古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様 | 空想俳人日記

古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様

 ボクが古関裕而という人を知ったのは、確か欽ちゃん(萩本欽一)が司会してた「オールスター家族対抗歌合戦」で審査員を務めていたんじゃなかったかな。作曲家であることは、それで知ったのだけど、どうせ(失礼)演歌の作曲家だろう、なんて高括ってたよ。
 それから随分時がたつ。福祉施設でのボランティア演奏をするようになって、「高原列車は行く」をレパートリーに加えた時だった。
「この曲、なんか凄くない。メチャ軽快で。誰が作ったんだろう」
「古関裕而って人だよ」
 えええ、あの、欽ちゃんの番組で審査員長やってた人じゃん。
 それから、甲子園での高校野球の時期に演奏しようと、全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」もAMIで演奏するようになった。これも古関裕而だ。
 そして、1964年の東京オリンピックでの行進曲「オリンピック・マーチ」も、古関裕而だよ。このメロディ、当時、小学3年だったかな、覚えてるんだ。
 怪獣映画「モスラ」の、ザ・ピーナッツが歌ってた「モスラの歌」も古関裕而だ。
 阪神タイガースの歌「六甲おろし」も巨人軍の歌「闘魂こめて」も、古関裕而の作曲だ。
 全然、演歌の作曲家なんかじゃない。NHKの朝ドラにもなったが、ボクはテレビがないので観ていない。

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 そうしたら、この本を本屋で見つけたよ。

「心も浮き立つような、古関裕而作曲のオリンピック・マーチが鳴り響きます」
と、アナウンサーが発した実況中継の第一声。
「報われた」
その思いはあったと思う。
アジアではじめてのオリンピック。
日本の作曲家を代表してその入場行進曲を作るということは、生涯5000曲以上の作品のなかでも特別の意味をもつ。
青空の下、自分の曲に乗せて世界中から集まった選手たちが行進し、5万人を超える観衆が曲に合わせて笑顔で手拍子する。作曲家冥利に尽きる。
この素晴らしい瞬間を目にしたことで、これまでの生みの苦しみの苦労が報われた。
また、片田舎で将来の不安に怯えながら独学した日々、ヒット曲に恵まれなかった苦悩、それもこれも、この瞬間で報われた……。

 この本を読んで思った。この人は、演歌創るわけない、と。コロンビア専属の作曲家になって作った曲が売れない。その時、同じコロンビア専属の古賀政男の「影を慕いて」がヒット。でも、古関裕而は真似ができない。そりゃ、そうだ。暗い曲は作りたくないのだ。凄い分かる。

第1章 福島行進曲
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 彼は、福島のいいとこのお坊ちゃんとして生まれた。早くから、音楽に取り憑かれる。自分で作曲し始めたのも早い。商業高校の頃、教科書の中に五線紙を忍ばせて。当時、巷では数字譜が隆盛、西洋音楽の五線譜を書けるなんて。
 裕福な家庭もいつしか斜陽族。自分は音楽がしたいのに、卒業したら、何ができる。そしたら、母方の家族も裕福で、伯父さんが頭取、声かけられ銀行勤め。そこでも、仕事の書類の合間に五線紙を忍ばせて、作曲。
 自分が凄い作曲家になることを夢見ながら、日常は、「このままでいいのだろうか」と。

第2章 夢淡き東京
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 そんなあるとき、凄い朗報が舞い込む、いやあ、こんなことがあったんだ。彼は、国際コンクールに交響曲「竹取物語」を応募して、それが第2位と、入選しちゃうのね。いちやく、有名人。
 当時の「福島民友新聞」には、つぎのように出ている。
《世界的に認められた!!/一無名青年の作曲/一流音楽家に互して二等当選/福島市の古関裕而君
 埋もれていた世界的作曲家が福島市から現れ出で郷党人を驚かした。右は福島市新町喜多三呉服店主・古関三郎治氏長男裕而君(22)という目下川俣銀行に勤務している一介の青年で、同君は昨年10月中英国ロンドン市のチェスター楽譜出版社で募集した作曲に「竹取物語」外三曲を応募した所、世界中の一流作曲家を凌(しの)いで美事第二等に当選し、大作曲家連を顔色なからしめ(た)。》
 ただ・・・、ちょっと、この本から脱線するけど、こんな話もある。
《古関はたしかに国際作曲コンクールに応募し、なんらかの返事を受けました。ただ、送られてきた英語の手紙を「二等当選」と誤読した上、親しい人に伝えてしまったようです。それが漏れて、大々的な新聞報道に発展。やがて古関は間違いに気づいたものの、後の祭りだったというわけです。(評論家・近現代史研究者 辻田真佐憲)》
 それはともかく、とにかく有名になってしまったわけで、たくさんのファンレターも来る中、一人の女性との文通が。文通だけで、心が通じあっちゃったんだよ。彼女、声楽を学びたい、そんな音楽心も通じ合ったんだろうねえ。コンクールのご褒美、賞金とイギリス留学。その留学を投げうっちゃって、文通相手の彼女と結婚しちゃう(って、先にも脱線で書いたけど、「二等当選」と誤読したなら、結局の道しかなかったのかも)。結局、彼は、ずっと独学。
 そして、二人で東京へ。奥様は、夢をかなえて、移り住んだ世田谷に新たに出来た音楽学校へ通うよ。そして彼は、なんと、コロムビア専属契約の、あの山田耕筰とも楽譜送ったりして師と仰ぎ、そのことと国際コンクールがゆえに、彼もコロムビア専属契約に。

第3章 露営の歌
古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様06
 ところが、先にも書いたように、売れないのよねえ。デビュー曲はご当地ソングの『福島行進曲』、1931年(昭和6年)。流行ってた『東京行進曲』とは裏腹で、全然売れなかったそうだ。



 いくら書いても売れない。売れ線のジメジメした曲は彼には書けないし。そんな時、
「地方を取材して曲を創ろう」と作詞家・高橋掬太郎。古関氏は、自らの音楽性と地方の民謡を融合させることに成功。その『利根の舟歌』が売れた。



 あれえ、でも演歌っぽいよね。
 さらに、『船頭可愛や』は大ヒット。これも高橋掬太郎とのコンビで、音丸が歌う。



 ヒットしてよかった良かった。
 ところが、世の中は、どんどん軍国主義に入っていく。そんな中、彼も、戦意を高揚させる歌を書かざるを得なくなる。新聞社が戦意高揚の歌詞を募集、入賞作品には曲をつけてコロムビアからレコード発売。そうして生まれたのが、『露営の歌』だ。これは佳作の詞で、入選の詞よりも古関氏は感銘を受けたそうだ。入選の『進軍の歌』は他の作曲家。そして、『進軍の歌』がA面、この『露営の歌』はB面で発売されたが、B面の方が人気が高かったと。



 そして、戦地への慰問団にも加わり、兵士たちの日常を生身で体験している。戦意高揚の曲とは言え、彼は、兵士たちが死と直面している日々の中、少しでも心に安らぎを、そんな気持ちで曲作りを続けていたが。

第4章 長崎の鐘
古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様07
 ということで、コロムビアでは、「戦時歌謡」(軍指導の下の曲ではないので「軍歌」ではないそうだ)と言えば古関裕而、となる。
 その後、『暁に祈る』『若鷲の歌』『ラバウル航空隊』など、「戦時歌謡」のヒットを飛ばすのだが、
「この歌は私にとってもいやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた」と、仕事の後味の悪さを語っている。
 そして、終戦を疎開先で奥様療養中の飯坂温泉(福島)で迎えるんだが、戦犯から逃れる「潜伏」「逃亡」的な感覚にもなったようだ。
 そうして、戦後、『リンゴの歌』が空前のヒットを飛ばすと、菊田一夫が脚本演出するラジオドラマの仕事が舞い込んできた。菊田のコンビの中で生まれたのが『鐘の鳴る丘』だ。



 これ、あんまし演奏しないけど、AMIのレパートリーにも入ってるよ~。
 ラジオドラマは生放送。そして、菊田氏がいつもシナリオがギリギリで、ある日、スコアを書いてる時間もなく、ドラマBGMをハモンド・オルガンで即興するように。そのおかげで、ハモンド・オルガンの第一人者としての古関裕而にもなっていく。現在、JR福島駅前の古関裕而像は、ハモンド・オルガンを弾いている姿を再現したものだ。
 その後、長崎を舞台にした曲を多く手掛ける。
「私は長崎の歌を最も多く作った作曲家かもしれない」と自信でも語っている。その代表作が1949年(昭和24年)の『長崎の鐘』だ。



 サトウ・ハチローの歌詞を見た時、
「これは、単に長崎だけではなく、戦災の受難者全体に通じる歌だ」と彼は語っている。いつも以上の熱が入った作曲だった。

第5章 栄冠は君に輝く
古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様08
 第4章でも述べたように、戦後の古関氏は、菊田氏とのコンビによる仕事が中心に続く。菊田氏のアイヌ民族の伝統儀式をテーマにした歌詞による『イヨマンテの夜』。そして、ラジオドラマ『君の名は』。これは映画化もされている。



 家庭の娯楽の中心はラジオからテレビへ。菊田氏は当方の重役となり、演劇を統括する。東宝ミュージカル『恋すれど・恋すれど物語』「敦煌』『蒼き狼』など。
 そうした中、異色なのが映画『モスラ』の劇中歌『モスラの歌』。ボクも劇場で映画を観た後(ボクが観たのは『モスラ対ゴジラ』)、ずっと「モスラ~やモスラ~、なんちゃらかんちゃら」って口ずさんでた。インドネシア語らしく、何を言ってるのかよく分かんなかったが、メロディは印象的だった。



 いつしか、歌謡界と距離を置くようになった古関氏のもとへ、大きな仕事が。その時の興奮は、尋常ではなかったと長女が語っている。
「たまたま私が実家に帰った時、父が興奮して戻ってまいりました。今度オリンピックの行進曲を書くことになったと、母と私に話しました。私は父の喜びが尋常ではないと、その時感じました」



 エンディングが「君が代」のラスト3小節が盛り込まれてる。やはり、「君が代」は日本の雅楽から来ているから、西洋音楽の行進曲全面に散りばめるのは難しいよねえ。でも、いい行進曲だね。
 あと、「純白の大地」(札幌オリンピック賛歌)。



 東京2020オリンピック 閉会式入場曲。



 あと、彼は、校歌や大学やプロ野球の応援歌など、「元気をくれる」曲が得意だよねえ。
 そんな彼も、1973年(昭和48年)、菊田一夫が亡くなると、「僕も終わったな……」と。菊田の死後、1977年(昭和52年)に発売された『津和野慕情』を最後に作曲することもなくなった。
 この頃、やはり有名なんだ、欽ちゃん司会の『オールスター家族対抗歌合戦』の名物審査員。こちらも、1984年(昭和59年)、欽ちゃんが司会を降りたことで「私もそろそろ……」と。
 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御。6月には美空ひばりもなくなった。そして、8月18日、古関氏も静かにこの世を去った。80歳だった。
《古関裕而は昭和という時代とともに消え去った。しかし、彼の作った曲は人々に愛されつづけ、令和の時代になっても消えることなく歌い継がれている。栄冠は永遠に輝き続ける。》




 音楽は時間の芸術だと思う。それは、古いとか新しいとかでなく、時代を越えるものだということを、「昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲」「ブギの女王・笠置シヅ子 心ズキズキワクワクああしんど」で、戦前・戦中・戦後に生きた作曲家・服部良一と歌手・笠置シヅ子を通して感じたことだし、それは、「筒美京平 大ヒットメーカーの秘密」で、戦後の歌謡曲を牽引した作曲家・筒美京平を通しても感じたことだ。そして、黄色い魔法の楽団という異名で世界に殴り込みを掛けたYMOの一員である坂本龍一、『音楽は自由にする』『追悼総力特集- 坂本龍一 芸術新潮 2023年5月号』でも、「音楽って、やっぱ凄いんだ」思ったし、近田春夫氏の『グループサウンズ』では、近田氏の偏見もあってか納得できない部分もあったけど、グループサウンズの連中たちや裏で、いい音楽作ってたスギヤマコウイチ氏たちの音楽にも一瞬の永遠を感じたし、あと、洋楽だけど、ピンク・フロイド・アンソロジー』は読んで欲しい。あと、「ピンク・フロイド『対』『永遠』を改めて聴き直す」は、時間芸術を堪能できる。ピンク・フロイドは永遠の時間をたった30分で提供してくれるんだ。「プログレ『箱男』」は、ピンク・フロイドの他、クリムゾン、イエス、ELP、ジェネシスといったプログレッシヴな音楽にも導いてくれる。
 東西問わず、その歴史には、西洋音楽ではない民族音楽もあると思う。しかし、その音楽が、ボクたち、活きた時代や環境や培ったものが違えど、そこには、時間を切り取った芸術があり、そこには、人生の縮図と喜怒哀楽があり、そこには永遠の輝きがある。たった3分の楽曲を味わうだけでも、そこには大きな感動という人生の凝縮がある。
 ボクたちは、音楽や芸術を趣味や道楽と考えがちである。が、しかし、こんなに便利になったのに、何不自由ないのに、生きがいを感じられない。それは、岡本太郎が提唱していた、全ての人間は芸術家であるべきだ、これを実践していないからだ。音楽や芸術は主要5教科から迫害を受けてきた。
 でも、それは大きな間違いであることを今知る必要がある。なぜなら、人間らしさとは何かを考えた時、その人間らしさを生んでくれるものこそ、音楽や芸術なのだ。主要5教科は何もボクたちに、人間らしさを教えてくれない(ごめん、国語は、文学作品もあるから芸術だ。大事か、でも、「文中の〈この〉は、どれを示すのか、なんていらないよね)。ただ暗記の詰め込みでしかない。おそらく、今の時代になって、再認識すべき時が来ていると思う。
 古関裕而の音楽が永遠なのは、そういうことだと思う。毎年聴く甲子園での彼の音楽。そして、東京オリンピック(2020年じゃなく1964年だよ)での行進曲。永遠だよ。
 主要5教科では何も変わらないこの世の中を、音楽は変えることができる。それだけ、音楽には秘められたパワーがある、ボクはそう思う。


古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様 posted by (C)shisyun


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