「現代は、死という契機を通過しなければ生に辿り着けない時代なのかもしれない」

 

 


すっかり読んだ気になっていた『病の哲学』小泉義之著。最後のあたりを読み残していたので、読んでしまう。

 

わかったところ、わからないところ、同調できるところ、できないところ、むくむくと小波が沸き立つ。二箇所引用。

 

「現代は、死という契機を通過しなければ生に辿り着けない時代なのかもしれない。本書が示したかったことは、死を通過して辿り着くべき生は、病人の生にほかならないということである。今後、病人の肉体という個体についての科学が生まれるだろう。そして、病人の生に相応しい哲学と思想が書かれるだろう」

 

胃ろうなどの延命措置とかかな。管だらけの身体で確かに生物学的には死んではいない。生きていることは生きている。個人的には延命措置は望まない。国民健康保険証の裏面に表記してある臓器提供は、躊躇しているが。

 

「これは近代社会に限ったことではないが、人間の社会は災いを転じて福となしてきた。品の無い言い方に聞えるだろうが、他人の不幸を食い物にして多くの人間が飯を食えるようにしてきたのである。社会的連帯とは、経済的にはそのようなことである。そして、これは、悪いことではなく、途轍もなく善いことなのである。だから、シンプルにやることだ。誰かが無力で無能になったら、力と能力のある者がそれを飯の種にできるようにするのである」

 

「社会的連帯とは」獲物をシェアすること、か。一見、冷たい物言いに思えるかもしれないが、ヒューマニズムの偽装、エセ人道愛よりは、毅然としていてよいのではなかろうか。たぶん、ホンネは、そういうことだと思うし。

 

いま読み出した『思いがけず利他』中島岳志著とリンクするような。

 

作者が示唆しているあたりは、この国のさらなる老人大国化と止まらない少子化により、早晩、考えねばならない問題となる。つーか、なっている。


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