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本づくりの職人が逝く 忘れがたき一夜

  • 文 保坂展人
  • 2015年4月14日
     

写真:出版記念パーティーで柴田敬三さん(左)と 出版記念パーティーで柴田敬三さん(左)と

 

 まだ桜が残る4月3日、私は友人と昼食をともにしていました。どちらからともなく、共通の友人のことが話題にのぼりました。

「柴田さん、病状どうだろうか」

「詳しくは聞いていないけど……、前立腺ガンが転移して検査中みたいで」

 名前が出たのは、出版社「ほんの木」社長の柴田敬三さん。この「太陽のまちから」のコラムを『88万人のコミュニティデザイン――希望の地図の描き方』という1冊の本にまとめてくれた編集者です。

 同時に、私のよき理解者でもありました。選挙が近くなってくると、相当の分量になるメールを送ってきてくれるのが常でした。思えば、世田谷区長としての私の任期も残り少なくなり、世田谷区長選挙が3週間あまりに迫っているというのに、この1週間、何の連絡もありませんでした。

 ふいに胸騒ぎがして、柴田さんの携帯電話を鳴らしてみました。何度かかけたものの、つながりません。しばらくして、着信記録が残っていることに気づきました。胸をなでおろして電話をかけ直すと、電話に出たのは、柴田さんではなく、せつ子夫人でした。

「柴田は今朝、亡くなりました。突然のことで……。昨晩は家族と夕食をとって、入浴をして休んだのですが、朝には呼吸が止まっていました」

 柴田敬三さん、享年69。本づくりの職人でした。

 1970年に編集者として入社した小学館から10年後に独立し、編集・制作を続け、86年に「ほんの木」をたちあげました。 その2年後に月刊誌「アップデイト」を創刊して、91年まで刊行しました。また、環境、NGO、教育、市民運動、政治、社会など、市民の視線から190冊の本を出し続けました。

 私が、友人から紹介を受けたのは、2008年のことでした。以来、よき相談相手として、衆議院選挙や参議院選挙で熱心に応援してくれました。

 そんな柴田さんの人となりにふれた新聞記事があります。2013年12月31日付朝日新聞の「天声人語」で、次のように紹介されています。

<その人は、きのうも仕事場にいた。柴田敬三(けいぞう)さん、68歳。東京都内で出版社「ほんの木」を営む。年末の休みも取らない精勤ぶりだ。ご本人は冗談めかしてみずからを「老働者」と呼んでいる」「もともと編集者で、チェルノブイリ原発事故を機に起業した。環境などの市民運動やNGOを応援したかった。今年は『原発をゼロにする33の方法』を出し「デモは誰デモ、どこデモできる」「ひとりの小さな行動を同時多発で」と呼びかけた>

 柴田さんとは忘れがたい記憶があります。あの2011年3月11日の夜をともにすごしたのです。東日本大震災が起きた時、文京区湯島にいた私は歩いて神田駅をめざしました。激しい余震が続く中で道路には人が溢(あふ)れ、電車は止まっています。ふと、「ほんの木」が近くにあったことを思い出し、当時、神田錦町にあった柴田さんの会社を訪ねました。

 余震のたび、「これは大きいな。ふだんの地震とは違うな」と言いながらも、柴田さんは落ち着いていました。やはり、帰宅困難者となった旧知の人たちがやってきます。

 午後7時すぎに設置された政府の原子力災害対策本部は、原子力緊急事態を宣言。とてつもない事故が福島第1原発で進行していることを国会議員秘書をしている友人から聞き、インターネットで情報収集にあたりました。そして、ガタガタと揺れるテーブルを囲んで、集まった人たちと原発事故について夜通し語りあいました。

 翌朝、柴田さんの会社を出たのは5時すぎでした。これから、重大事故がどうなっていくのか、まったく見当もつかない緊張感を抱えながら、朝の冷気の中へ踏み出したことをよく覚えています。

 あの晩をともに過ごしたという経験は、私の人生も変えました。2週間後に、私は救援のために福島県南相馬市を訪れ、その後、心を決めました。4月、世田谷区長に立候補したのです。

 当選後は、年に何回か、柴田さんの会社で、自治体として取り組んでいる事業について報告して議論を重ねました。そして、13年1月から朝日新聞デジタル「&w」で「太陽のまちから」の連載が始まりました。

 今、こうして原稿を書いている木のテーブルの向かい側に座った柴田さんと、このコラムをまとめて本にしようという打ち合わせを始めたのが、1年前の春のことでした。どのようにまとめるべきか、どんな読者に向けて書くかなどを語り合いました。タイトル案をなんと100本以上もファクスで送ってくれたのにはびっくりしました。

 ひたむきに、懸命に、真摯(しんし)に本づくりに向き合う姿勢に感じるものがありました。私はこれまでに30冊を超える本を出してきましたが、これほど精魂込めて取り組んでくれた編集者は記憶にありません。

 コラムをまとめて1冊の本に編むのは簡単なようで、じつに難しい作業でした。コラムは読み切りで独立性がある小文なので、時系列に並べていくと重複部分が多くなり、まわりくどくなってしまいます。そのため、テーマ別に並べ替えるという作業を繰り返しましたが、途中で方針を変えたり、やり直したり。私のワガママにつきあっていただき、普通は2回で終わる著者校正をなんと5回も重ねたのでした。

 その途中でアクシデントがありました。

 昨年7月、柴田さんは仕事場で気分が悪くなり、病院に駆け込んだのです。「どうも疲れやすい。息苦しい。力が入らない」といい、都心の病院の集中治療室に運ばれました。心筋梗塞(こうそく)だったそうです。

 そんな重い病気とは知らずに、私は集中治療室に何回目かのゲラを持ってお見舞いに行きました。発見が早かったこともあって、その時は2週間の入院で事なきをえました。しかし、要注意状態だったことはかわりません。それでも柴田さんは出版の仕事を続け、秋に行われた出版記念会にも足を運んで、挨拶(あいさつ)をしていただきました。

 今年2月になって前立腺ガンが見つかり、その後の検査で転移していることが判明し、柴田さんは自宅から病院に通いながら治療を受けていました。亡くなる前日も普通に家族と会話して寝床につき、午前3時に起きて小用をたした、と本人が記したノートが残っていたそうです。

柴田さんの生命を削っての仕事に心から感謝をしています。柴田さんには、たくさんの志をいただきました。これからもずっと大切にしていきたいと思います。

 すでに葬儀は近親者のみで執り行われ、友人たちが呼びかけ人になって「お別れの会」を開くことになりました。本来なら柴田さんの古希の誕生日となるはずだった5月18日午後6時半から、千代田区一ツ橋の如水会館で行われます。

 最後にお知らせです。2013年1月から毎週「&w」で連載してきた「太陽のまちから」は、今回で最終回となります。毎回、テーマの相談に乗って議論してくれた編集部の諸永裕司さんが異動したこともあり、私が区長としての任期を近く終えることもあって一区切りつけることにしました。ご愛読ありがとうございました。

 毎回、多くの読者に読んでいただいたこのコラムは5月から、発表の場を『ハフィントンポスト(日本版)』に移して続けていくことになりました。私のツイッターでお知らせしますので、引き続き読んでいただけたら幸いです。

(終わり)



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