このほど鹿児島を旅して回る間、3月としては観測史上最も強い風の吹いた日があった…と申しておりましたですが、番所鼻を出発して枕崎駅に立ち寄り、この日の主たる訪問地である知覧の町に着いた頃にはいちばん酷い風が吹き荒れていたような。たどり着いた知覧平和公園の噴水も、風に煽られて酷いことになってましたが、この写真では些かも伝わりませんですねえ…。

 

 

ところで、知覧と聞いて思い浮かべるのは名産のお茶であったり、小京都とも言われる武家屋敷の町並みであったりするわけですが、それよりもやっぱり戦時下に特攻隊の基地が置かれていたことに思い至るところでして。ですので、誰しも「知覧特攻平和会館」に寄ってしまうのでしょうなあ。

 

 

…と、予め明らかに「引けてる…」感を漂わせておりますが、展示解説のありようがどうであるかなぁということがとても気になっていたからなのですよね。太平洋戦争末期に特攻隊というものがあって、たくさんの若者が自爆死を前提とした攻撃作戦が展開されたという、繰り返してはならない歴史の存在は語り継がれるべきものでしょうけれど、どうも日本という国の、戦争への振り返り方に違和感といいますか、何かしらもやっとしたものを感じてしまっていることから、ここでもやはり…でありましたよ。以前の便乗旅で(ということは不本意ながら?)立ち寄った広島県・呉の大和ミュージアムでも、違和感アンテナが頭の上に立ってしまったことと同様に。

 

何がそんなに…という点では、未だ世の中に戦争の記憶が生々しかった頃はいざ知らず、その後に作られた日本の戦争映画が、結局のところ、親子兄弟恋人との別れの悲劇という話に陥っていたりすることも、関わりあることと言えましょうか。かかるように人の間を引き裂く別れがある、だから戦争はよろしくないという反戦メッセージが込められているとはそのとおりかもしれませんですが、果たしてそういう振り返りでいいのであろうかいね?ということなわけです。ですので知覧を訪ねて、特攻に散った若い飛行士たちの書き遺した手紙などが大きな建物壁面一杯に展示される中にあって呆然とし、戸惑うばかりなのでありましたよ。もちろん展示はそればかりではありませんけれどね。

 

 

ちなみに館内で唯一(だったかな)写真撮影可であったのが、鹿児島県沖合の海中から引き上げられたという零戦の残骸でしたですが、零戦は海軍の飛行機ですので、知覧の陸軍基地から飛び立った特攻機はこちらの方でしょう。同会館の前庭には復元展示されている「隼」です。

 

 

で、「隼」の屋外展示の近くには、特攻像「とこしえに」という像も建てられてありました。

 

 

台座の脇には「とこしえに」の由来として、こんな言葉が刻まれているのですね。

特攻機は、遂に帰ってきませんでした。国を思い、父母を覆い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。

この手のことに余りとやかく言っては差しさわりがあるものとは思いますが、先にも触れた日本の戦争映画に近い感覚が漂っているようにも思えますし、また「永遠の平和を願いながら」とは高邁な思想とも見えながら、その実、彼らに刷り込まれた平和とはどういうもので、それを抱えて死地に赴くようにしてしまった背景がどうであったかといったあたりこそ、長く記憶しておかなければならないことなのではなかろうかと。予想どおりの?もやっと感を残しつつ、知覧特攻平和会館をあとにしたのでありました。