ユネスコ世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の、鹿児島県内にある構成要素のひとつである「関吉の疎水溝」を訪ねた後、「実はこの次にはさらに「うむむ…」という事態に陥って…となるのですが…」と申しておりました場所へと移動。「関吉の疎水溝」近くの解説板にも紹介されていた「寺山炭窯跡」がその目的地でありまして。

 

1858年、集成館事業の反射炉などの燃料として用いる白炭(火力の強い木炭)を製造するために建設した炭窯本体です。堅固な石積みで築造された当時の姿を今も残しています。集成館に近く、また白炭に適したシイやカシが多いため、寺山に造られたと言われています。

という寺山炭窯跡を目指して行ったわけですが、ガイドブックには寺山炭窯跡駐車場から「炭窯まで徒歩3分」とある、その駐車場に向かったところ、たどり着いてみれば6台駐車可とされていた駐車場内には大型の工事車両が複数入っていて「どういうこと?」と。

 

路駐するわけにもいきませんので、次善策としてやはりガイドブックに記載のあった寺山ふれあい公園駐車場へと仕切り直し。こちらは92台も駐車できるのでよもやのことはあるまいと思うも、駐車場からの徒歩移動が15分と多少伸びることになるのですが、取り敢えず。

 

 

で、公園駐車場から少々車道を進んで、脇道に入るよう看板がありました。目的地まで550mとありましたですが、結構な上り下りがあって感覚的にはもそっとかかるような気がしましたですねえ。はっきり言ってあたりはすっかり山の中…という雰囲気の中を歩いていきますと、やおら長い石段とその上に大きな石碑が見えたのですなあ。

 

 

「南洲翁開墾地遺跡碑」というものでして、南洲翁、言わずとしれた西郷隆盛の事績にまつわって建てられているということです。

西郷隆盛が明治8年(1875年)、開墾社をつくった場所です。昼間は原野を開墾し、米やサツマイモなどを栽培。夜は学問修養に励むなど、農業を通じた青年の教育に力を注ぎました。

こんな解説文がありましたが、鹿児島に出かけたとあって「鹿児島錦江湾紀行」の中で西郷の名前は何度か引き合いに出してはいるものの、その人にさほどの興味があるでもないものですから、敢えて階段を登ってみるまでもなく先へ進みます。

 

 

世界遺産(の構成要素のひとつ)へと続く道なだけに一応舗装されてますが、周囲はすっかり山の中でしたなあ。そして、肝心の炭窯跡にたどり着いてみればこれ、この通りで…。

 

 

 

どうやら再三の自然災害の結果、復旧工事中であると。ブルーシートで覆われていますので、どれほど悲惨な状況に立ち至っているのかもわかりませんけれど、このときになってようやっと、この場所に近い駐車場に工事車両が停まっていたのが「なるほどねえ」と思った次第。ただ、こういうことならば、遊歩道へ入り込む際の看板に何かしらの貼り紙でもあればなあ…とは思ってしまいまして…。

 

 

解説板ばかりがぴっかぴかなのが、妙に癪に障る気にもなったりしますが(苦笑)、本来はこんな形をしていたのであったようですなあ。

 

 

ということで、寺山炭窯跡の探訪は無念の結果に立ち至ったわけですけれど、鹿児島市街からせっかく足を延ばして辿りついきましたので、せめて近くにあるという寺山展望台に立ち寄ってみることに。解説板を信じるならば「桜島と錦江湾を眼前に、大パノラマを展望できます」ということですのでね。

 

 

 

どうやらこちらの方は看板に偽りなし。鹿児島市街の城山から眺めるのとはまた違った面持ちの桜島がどぉんと見えますし、少々目を転じればうっすらもやった先に霧島連山も見えるのですものね。おかげで残念な寺山炭窯跡の憂さ晴らしができて、さて鹿児島市街へ戻りますか、ということに。次も(というより、次の目的地こそが)世界遺産と関わりある場所なのでありますよ。

ちょいと思い立って山梨へ、県立博物館と県立美術館のそれぞれ企画展・特別展を見てこようと思いまして出かけたような次第でありますよ。まずは、中央本線石和温泉駅からバスで数分の山梨県立博物館に行ったのですが、甲府駅始発で博物館を通るバスは何とまあ、河口湖経由富士山駅(富士急行線のかつての富士吉田駅)行きだものですから、わんさかと乗客が乗り込んでおり…。そのうちには相当数の外国人観光客であったとは、昨今よく耳にするインバウンドをまざまざと、ですなあ。

 

ともあれ、博物館で下車したのはほんの3~4人でしたので、博物館がわさわさして「うむむ…」てな事態は憂慮するまでもなく、のんびりつ見て回ることができました。と、開催中の企画展は『物流と文化の大動脈 富士川水運の300年』というものです。

 

 

山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに「日本三大急流」に数えられた…ということだけ知っている富士川ですが、これまで(甲府と静岡県富士市を結ぶ)JR身延線の沿線にはおよそ縁が無かったもので、富士川自体、その流れを見たことは無いような。それでも、急流と言われた川で大動脈となる水運が行われていたとは、ちと興味のそそられるところがあり、出向いた次第なのでして。

 

展示をつぶさに見ていきますと、思いがけずもこんな人あんな人、さまざまにその名に聞き覚えのある人物たちが富士川水運に関わっていたことが分かり、極めて個人的満足度の高い内容であったなあと。ともあれ、山に囲まれた甲斐国にあっては、多くの物資を運ぶ際に川の流れ、すなわち舟運を使うとは誰でも考えるところですけれど、何せ急流と言われて難所も多い富士川でもって高瀬舟による通船が可能なように開削工事を命じた人物、これは徳川家康であったということですなあ。

 

関ケ原の勝利の後、晴れて?甲斐国の手中に収めた家康は江戸に幕府を開いて、やがて駿府に住まうようになるわけですが、甲斐国と江戸、あるいは駿府との物流はひとえに富士川頼みだったと考えれば当然といえば当然で。年貢米を運ぶことだけとっても、安定した通船は欠かせなかったのでしょう。

 

でもって、家康がこの富士川開削という大きな土木工事を請け負わせたのは、角倉了以であったというのですなあ。息子の角倉素庵ともども豪商であり、当代の文化人としても知られたこの人は、土木工事の技に秀でた職人集団を束ねた事業家でもあったとは。本展展示室には、京都の寺に伝わる角倉了以像が2体置かれてありますが、いずれの像も同じポーズで手には土木工事に関わる犂を携えていて、了以自身が像を作る場合はこの姿でと望んだとなれば、もしかすると了以にとっては土木事業が本職であると考えていたのかもですねえ。

 

そんな了以が工事を手がけ、実際に通船可能となったかどうか、気に掛けていた人物が大久保長安であるようで。幕府最初期に江戸城下の普請に関わり、後には各地の金銀山経営に奉行として辣腕をふるった(それだけに私腹を肥やしたとも妬みをかったともされて失脚しますが…)長安は富士川水運にも関わって、開削状況の検分と結果として船頭の手配を命じるといった手紙(の写し)が残されて、展示されておりましたよ。

 

ということで、急流制して舟運による組織だった物流が始まるのですが、最も大事な荷物は年貢米の輸送であったと。一般に、何々藩と言われる大名支配の各地では在地の領主の下へ年貢米を納めることになっていたところが、甲斐国の場合はちと様子が異なったわけで。徳川忠長(二代将軍秀忠の息子で、家光の弟)が甲府藩主となるも駿府に住まったままでしたので、上納する米は駿府に送らなくてはならない。その忠長が不行跡を責められて改易されて後、甲斐国は長く天領になりますし、時に藩主ができたとしてもほとんど甲府城に入ることはなかったそうですので、相変わらず年貢米は江戸その他に廻送されることになりますから、富士川頼みの構図は全く変わらないわけです。

 

ところで、富士川を伝っていく下り船は公用としての年貢米廻送にもっぱら使われましたけれど、上り船も決して空荷で帰ってくるわけではありませんですね。山国・甲斐に必須の塩はもとより、なかなか手に入りにくい品々を満載して、扱う問屋(商人)は大儲けしたそうな。下り船の荷が集まる河岸が設けられた鰍沢などは甲府を凌ぐ賑わいを見せていたとも言われますし。鰍沢と聞けば、葛飾北斎『富嶽三十六景』の一枚、「甲州石斑澤」が思い浮かんで、荒海とも見まごうような、激しく並みだった川面が富士川の急流ぶりを想像させたりもするところながら、町の賑わいとは全く結びつかない。それだけに、甲府を凌ぐほどの賑わい、権勢を誇ったとは俄かにイメージしにくかったりもしたものです。

 

ちなみに、急流の利を生かして?下り船は4時間ほどで駿河国側の河岸に到達するも、上りの方は「船頭たちの手によって4、5日がかりで曳きあげられてい」たそうですので、船頭さんたちは大変な重労働でしたろう。しかも、空船でなしに「塩や干魚など内陸地域では手に入らない物資が満載」されていたとあっては、なんと過酷な話ではありませんか。手掛けた商人にはうはうはですのにねえ。運び込まれた荷は、甲斐国のみならず、その先陸路を伝って信濃国、諏訪や松本の方へも売り捌かれていったようで。

 

とまあ、そんな大動脈・富士川の舟運は江戸期を通じて賑わいますが、実は明治になって最盛期を迎えるのだとか。何ごとにつけ、幕府の統制がなくなって自由な物流ができるようになったことがポイントらしいのですが、そんな矢先に登場するのが鉄道ですな。されど、東海道線が通ったあたりでは、むしろ富士川を下って東海道線に乗り継いで東京へ向かうというのが、山国からの最短ルートとなって旅客需要が大いに増えたのであるとか。あたかも鉄道との共存共栄にひとときであったわけですが、結局のところ富士川舟運に引導を私のもやはり鉄道であったのですよね。中央本線が甲府と東京を結ぶと、物流も旅客も持って行かれてしまう。さらに富士見延鉄道(現在のJR身延線)が富士川沿いに海と内陸とを結ぶに及んで、もはやこれまで…ということに。昭和3年(1928年)のことだそうです。

 

物流の用に供していたうちは、通船の便宜のために長い期間に何度も河川改修が行われた富士川ですけれど、物流が鉄道に渡ると、川の改修は急流たる暴れ川をなだめる治水の方向で行われていったようですね。結果として、日本三大急流に数えられたという富士川に今、かつての面影は無いくらいに水量も減っているのであるとか。そうはいっても、そのうちに機会を見つけて身延線沿いというか、富士川沿いにあちらこちらの探訪に赴かねばならんなあ…などと考えた次第なのでありましたよ。

ユネスコの世界文化遺産に「明治日本の産業革命遺産」という括りであちこちの史跡がまとめて登録された時には、「こういう登録のされ方もあるのであるか」と思ったものでありまして。北は東北・岩手県釜石から南は九州・鹿児島まで点々と。「ふーん」てなものでありましたよ。

 

ではありますが、はるばる鹿児島まで出かけたものですから構成要素となっている史跡を訪ねてみることに。ただ、その前にちと寄り道として城山公園へ登ってみたのですなあ。鹿児島県観光サイト「かごしまの旅」に「市街地の中心部に位置する標高107mの小高い山」、「西南戦争の最後の激戦地」と紹介されている場所ですな。今では市民の散策路、観光客にも市街を見下ろす展望台として立ち寄る人も多い所であるということで。

 

 

確かに鹿児島市街ともども、正面に桜島の雄大な姿を望むに恰好のロケーションであろうかと。ぼんやりとですが、西郷隆盛も何度となくここからの展望を眺め、劣勢となった西南戦争最後の日々もまた…なんつうふうに思ったりも。今では日が落ちると夜景を見に来る人もたくさにるようですなあ。が、それはそれとして、一旦は町の喧騒を離れていかにもな里山風景の中へと移動し、訪ねたのは「関吉の疏水溝」、世界遺産構成要素のひとつです。

 

 

のどかな景色の中をゆっくり歩いて、程なく到着。さすがに世界遺産だけあって?実に立派な案内板が建てられてありましたですが、その説明書きよりは鹿児島県観光サイト「かごしまの旅」の紹介文の方が理解の助けになりそうですので、説明の引用はそちらを。

 

関吉の疎水溝は、江戸初期に農業用水のために建設。そして1722年、島津吉貴が仙巌園へ水を供給するために磯地区まで延長します。その後、集成館では高炉や鑽開台の動力源として水車を必要としましたが、磯地区には大きな川がないため、島津斉彬は関吉の疎水溝の改修や整備を実施。取水口では川幅の狭い場所を利用し、江戸の土木技術により水位をかさ上げして水路に水を引き込みました。現地には今も当時の職人が岩盤を加工した痕跡などが残っています。現在の取水口は、幕末の取水口が大正時代の大洪水で流されたため上流部に移設したものです。

 

 

左側に切れ落ちた谷が本来の川でして、これの少し上流にある取水口から得た水を右側の疏水が流していくという具合。取水口に向けて、遊歩道が整備されておりましたよ。

 

 

なるほど、この高低差が疏水の取水に利用されているわけでありますね。ですが…。近代化事業とは異なるにせよ、そもそも(この関吉も同様ですが)農業には水が必要で、水路を拓くといったことは日本中のあちらこちらで行われていたわけで、ことさらにここの疏水に特殊な技法が使われたということでもなさそうで。要するに、鹿児島市街に近い集成館という幕末の工場に工業用水を送ったということが世界遺産を構成する「部分的要素」だということなのでしょう。世界遺産、世界遺産とことさらに何かしらの期待を寄せてしまうと、少々肩透かしになるかもしれませんですね。部分を見て全体を想像することが必要であろうかと思った次第でありますよ。

 

と、いささか残念感を醸してしまっておりますが、実はこの次にはさらに「うむむ…」という事態に陥って…となるのですが、それは次の話として。ここではまた余談をひとつ。

 

 

「関吉の疏水溝」見学には、こちらの施設の駐車場利用が可ということで覗いてみた「せきよしの物産館」です。やっぱり東京と比べて野菜が安いなあと見て回ったわけですが、とにかくたくさんの幟旗を見ても「さつまいも推し」であることが分かるのでして、さすがに鹿児島と。ご存知の方はご存知なのでしょうけれど、さつまいもにもいろいろ種類があって味わいが異なるようで。

 

 

元来、やきいもと言わず、天ぷらにつけ何につけ、さつまいも素材を敢えて食することの無い者としましては、「そうなんだねえ」と。確か桜島の有村溶岩展望所の売店だったと思いますが、同行者の中には「鹿児島と言えばさつまいもでしょ」と紅はるかのやきいもを買った者がおり、お裾分けをひとかじりしたですが、「ほお!」とは思いましたですねえ。ま、それでも「せきよしの物産館」の推しぐあいを見て、もう一度とはならなかったのではありますが(笑)。

あまり聴ける機会の無さそうな曲がプログラムにのぼった演奏会には、ついついぴくりと食指が動き…というわけで、東京交響楽団の演奏会@ミューザ川崎に出かけてきたのでありますよ。「そりすべり」やら「タイプライター」やら、はたまた「トランペット吹きの休日」やらの小品で知られるルロイ・アンダーソンが作った「ピアノ協奏曲」が取り上げられておりましたのでね。

 

 

数々の小品に人気が出て、1953年当時、「全米でもっとも作品が演奏される作曲家」(本公演プログラム解説)になっていたというアンダーソン、そうですけれど、いわゆるアカデミックな音楽教育を経ていないことにいくらか臆するところがあったかどうか、その人気の頂点にある同じ年に敢えて書いたのが唯一の協奏曲となる「ピアノ協奏曲」であったとか。

 

そも協奏曲というフォーマットや、そこで使われるソナタ形式といった様式は20世紀半ばの当時でさえ、はっきり言って「古典的」なものと捉えられていたものと思いますが、これに挑んでこそ「作曲家」てな思いが多少なりともあったのかもしれませんですなあ。思えば、それより何十年か前にガーシュウィンがクラシック音楽を学び直すため、ラヴェルに弟子入りンを試みた(結果は良く知られるように「一流のガーシュウィンが二流のラヴェルになることはない」てなふうに諭されたのでしたな)りもしてましたっけ。

 

ともあれ、相当な意気込みで臨んでアンダーソンですけれど、作品の評価はどうも芳しくない。忸怩たる思いを抱きつつも自ら作品を封印してしまったようで。遺族の意向によって再演され、楽譜が出版されたのは1989年と言いますから、ずいぶんと長い眠りからようやく覚まされたということになりますか。

 

で、このレアな曲の印象は…となりますと、よくも悪くも?ルロイ・アンダーソンであるなあと。さまざまなアンダーソン作品を彷彿するライトなメロディーがたくさん顔を出すのですけれど、それを協奏曲という型の中に押し込め、モーツァルトやベートーヴェンに並ぶ古典的な、つまり立派な?作品にしなくてはならないというところに窮屈さがあるような。ま、ガーシュウィンの方も、もっともよく知られ、かつ演奏頻度も高い「ラプソディ・イン・ブルー」も、ピアノ協奏曲を意識しつつも要するにピアノと管弦楽が交互に出てくるだけと言われてしまったりもするわけで、なかなかに難しいところがありましょうねえ。

 

そうはいってもルロイ・アンダーソン、「アメリカ軽音楽の巨匠」としてボストン・ポップス・オーケストラのみならず数々のオーケストラで作品がちょこちょこ取り上げられ、それだけ魅力を失わない作曲家であるわけですけれど、今回の演奏会の後半ではアンダーソンを「アメリカ軽音楽の巨匠」と評した本人、ジョン・ウィリアムズの作品でありましたよ。おそらく来場者の多くは、こちらをこそ聴きに来られていたのでしょうなあ。

 

取り上げられたのは映画『スターウォーズ』の音楽、「エピソード1からエピソード6までの抜粋を物語順に演奏」するという、オリジナル構成による10曲でありました。これに冒頭、20世紀フォックスの映画が始まるときのファンファーレが前奏として演奏されるあたり、凝った企画とも言えましょうかね。

 

ファンファーレに続いては「スターウォーズ」といえばこれ!という「メイン・タイトル」が始まり、あとは映画の順にというわけながら、あいにくと「スターウォーズ」シリーズは第1作から第3作(9作完結してからはエピソード4~6)だけでほぼ満足し、長らく時を隔ててできた4作目(すなわち『エピソード1/ファントム・メナス』)は見たもののほとんど覚えていない…という者には、その後に続く音楽はむしろ映画音楽という縛りの外で聴いていたような感じです。

 

さりながら、むしろ映画の印象の無さが幸いしたものか、「アナキンのテーマ」、「運命の闘い」、「アクロス・ザ・スターズ」、「英雄たちの闘い」と、全体の中核をなしていた部分は純音楽(?)的に聴いて、その響きの壮大さに「おお!」と沸き立つことに。映画音楽と言えば、これらに続いて演奏された「ヒア・ゼイ・カム」(エピソード4の宇宙船戦闘シーンで流れる)がいかにもな劇伴(劇付随音楽)であることを思えば、後年に公開された「スターウォーズ」シリーズが映像的に進化を遂げたというばかりでなしに、ジョン・ウィリアムズの音楽もまた映画音楽のイメージを凌駕するように深化を遂げたのではなかろうかと思ったりしたものです。

 

演奏会のプログラム紹介に曰く、ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」の音楽には壮大なオーケストラ曲を付けたいと考えて、スピルバーグに相談したところ、ジョン・ウィリアムズではどうかということになったそうな。1977年の第1作(くどいですがエピソード4)の製作当時、スピルバーグは『続・激突!カージャック』(1974年)と、それにもまして『ジョーズ』(1975年)とでジョン・ウィリアムズと組んでいましたから、高く評価するところがあったのでしょう。ただ、この時点で「スターウォーズ」やその後の「スーパーマン」、「インディージョーンズ」などで思い浮かぶ壮大なオーケストラ曲を、ジョン・ウィリアムズが手掛けていたのであったかどうか。

 

年代的には『ポセイドン・アドベンチャー』や『タワーリング・インフェルノ』といったパニック映画大作の音楽に携わっていますけれど、いずれもモーリン・マクガヴァンが歌った主題歌しか記憶に残っておらず、どんな音楽が流れていたものか…といった印象だけに、スピルバーグのウィリアムズ起用提案は先見の明があったというべきなのかもです。

 

とまれ、今回の演奏の凝ったところはたった2曲(?)のために合唱を入れた点にもありますですね。そのおかげで「運命の闘い」と「英雄たちの闘い」は肌が粟立つようなゾワゾワ感があったものです(擬えるならばオルフの『カルミナ・ブラーナ』か)。

 

ということで、ルロイ・アンダーソンの珍しいピアノ協奏曲を聴くつもりで出かけた演奏会で、すっかりジョン・ウィリアムズの音楽に感心して帰ってくということになったのでありました。ただひとつ、蛇足を覚悟で言うならば「スターウォーズ」の最後に「エンド・タイトル」が演奏されたのは宜なるかななるも、これは「王座の間とエンド・タイトル」の形で聴きたかったですなあ。ま、1970~80年代公開の最初期三部作にばかりこだわっているからかもしれませんけれどね。

 

桜島からフェリーでもって鹿児島市街へと帰ってきたわけですけれど、フェリーターミナルのすぐ脇に水族館があるとあって「寄って行く?」てな話になったのですなあ。はっきりとした理由なりを申し述べらないところながら、個人的にはどうも動物園よりも水族館の方に引き寄せられるものでして。近年でも、規模の大小はともかくも、福島県小名浜でも、静岡県焼津でも、神奈川県相模原でも、栃木県大田原でも水槽を前にして海の生きもの、川のいきものなどをしばし眺めたりもしたりしましたし。

 

とまあ、そんなことはさておき、立ち寄ったのは「いおワールド かごしま水族館」。魚(うお)のことを鹿児島弁では「いお」と言う(らしい)ところから「いおワールド」という愛称になったようですな。

 

 

で、うっかり入り込んだこちらの入り口は団体入口だったようですな。本来の入り口側からはエイ(魚です)のイメージと言われる、独特な水族館の外観が見えたのかもしれませんが…。ともあれ、エイを模した外観となれば当然に展示の目玉はエイであるのかと思えば、どうやらそうではなさそうで。黒潮大水槽という館内最大の水槽にエイともどもゆうゆうと泳いでいる巨大魚で夙に知られる水族館であると。

 

 

世界最大の魚と言われるジンベエザメ。映画『ジョーズ』に出てくるがちがちの肉食系ではなして、「気はやさしくて力持ち」的な存在であるようす。大量のプランクトンを食して、最大では20mにも成長するらしいのですが、こちらの水族館では「定置網に入ったジンベエザメの幼魚を5.5mになるまで飼育し、海へ帰しているということで、館内のビデオ上映では海に戻す大作戦のようすを見ることもできるのですね。

 

ところでこのジンベエザメ、なまじ気性おだやかなだけに捕獲しやすいのでしょうか、要するに中華料理などで使うフカヒレ用に乱獲され、絶滅危惧種になっているそうな。だからこそ、一定期間だけ展示し、当然その間にさまざまな研究もするのでしょう、その後には海に還すというスタンスをとっているのでしょうなあ。

 

もちろん水族館ですのでジンベエザメ以外の生きものもたくさん見られるわけですが、ちと目を引いたのはこちらのイセエビ。ま、鹿児島市街に至る以前に南九州市の「いせえび荘」でおいしくいただいてしまったこともありましょうけれど、こんなに立派な体躯と同時に色合いに目が向いて…。

 

 

また、特別展示室というコーナーでは「実は〇〇だった生きものたちPart2」という特別企画展が開催中でしたなあ(~2024年6月2日)。

 

 

「触れていないのに刺すクラゲがいる」とか「ホンゾウワケベラは鏡に映る自分がわかる」とか、生きものの不思議に迫るあれこれを解説していましたですが、同企画Part1段階から人気で、今回再登場したのがこちらであると。

 

 

「ハリセンボンの針の数は本当に千本あるのか?」という誰もが抱く?疑問に応えるべく、一本一本勘定したような次第。結果としては個体差があるようですけれど、名前の半分にも満たないようでして、展示では300本あまりだったような(すいません、正確な数は忘れました…)。

 

ちなみに、訪ねたときにちょうどタイミングが合いましたので、イルカのイベントを見にプールへと。要するに「ショータイム!」とか思えば、「イルカ研究所~イルカの見ている世界~」というテーマのもと、「イルカたちが目や音を使って周りを見る能力について、実験をおこないながら紹介」するという体裁。もちろん、イルカくんたちの大ジャンプあり、大宙返りあり、そのたびにプールの水がばっしゃばしゃ跳ねて、なまじ近くに陣取った観客はずぶ濡れになっていたりしたわけですが。

 

 

てなふうに、かごしま水族館をひと巡りして一日の観光は終了。ホテルに帰ってひと休みの後、晩飯に繰り出した先が海鮮居酒屋であったとは、許されよ、海の生きものたち。それとこれとは話が別で…と言ってよいかどうか…。