「生きるためには疲れ続けるしかない」というどうしようもない御仁の話

隣の御仁はこんな人

隣席の御仁はこんな人

人生に疲れるということがある。いや、正確には疲れ続けている。朝、目を覚ますだけでも疲れるし、息を吸うことすら面倒くさい。人を見るだけで疲れ、耳に入ってくる音さえ煩わしい。

 

特に不幸なわけではない。むしろ社会的には成功しているほうだと思う。評価は高い。出世もしているし、給料もいいし、社会貢献で表彰されたこともある。だが、それでも人生に疲れている。

 

人は「価値」という言葉をよく使う。「君の人生には価値がある」「頑張ってきたことには意味がある」とか言う。だが正直、何を根拠にそんなことを言うのかよく分からない。そもそも、誰に対して価値があるというのだろうか。自分自身には少なくとも意味など感じられない。

 

「疲れているなら休めばいい」と言う人もいるだろう。けれど、徹底的に休息を取ったら、その間誰が食べさせてくれるのだろう。誰も食わせてくれない。当たり前だ。だから休むことはできない。休むという提案自体が無責任である。

 

確かに、ただ生きているだけで老化していく。身体も精神もすり減っていくのは当然だ。そう考えれば、この疲れは自然な流れとも言えるのかもしれない。いらだちや怒りというような感情すら湧かなくなって久しい。そんな感情を持つ気力がない。30年以上、いらだった記憶もない。

 

誰かが寄り添ってくれると余計に疲れる。共感されるのも疲れる。慰められたり、励まされたりすることほど面倒なことはない。気遣いや善意、共感、寄り添いという類のことは、むしろ鬱陶しいだけだ。

 

しかし、そんな面倒な社会や人との関わりを拒否すると、生活が成り立たない。飯が食えなくなる。生きるためには社会と関わり続けなければならないが、その社会や人との関わりこそが、疲れの原因なのだから皮肉である。

 

要するに、「生きるためには疲れ続けるしかない」。これが、このどうしようもない人生の真実である。

 

夏目漱石の『こころ』に出てくる「先生」は、静かな諦念のなかで生きていた。彼が抱えていたのは、人生に対する大きな疑問や失望だった。人との関係や社会への信頼を失い、自らの心を閉ざし、ひっそりとした孤独の中で静かに息をしていた。先生は言った。「淋しい人間です」と。この言葉は、まるで自分自身の心を代弁しているかのようだ。

 

考えてみれば、「先生」だけではない。私たちは皆、程度の差こそあれ孤独を抱えている。それは単に人との交流がないとか、社会とのつながりが薄いということではない。むしろ逆に、社会的成功を収めたり、多くの人に囲まれたりしているほど、静かな孤独や疲れは深まるのかもしれない。人と接することはエネルギーを消耗する。人と接すれば接するほど、その心はすり減っていくのだ。

 

私の疲れは、単なる身体的なものではない。精神的な疲労感というのでもない。もっと根本的で、存在そのものに対する疲れと言えるかもしれない。私たちは生まれたときから、絶えず疲れる方向へと動き続けている。休むために働き、働くために休みを取る。この循環の中で、何が本当に楽なのか、何が本当に喜びなのかを見失ってしまった。

 

社会に評価されることや成功することは、ある段階までは確かに喜びだったのだろう。しかし、いつの頃からか、それは義務になった。喜びではなく、ただ果たすべき責務になった。評価され、成功することが当然になると、それが当たり前になり、いつしか何の感動もなくなってしまう。 人間は変わってしまう。いつしか喜びは疲れに変わる。人が羨むような地位や評価があっても、心はちっとも満たされない。それどころか、さらに何かを求められるようになり、もっと疲れてしまう。

 

『こころ』の先生は言った。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と。だが、この向上心こそが、疲れの源泉かもしれない。私たちは向上し続けることをやめられない。それをやめれば、きっと社会からはじき出される。だからこそ、疲れ続けるしかないのだ。

 

このどうしようもない疲れを抱えながら、また今日も静かに目を覚ますしかないのである。

 

・・・なのだそうです。まあ、言わんとすることもわからなくもないですが、どうしてこう面倒くさい医者が多いのか、と常々感じています。嫌いではない、むしろ好ましい御仁なのですけれど。

 

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