も、鱗形屋廃業のあと蔦屋に移ってきた。
鱗形屋孫兵衛は蔦屋重三郎の、仕事上の父親に等しかった。
まるで、魚類や昆虫が遺伝子を受け渡したあと、自然と息絶えるように蔦屋の
独立に伴ってその勢力を失い、天明という時代を迎えた途端、
その命を終える。




したたかに計算されていた涙  原 洋志






  蔦屋重三郎(左)と朋誠堂喜三二




黄表紙を創造した恋川春町は、安永9年に蔦屋の方に移ったが、
朋誠堂喜三二は、安永6年(1777)の冬から、蔦屋の仕事を始めている。
喜三二もやはり、鱗形屋から出発した黄表紙作家だった。
黄表紙というジャンルは、鱗形屋の多くは恋川春町の絵によって作られている。
喜三二は春町と違って絵師ではなかった。
雨後庵月成という俳人であり、手柄岡持という高名な狂歌師であり、韓長齢
いう名の狂詩作者であった。であるから、朋誠堂喜三二として黄表紙を作る時
には、必ず相棒の絵師を必要とした。その最初の頃の相棒が恋川春町だった。
ただし、朋誠堂喜三二が蔦屋のために最初にした仕事は、黄表紙ではなく洒落
本だった。これは蔦屋にとって最初の洒落本経験である。




生きるのが趣味で特技は綱渡り  妻木寿美代





        『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)

「もし、お頼みもうしやす。いまお誂えのそばが参りやしたと言って、
「かめ屋」の出前がそばを届けるという場面。  
『見徳一炊夢』は、金持ちの息子・清太郎が親の金を盗んで「夢」を買い、
栄華の旅に明け暮れるが、70歳になって戻ってみると家は没落していた。
実はそれは、清太郎が出前を頼んで蕎麦が届くまでの「一炊の夢」だった、
というお話。




喜三二はこの時、『道陀楼麻阿』(どうだろうまあ)という洒落本用の名前を
使った。後に天明年間にも喜三二は、蔦屋のために洒落本を書いているが、
この時は「物からの不あんど」というもう一つの、洒落本用名前を使っている。
このように、ジャンルごとに名前を使い分け、それが時代ごとに変わってゆく
のが、このころの文人たちの当たり前の姿である。
名前の違いによって、ジャンルや時代を見分けることができるのだが、後世の
我々にとっては、どの名前とどの名前が同一人物であるか明確にするのが困難
で結局誰のことか分からない名前も多数ある。
逆に、蔦屋の出版物を見ていると、多くの人と仕事をしているように見えるが、
実は、複数の名前が同じ人間を指していて、特定のネットワークの中で仕事を
生みだしている様子が、見えてくるのである。




明るいトイレ埃飛ぶのがよくわかる  仲村陽子







秋田藩御留守居役・平沢常富=朋誠堂喜三二




喜三二は、鱗形屋の作家ではあるが、春町と違い、最初から他の版元とも仕事
をした。とは言っても、初めは鱗形屋に対する遠慮から、別名で洒落本を出す
にとどまり、鱗形屋が廃業した安永9年から、やっと喜三二の名で、蔦屋から
黄表紙を出すようになる。
初期の蔦屋を支えた恋川春町朋誠堂喜三二も、鱗形屋の廃業とともに蔦屋へ
移り、鱗形屋の黄表紙活動をそのまま蔦屋重三郎に伝授していった。
蔦屋に於る朋誠堂喜三二と恋川春町の仕事ぶりは、蔦屋の別の面を見せている。
「ジャンル」「専門」や「分担」という区分けを無視して仕事が再編集されて
いくことである。
蔦屋が作った「狂歌絵本」「黄表紙」もそのようなものとして現れた。
区分けの消滅と再編集、それは春町という稀有な、そして新しい時代の象徴の
ような存在によって、世に現れてきたのである。





共倒れにならないように手を離す  大橋啓子






           『吾妻狂歌歌文庫』 (都立中央図書館)
宿屋飯盛(石川雅望)  鹿都部真顔(恋川好町)




恋川春町は絵師である。
しかし同時に、駿河小島藩江戸詰用人・倉橋格でもあった。
恋川春町とは、華やかな名前だが、実は小石川春日町に住んでいたから付けた。
というふざけた名前である。このふざけた浮世絵師が身分で言えば武士であり、
藩士であり、しかも狂歌師としては、酒上不埒として知られていた。
天明の代表的狂歌師を絵入りで集めた百人一首パロディ『吾妻狂歌歌文庫』に、
その肖像と狂歌とが載せられている。
絵師としては勝川春章、鳥山石燕の教えを受け、歌麿北斎の兄弟弟子に当る。
蜀山人=太田南畝とも親しい。
春町は、蔦屋の仕事の要だった。
春町は6歳下の重三郎を、鱗形屋のかわりに保護し育てるような気持ちで仕事
をしたのではないか。
世代から世代へと受け継がれる「連」には、必ずそのような面があった。




アリバイを貸し借りできる友がいる  山田恭正






          『鸚鵡返文武二道』 (恋川春町作、北尾政美画)
時の老中・松平定信は文武二道、学問と武芸を奨励し倹約を勧めていた。
 作品は、文武どちらにもすぐれないのらくら武士たちが,頼朝の命を受けた
畠山重忠によって箱根に湯治に行かせられ,そこで文武いずれかに入れられ
ようとする話-----寛政の改革に題材をとり,洒落やこじつけで滑稽に描いた。
心の狭い定信は、寛政の改革を茶化ちゃかしていると捉えたのである。




しかし寛政元年(1789)春町は、45歳の若さで死ぬ。
死因不明。『鸚鵡返文武二道』が松平定信によって咎められた。
小島格は幕府の呼び出しに応じなかったという。
平賀源内獄死事件の時も、小田野直武変死事件の時もそうだったが、底抜けに
明るい笑いの向こうに、暗闇の死が潜んでいた。
いつもどこかに、あの道徳家、松平定信の影があった。
真面目な顔をした道徳家には、気を付けなければいけない。
定信は、「笑い」というものを殺したかったのかもしれない。
死だけは免れたものの喜三二重三郎も、京伝南畝も変節を、遂げなければ、
生きるすべはなかった。




友が逝き白いカモメが飛んでゆく  吉永団風





          「文武二道万石通」(朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画)
定信の文武奨励策を背景に「ぬらくら」武士判別のため箱根七湯めぐり。
「穿ち」ねらいも、穴を詳しく探したけれど、見る者には、「いちいちわかり
かねます」と微妙。




朋誠堂喜三二もまた、秋田藩御留守居役・平沢常富という藩士だった。
釣りが好きなことから「岡持=桶」と名乗ったそうで、のんびりした気分が伝
わってくる。
やはり『吾妻狂歌歌文庫』にカルタ型の肖像を載せる著名な狂歌師だった。
蔦屋に移ってからは、『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)で評判を
とったが、やはり『文武二道万石通』で、定信にやられ、秋田藩より止筆を命
じられて、筆を折った。




削っても結論の出ぬ鉛筆だ  木戸利枝

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