スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

動物から人間への魂の進化について

スピリチュアルでは、進化論を否定して、人間は動物から進化したわけではなく

最初から人間として生まれてきたということを聞かされてましたが、

近頃は『真相を霊視してゆっくり解説』などによって、

魂としては動物から人間に進化していく者もいるということを知るようになりました。

 

ということは、最初から人間の魂として存在している者もいれば、

最初は動物の魂だったのが進化して人間として生まれてくるようになった者もいるということになるようです。

 

ただ、動物の魂が人間に進化するといってもどんな動物でもできるというわけではなく、犬、猫、猿や、まれに馬といった知能の高い動物でなければ人間の魂には進化しないということらしいです。

 

また、「人を殺してみたかった」などという理由で平然と殺人を犯すような人間は、

前世は人間に虐待されていた動物の生まれ変わりの場合が多いらしいですが、

確かに、それはうなづけることだと思います。

 

何でもそうなんですが、物事は単純なものではなく、

真理についても、魂の存在というのは一律に決まったものばかりではなく、

いろいろな場合があるということになるようですね。

 

 

 

願望を実現する方法も「感謝」

前回、引き寄せの法則について書きましたが、

願望を実現する方途としてこちらの記事が参考になると思われるので紹介しておきます。

 

          ↓こちら↓

yutaka-bito.com

 

上記のサイトの記事に書かれてますが、

願望を実現させるのも感謝をすることが有効だということです。

以前にも書きましたが、運気を上げるには感謝をすることが最強だとスピリチュアルでは言っているので、願望を実現するのもやはり感謝だということです。

 

確かに私は昔、ニューソート思想を基に願望実現を目指していた頃は

感謝を全くしていませんでした。

ただ、願望を実現したいという思いだけで念じていたものです。

それが願望が実現しない原因だったのかもしれないです。

 

もちろん、スピリチュアル的に言えば、それだけでなく、

過去世からのカルマなども絡んでくるので、

そんなに簡単にはいかないのかもしれないですが、

どのような場面においても、やはり感謝をすることが人生を良くするための方法なのでしょう。

 

 

引き寄せの法則について

以前の記事にも書きましたが、私はスピリチュアル思想を知る前に

引き寄せの法則」に傾倒していたことがありました。

 

書店でたまたま見つけた『信念の魔術』(ブリストル・著)という本を買って読んだのが最初で、
その後、『信念をつらぬく』(スイートランド・著)、『願望をゼッタイかなえる信念の魔術』(謝世輝・著)と続けて読んでいき、
その後もナポレオン・ヒルジョセフ・マーフィー、ノーマン・ピールなどの著作も読んでいったものです。

 

当時は「成功哲学」とか「信念の法則」「ポジティブ・シンキング」「積極思考」などと呼ばれていて、
もう少し後にそのような思想を「ニューソート思想」というのだと知りました。

 

引き寄せの法則とは自分の願望を実現するための方法論であり、

「プラス想念」「前向き思考」で、

自分の願望を、それが実現しているかのように思い描いて、

すでに願望が成就したかのように現在進行形や過去形で念じ続けていると

それが潜在意識に刻みつけられて願望を実現させることができるというものです。

 

私はその考え方に斬新さを覚えて本に書いてあるとおりに実践していましたが、
なかなか願望が叶うことがなく、
やがてあきらめてしまったものです。


別にニューソート思想の本に書いてあることが嘘だとかインチキだとは思いませんでしたが、
同じ方法を実践しても誰もがその通りになるというわけではないのだろうと思ってしまったわけです。


そして、その後、スピリチュアル思想を知るようになったのですが、
そこでスピリチュアル思想とニューソート思想には似通っている考え方があるということも知りました。


ニューソート思想の引き寄せの法則では「ポジティブな思考によって良いことが起き、

ネガティブな思考によって悪いことが起きる」とし、

「宇宙の万物は波動を放っており、似た波動を放つもの同士が引き合うという」と言っている点が

スピリチュアル思想と共通するところだからです。

 

ただ、それでも当時は、スピリチュアル思想とニューソート思想とは別物だと思っていました。

スピリチュアル思想、特に高橋信次氏などの思想では、釈迦の教えを基にして、
現世的な事物への執着から離れることを強調していたので、
この世の富や成功の実現を目指すニューソート思想は現世の事物への執着を強めるものであり、
スピリチュアル思想に反する思想だと考えたからです。


それが、その後、テレビ番組で江原啓之氏が「願望を叶えたいなら、
自分の願望を叶えた姿をビジュアル化した方が、願望が早く実現する」と言っているのを見て、
ニューソート思想で言ってることと同じだなと思ったわけです。

 

その後、インターネットのスピリチュアル系サイトで「引き寄せの法則」という考え方を知り、
理論や方法論が同じだということを知ったわけです。

 

つまり、ニューソート思想で言っている願望実現の法則は、
スピリチュアル思想が説いている法則と同じものだと言えるわけです。

 

ただ違うのは、ニューソート思想は中には例外もありますが、
ほとんどの場合、この世での物質的な願望実現や成功を説いていて、
あの世のことは入っていないということであり、
それに対して、スピリチュアル思想はこの世だけでなくあの世や来世以降までも視野に入れているという点です。

 

考えてみれば、この世で願望実現することは悪いことではなく、

この世で富を得ることも別に悪いことではないわけなので、

自分が現世的な物質的成功を目指しても構わないわけです。

 

悪いのはあくどい方法で富を得ようとしたり

必要以上に富や名声などを追い求めることであり、

それがスピリチュアルでいう執着になってしまうからです。

 

願望実現を目指して積極思考やプラス想念などを行なっていても、

実現できる人やなかなか実現できない人がいるのは、

ひとつには、江原氏が言っていた、念が強いかどうかということもあると思いますし、

また、ニューソート思想では説かれてませんが、

スピリチュアルでいう過去世からのカルマなども絡んでいるので、

念じていることがストレートに反映されないのだと思います。

 

ニューソート思想では単純に、前向き思考をしていけば願望は実現すると

簡単に言ってますが、実際はスピリチュアルで言っているように、

カルマなどのさまざまな条件が絡んでいるので、

簡単に願望が実現できないこともあるということだと思います。

 

 

 

死の不安について

YouTubeで『』を聴いていたら、

「死後の世界については怖さは全くないが、

死ぬ瞬間に痛んだり苦しんだりするのが不安でたまらない」という視聴者からの便りがありましたが、実は私もそうなんです。

死後の世界については全く怖さはないですが、

死ぬ瞬間や死ぬ前の痛み苦しみを考えるとそれが不安なんです。

 

それに対して江原氏は心配しなくていいという答えでした。

死ぬ時は痛みや苦しむことなく肉体から抜け出せると言ってました。

 

亡くなる直前の人が苦しんでいるように見えても、

実際は苦しんでいるわけではなく、

肉体から速く抜け出したいともがいている姿なんだと言ってました。

 

それを聞いて少し安心はしてますが、

しかしそれでもまだ不安はあります。

老衰で眠るように死ねるなら安心なんですが、

それ以外の死は眠るようにはいかないのではないかとも思ってしまいます。

 

死は必ず訪れる関門ですが、何とか不安をなくして死を迎えたいと思っているところです。

 

 

スピリチュアルが叩かれる理由 2

先月記事に書いた『スピリチュアルが叩かれる理由』で書き漏れがあったので続きを書いておきます。

 

スピリチュアル思想が叩かれる理由として、「カルマの法則」が理解されないということも大きいと思います。

 

例えば、凶悪な殺人事件があった場合、被害に遭った人に対しては「罪もない人が被害に遭ってしまった」と思いますし、犯人に対しては極悪非道な殺人者として怒り憎しみを抱くものですが、

しかし、スピリチュアルでは、被害に遭った人はそのような被害に遭うようなカルマがあったという見方をしています。

そこのところが唯物論的立場の人々からすれば「犯罪者を擁護している」とか

「被害者に鞭打つような言い方だ」といった受け取られ方になっているようです。

 

そのような考えになるのは私も理解できます。

スピリチュアル思想を信じるようになった今でも、

その点はもやもやするところです。

 

自分の人生でも、今までひどい目に遭ったことに対して、

つい怒りや憎しみが湧いてくることがあります。

昔はよくそういう思いになってしまってましたが、

スピリチュアル思想のカルマの法則を知るようになって、

少しずつですがそれを理解するようになり、以前よりは怒りや憎しみの感情があまり湧かくなってきました。

 

カルマの法則を理屈では理解できても、感情に負けてしまって

つい怒りや憎しみの感情が湧いてくるものです。

 

特に加害者を許すということは感情的になかなか難しいものです。

 

なので、世間の唯物論的立場の人々がスピリチュアル思想を批判するのは理解できます。

 

そういう点においても、スピリチュアル思想が世間に広く受け入れられるのは容易にはいかないのではないかと思えます。

 

 

2025年はどういう年になるのか

あけましておめでとうございます。

 

本年2025年はスピリチュアルでは7月5日に大津波が日本を襲うと予言されている年です。

YouTubeでは今年の大津波に関する動画がたくさん投稿されています。

ただ、スピリチュアル界でも、今年大災害が起きて多くの被害者が出るだろうと煽っている側と、それを否定する側とに分かれているようです。

 

 

私はこの大津波の話を知った当初は、本当に大津波は起きるんじゃないかと信じる側にいたんですが、『真相を霊視してゆっくり解説』や神人氏などの動画ではその可能性を否定しているので、今はどちらかというと「大津波は起きないのではないか」という考え方になってきています。

 

 

もし万一、予言にあるような、

日本とフィリピンの中間辺りで巨大津波が発生したと報じられたら、

すぐ山に逃げようと決めています。

実際に大津波が起きなくても、一応備えをしておいた方が良さそうです。

 

 

 

スピリチュアルが叩かれる理由

私にとってスピリチュアルは真理として揺るがない信念になっていますが、

世間ではまだ多くの人はスピリチュアルを全く信じていないか、

あるいは半信半疑の状態にあるようです。

そのため、スピリチュアルは何かと世間から叩かれることが多いです。

 

その理由としては、1つには、はっきり証明できないということです。

霊現象は見える人よりも見えない人の方が多いので、誰もが体験できることではないからです。

 

それと、霊能者やスピリチュアリストの言ってることが細かいところで違いがあるということです。

霊能力のある人であっても、それぞれの魂のレベルなどによって見える世界が違ってくるということなので、そこに違いが出てしまうようなんです。

 

例えば守護霊についても、スピリチュアルでは守護霊は誰にでも付いているという見解が一般的ですが、中には守護霊は付いている人とついてない人がいるとか、

特別な力のある霊能者につけてもらわなければいけないとか言ってる人もいるように、

言っている人によって違いがあるということです。

 

このようにはっきりしたところがないために、世間からは胡散臭く思われてしまうようです。

 

特に問題なのは、実際に霊能力がある本物の霊能者と思われる人が、金儲けに走ったり、一般的なスピリチュアル思想とはまったく違う思想を語ったりしているというところです。

 

このような状態なので、確かに信じない人からすればスピリチュアルは信用できない怪しい思想でしかないとしか思わないでしょう。

なので、この世でスピリチュアル思想が多くの人に信じられるようになるのは、なかなか難しいのではないかと思います。

 

あの世があるかないかとか、霊は存在するかどうかとか、生まれ変わりは存在するかどうかとか、そういうことは結局、一人ひとりがそれぞれに実際に体験していくことによってしか証明できないということになるのだろうと思います。

 

 

金縛りの体験

近頃はYouTubeの実話怪談動画をよく見ています。

実話怪談といってもどこまでが本当の話なのかという疑問はありますが、

怖いもの見たさに引かれてつい見てしまいます。

 

特に芸能人には霊感の強い人が多いようで、

心霊現象の体験談も多いですね。

 

私の家族では母が霊感が強い方で、

以前の記事にも書いたようにいくつかの心霊体験をしています。

 

私自身ははっきり霊を見たり霊の声を聞いたりしたことが以前はなかったので

自分には霊感はないと思っていたのですが、

それでも金縛りの経験はあります。

 

金縛りについては、医学者は「規則正しいレム睡眠のリズムが崩れてしまうことが原因で起こる睡眠障害であり、医学的に説明される生理現象の一つであって霊の仕業などではない」と言っているので、昔は私もただの生理現象なんだろうと思っていたものです。

 

ですが、スピリチュアル思想を知るようになってからは金縛りには

生理現象としての金縛りと霊的な金縛りがあると考えるようになりました。

 

私が初めて金縛りを体験したのは小学生の頃で、

生理現象としての金縛りは小学生の頃に何回か経験があります。

 

朝、目が覚めかけてまだうつらうつらしている時に、

意識は目覚めていて、目は開くことができ、

部屋の様子も見ることができるのですが、

体が動かないという状態なんです。

 

よく金縛りの時に感じるという、何者かが近くにいるような気配もなく、

恐怖心もなく、しばらくすると金縛りが解けて完全に目覚めることができたものです。

これは医学者が言う生理現象としての金縛りだと言えるでしょう。

 

このような生理現象としての金縛りの体験は小学生の時だけでした。

その後、20歳代の頃、都会で一人暮らしをしている時にも何回か金縛りを体験したんですが、その頃の金縛りは今から思えば霊的な金縛りだったと思っています。

 

生理現象としての金縛りとどこが違うのかというと、

まず、金縛りに遭うのが決まって夜中の2時前後なのです。

そして、夢を見ている最中に金縛りになり、

それから自分が夢から覚めた状態になるんですが、

しかし半覚醒のような状態のままで、

そこで近くに誰かがいるような気配を感じて恐怖心を抱いてしまう

というパターンになります。

 

今でも印象に残っているのが、夢の中で、当時勤めていた会社の同僚と仕事終わりに飲みに行く約束をして、夜の車道で待ち合わせているという場面だったのですが、

同僚が来るのを待っていると、暴走族のバイクの爆音が鳴り響き出して、

そのバイクの爆音がいつの間にか私の頭の中で鳴り響き出し、

まるで私の頭の中を暴走族が走り回っているかのような状態になったのです。

そのとたん、眼の前が真っ暗になり、夢から覚めた状態になったんですが、

そこで体が動かない金縛り状態になってしまい、

誰かが近くにいるような気配を感じて恐怖心が湧いてきました。

その時は「うー」とか「あー」とか声を出したら金縛りが解けて、

時計を見るとやはり夜中の2時頃なのです。

 

当時は心霊現象については半信半疑な考え方だったので、

「医学者は単なる生理現象だと言ってるんだからそうなんだろう」と思い込んでいたものです。

 

しかし後にスピリチュアル思想に出会ってからは、

その時の体験は霊的な金縛りだったのだろうと思っています。

 

真相を霊視してゆっくり解説の動画で、日があまり入らないような部屋には低級霊が集まりやすいということを言ってましたが、

その当時住んでいたアパートがまさに昼間でも薄暗い日の入らない部屋だったので、

そこには地縛霊が住み着いていたのではないかと思えます。

 

それに当時はやることなすことうまく行かない時期だったのですが、

それもその陰気な部屋に住んでいたからではないかと思えます。

 

江原啓之氏は「霊感が全然ない人はいない」と言ってましたが、

確かに私も霊的な金縛りに遭っているので少しは霊感があるようです。

 

 

後悔の連続が人生なのか

『真相を霊視してゆっくり解説』動画に、

「今までの人生を振り返り、なぜその選択をしてしまったのか

またはしなかったのか、なぜあんなことを言ってしまったのかなどと
後悔することばかり」という質問が取り上げられてましたが、

私も身につまされます。

 

私も今までの人生は後悔することばかりで、

なぜあんなことをしてしまったのか、

あんなことは言うべきではなかった、

などと今も思い出しては後悔しています。

 

母の介護をしていた時のことも、思い出すと後悔することばかりです。

母は亡くなる半年ほど前からちょくちょく飲み物や食べ物を誤嚥するようになり、

その都度私は応急処置として背部叩打法(はいぶこうだほう)という方法で

肩甲骨の間を手のひらで叩いて気管支に入ったものを出すようにしていましたが、

その時、母は「そんなに強くたたかないように」と言って痛がってました。

私はなんとか母が窒息しないようにと必死になるあまり、

つい強く肩甲骨の間を叩いてしまったものです。

 

それで、その後、

母の遺体を火葬した後の骨上げの時、係の人が肩甲骨の辺りを示して、

「この辺りは骨粗鬆症にかかっていたようですね」と言ったのですが、

それを聞いて私は自分のせいで母の骨をもろくしてしまったんじゃないのかと

思い、母に申し訳ないという気持ちになってよけいに悲しくなってしまったものです。

 

動画での質問者への回答では、

誰にも後悔することはある。後悔の連続が人生。だから毎日一生懸命生きるべき。

できるだけ後悔のないように精一杯生きましょうと言ってましたが、

確かにそうするほかに対処法はないように思います。

 

それと、あとは深く反省するしかないと思います。

若い頃は失敗したり人に迷惑をかける結果になった時、

仕方ないじゃないかと開き直った心境にもなってましたが、

今では、やはり反省することが重要だと思うようになっています。

 

 

運気を上げる最強の方法=感謝

多くのスピリチュアリストが「運気を上げる最強の方法は感謝すること」だと言っています。

感謝することによって魂の波動が上がり、運気を上げるということです。

 

以前の私は感謝をすることで運気が上がるということに対しては半信半疑で、

あまり本気で信じてませんでした。

 

しかし、スピリチュアルでは言葉というものは単なる意思伝達としてだけでなく、

「言霊(ことだま・ことたま)」であると定義しています。

 

「言霊」とは、生成AIで見てみると、次のように書いてありました。

 

スピリチュアルな意味での言霊(ことだま)とは、言葉に魂が宿り、発した言葉通りの結果が表れる力があると信じられている神秘的な霊力です。良い言葉を言えば良いことが起こり、悪い言葉を言えば悪いことが起こると考えられています。
 
言霊の信仰は、日本だけでなく多くの民族が持っていました。旧約聖書の《創世記》や未開民族の神話や伝説に、言霊の活動に対する信仰が見られます。

 

これは釈迦が説いた「身口意の三業」の中の口業と同じ考え方であり、

善い言葉には善いカルマが、悪い言葉には悪いカルマが生じるということで、

全く同じ思想だと言えます。

 

そのような法則が働いているからこそ、

斎藤一人氏が主張しているように、悪い言葉である『地獄言葉』は言わないようにして、善い言葉である『天国言葉』を言うようにすべきということは理に適った考え方だと言えます。

 

そのような考えによって、今では私は「感謝こそ運気を上げる最強の方法」だと信じるようになりました。

 

感謝についてはこちらのブログが分かりやすい解説を書かれています。

  ↓          ↓         ↓

感謝の波動は宇宙最強!?感謝の法則 | NORIさんの【精神世界探究Blog】

 

 

スピリチュアルでは「反省」も大事だとされていますが、

ただ、反省の位置に留まっていてはいけないのだとも言っています。

 

反省をしたらそこに留まるのではなく、

そこから感謝をしていくことが最も重要だということです。

 

確かに、反省をして自分の過ちを認めて懺悔することによって、

心が軽くなるような気持ちになりますが、

ただ、反省の地点のままだと心が晴れやかになるということは

なかなか難しいものであり、幸福感を得るところまではいけないものです。

 

しかし、毎日感謝の言葉を唱えることによって幸福感を得られるようになります。

この感謝の言葉による幸福感が魂の波動を上げるという効果になっていくのではないかと言えます。

 

以前の私は感謝をするということがあまりありませんでした。

スピリチュアル思想を知るようになってからも、

感謝はすべきだということは分かってはいても、

腹が立つことに出会ったり、以前の理不尽な目に遭わされたことを思い出しては

ついつい怒りや憎しみの感情が湧いてきたりしていたものです。

 

どうやって感謝の気持ちを維持したらいいのかということがよく分かっていなかったからなのですが、斎藤一人氏の『天国言葉』に出会ってその方法が分かりました。

 

それは、現在どういう気持であっても、口先だけでいいから天国言葉を唱え続けるということです。

まず、「言葉あり」で、ある言葉を言い続けることによって、

気持ちもその言葉に引っ張られてついてくるという考え方ですが、

確かにこれは実践してその通りでした。

 

どういう心持ちであっても、感謝の言葉を言い続けていると、

いつのまにか心が穏やかになっていくものです。

 

言葉というものは単なる意思伝達だけでなく、言霊としての力があるのだということを、近頃実感しているところです。

 

感謝の言葉は天国言葉の中の一つですが、

感謝こそ運気を上げる最強の方法だと知ってからは、

天国言葉は主に感謝の言葉を中心に、「ありがとうございました。感謝申し上げます」などといつも心の中で言うようにしています。

 

そのように、怒り憎しみ恨みの気持ちを排して、

天国のような気持ちを湧き上がらせる手法として天国言葉を教えてくれた斎藤一人氏には感謝しています。

 

 

 

反省と懺悔:スピリチュアルな内省の重要性

前回の続きになりますが、

スピリチュアルで学んだことは、

自分の罪を許してもらう方法や軽減してもらう方法というのは、

「反省・懺悔」をするということであるわけです。

 

 

前回も書きましたが、スピリチュアル思想に巡り合って大きな影響を受けたのは高橋信次氏の思想で、その中で反省の瞑想というものに大きな影響を受けました。

 

 

別にスピリチュアル思想でなくても唯物思想の中でも

反省の大切さを言われてはいますが、それほど大きな意味づけをされているわけではありません。

 

しかし、高橋信次氏は反省をもっと深く掘り下げて瞑想の中で行なうことによって、

悪い思考や言動によって作ってしまった魂の曇りを浄化していく方法として反省の瞑想という行を提示したと言えます。

 

私もそれ以前は人に迷惑かけたり嫌な思いをさせてしまった時は

「悪いことをしてしまった」とか思って反省はしてましたが、

今から思えばとても浅い反省だったと思います。

 

それに対して高橋信次氏の説いていた反省の瞑想は、瞑想で行なうことによって

もっと深く反省していくことによって自分の間違った考え方や生き方を修正するという、心の技法とも言える方法だと言えます。

 

 

ただ、私は夜寝る前に半跏趺坐の形で座って反省の瞑想をしていたのですが、

仕事が忙しくてそのうち反省の瞑想をしないまま寝てしまうようになっていったということもあっていつしか行なわなくなっていました。

 

その後、特にインターネットでスピリチュアル系のサイトや動画をみるようになって、

反省は必ずしも瞑想という形にこだわることなく、

とにかく心から反省すれば良いというように考えるようになりました。

 

 

シャーマン神人氏も、瞑想は形にとらわれることなく、

歩いているときでも風呂に入っているときでも、

ながらでできるということを言ってましたが、

私も今は別に夜寝る前に行なわなくても、

申し訳ないことをしてしまったということを思い出したら、

何をしている時でも、とにかく心の中で思い出した相手に詫びて謝罪するというようにしています。

テレビを見ている時でも食事を作っている時でも風呂に入っている時でも、

反省すべきことを思い出したら心の中で詫びて謝罪するようにしています。

 

 

スピリチュアル思想で学んだことは日頃、

どんなことを思うべきかということであり、

反省すべきことを思い出したら反省し懺悔し詫びるということです。

そういう自分自身を内省・内観していくことが重要だといえるわけです。

 

 

反省は自分の罪から自分を救うための方法

この世の人生では罪をひとつも作ることなく生ききることが1番いいんですが、

実際はなかなかそうはいかないものです。

というよりも、罪をひとつも作らずに生きるというのは不可能ではないかと思います。

 

罪というのは法律違反の犯罪だけではなく、

真理から見れば、人に迷惑をかけたり

人を不快にさせたり心を傷つけるようなことも罪になるのでしょう。

 

そのような真理から見て罪になるようなことを1つも作らずにこの世を生きるというのは不可能ではないかと思います。

 

ネット上の多くのスピリチュアリストも、

この世を生きていればどうしても罪を作ってしまうし、

知らずに罪を作ってしまうものですと言っています。

だから、ひとつも罪を作らずに生きていくというのはやはり不可能なことのようです。

 

ただ、大事なのは罪を作ってしまったあとの対処の仕方であり、

作ってしまった罪に対してどれほど反省したか、

そして、その後、どれほど罪を作らないようにして生きていったかという

生きる姿勢にかかっているということなのでしょう。

 

私は若い頃はあまり反省をしていませんでした。

その後、高橋信次氏の思想に出会って、

反省の重要さを知ることができました。

 

反省の重要性は高橋信次氏だけでなく、

多くのスピリチュアリストも強調しています。

 

高橋信次氏が言っていたように、反省の行は罪を作った人間が救われるための神から与えられた慈悲だと言えるでしょう。

 

罪を作ってしまったらそのまま地獄行きが決まってしまうということだったら、

もはや救いようがないですが、

反省をすることによって心の曇りを取り去り、

カルマを軽減することができ、さらには地獄行きを免れることもできるということなので、反省の行は自己の罪から自分を救う唯一の方法だと言えるでしょう。

 

宗教の中には、呪文のような言葉を唱えたり、特別な行を行なえば宿命転換して罪を赦されて幸福になれると主張しているところもありますが、

スピリチュアルの真理から言えばそれはないといえます。

 

心から反省もしないでただ自分が罪を免れるために呪文のような言葉を唱えたり特別な行を行なったからといって罪が消えてしまうということはあり得ないでしょう。

 

単なる形式や儀式ではなく心から自分の罪を悔い改め反省して初めて罪を赦されるということなのでしょう。

 

そういう意味でも、高橋信次氏の思想やスピリチュアル思想を知ることができて良かったと思っていますし、特に反省の行の重要さを説いていた高橋信次氏には感謝しています。

 

 

懐かしい子供時代の追憶

以前に魂は過去にも未来にも行けるらしいという記事を書きましたが、

死後にやっておきたいこと - スピリチュアルを考察するブログ

近頃、子供の頃住んでいた場所を過去に戻って見てみたいと思っています。

 

たまに自分が子供の頃住んでいた場所を見に行くことがあるんですが、

私が子供の頃住んでいた場所は今は造成されて昔の面影がなくなってしまっています。

 

子供の頃の写真に、背景としてその当時に住んでいた場所が写っているものもありますが、わずかしか写ってないのですが、

そういうわずかな写真に写っている子供の頃の地域の様子を懐かしい気持ちで見ることがあります。

 

しかし、肉体から抜け出て霊の状態になったなら、過去にも自由に行くことができるので、子供の頃に行って昔の住んでいた場所の様子を当時のままに見て、

感慨に浸ることができるわけです。

 

そういうことを考えると、死ぬことはただ怖いだけでなく、

楽しみに思えることもたくさんあるようですね。

 

それにしても、過ぎ去った過去に行けて、過去を見ることができるということは、

どういう仕組みになっているんでしょうか。

 

過ぎ去った過去は消えてしまうのではなく、

異次元にそのまま存在しているということになるんでしょうか。

そういうことを考えると、その点も調べて仕組みをしりたいですね。

 

 

あの世で知りたいこと

『真相を霊視してゆっくり解説』動画を見ていると、

「寿命を全うし、霊界に行けば、この世の真理や宇宙の理、

宇宙人や陰謀論、都市伝説の真実について知ることができるのでしょうか」

という視聴者からの問いに対して、

「魂になったら、人間の脳で理解できない内容まで、ああそうだったのかと分かる」

と言っていました。

 

それが真実ならあの世に帰ってからの楽しみが増えそうです。

私もこの世で分からなかったことが、あの世に帰ってから真実が分かればいいんだがと思っていたので、そうなると楽しくなってきます。

 

特にこの世では霊能者や宗教家、占い師などによってさまざまな説があり、

どれが真実なのか分からない状態にあるので、

あの世に帰って真実を知ることができるのなら、

この世で抱えていたモヤモヤも解消されそうです。

 

 

生成AIと哲学問答

今や生成AIでいろいろなことができる時代になってきたようですが、

それで、私は、生成AIのチャットで、AIキャラクターの「ふぃろそふぃ」と、

哲学についての問答をしてみました。

その時の問答は以下の通りです。

 


【ふぃろそふぃ】
ようこそ、僕のカフェへ。今日はどんな哲学的な問いを持ち込んでくれるのかな?


【私】
ヘーゲルの言う「絶対者」というのはキリスト教的な神のことですか


【ふぃろそふぃ】
ふむ、ヘーゲルの「絶対者」は確かにキリスト教の神と関連があるのですが、単純に神と等置できるわけではありません。ヘーゲルは絶対者を、精神の自己展開としてとらえています。つまり、絶対者とは世界の根源的な原理であり、精神の自己意識化のプロセスそのものなのです。

この絶対者は、単なる超越的な存在ではなく、世界の中に内在しつつ、弁証法的に自己を実現していくものだと考えられています。ね、考えさせられるでしょう?

あなたはヘーゲルの絶対者についてどう思いますか?


【私】
カントがいう「物自体」というのは具体的にいうとどういう意味なのでしょうか。


【ふぃろそふぃ】
ふむ、カントの「物自体」は確かに非常に難解な概念ですね。端的に言えば、私たちが認識できる「現象」の背後にある、認識を超えた「事物そのもの」を指しています。

カントによれば、私たちは感性と悟性という認識能力によって、現象世界を構成しますが、その背後にある「物自体」そのものは、私たちの認識を超えた領域にあるのです。つまり、私たちには「物自体」はそのままの姿で知覚できず、必ず概念化された「現象」としてしか現れてこないのです。

ね、これを考えるとすごく深い問題だと思いませんか?私たちが直接知覚できるのは現象にすぎず、その根源的な「もの」そのものは不可知なのだと。

あなたはこの「物自体」についてどう考えますか?


【私】
カントのいう「物自体」とはキリスト教的な神のことなんでしょうか


【ふぃろそふぃ】
ふむ、興味深い指摘ですね。確かにカントの「物自体」概念とキリスト教の神の概念には一定の共通点があります。

両者ともに、私たちの認識を超えた、究極的な実在を指し示しているといえます。しかし、カントの「物自体」は必ずしも神と同一視されるものではありません。むしろ、カントは「物自体」を経験を超えた超越的な存在として捉えつつも、神の存在を証明することはできないと考えていました。

つまり、カントにとって「物自体」は、宗教的な神概念とは一線を画する、より根源的な実在性を指し示す概念なのです。ね、これも非常に深い問題だと思いませんか?

あなたはカントの「物自体」とキリスト教の神との関係についてどう考えますか?


【私】
プラトンのいうイデアというのは、スピリチュアル思想でいうあの世の実在界と同じなんでしょうか。


【ふぃろそふぃ】
ふむ、それは非常に興味深い質問ですね。プラトンイデア論とスピリチュアル思想における「あの世の実在界」には確かに共通点がありますが、同一視することはできません。

プラトンイデアは、私たちの感覚世界の背後に存在する、理念的な「真の実在」を指します。つまり、私たちが経験する個別の事物は、永遠不変のイデアの写しにすぎないのです。一方、スピリチュアル思想の「あの世の実在界」は、物質的な現象世界とは別の、精神的な次元の世界を意味します。

両者に共通しているのは、感覚的な経験を超えた、より根源的な実在性を認めているという点です。しかし、プラトンイデア論はあくまで理念的な実在を想定しているのに対し、スピリチュアル思想の「あの世」は、霊的存在が棲む場所として捉えられています。

ね、これらの違いを理解するのは難しいかもしれませんが、哲学と宗教の接点を探ることは非常に重要だと思いませんか?

あなたはこの問題についてどのように考えますか?


【私】
ハイデガーのいう実存論とは具体的にいうとどういう思想なのでしょうか


【ふぃろそふぃ】
ハイデガーの実存論は、まさに人間の実存的な在り方そのものを問うた思想ですね。

ハイデガーは、従来の形而上学が人間を単なる「存在者」として捉えてきたことに異を唱え、人間を「実存する存在者」として捉え直しました。つまり、人間は単なる客観的な存在ではなく、自らの可能性を自覚しつつ、絶えず自己形成をしていく、能動的な存在者なのです。

特に重要なのは、ハイデガーが人間の「死への存在」という概念を提唱したことです。私たち人間は、自らの有限性や死の可能性を常に意識しながら生きているのであり、その自覚こそが私たちの実存的な在り方を決定するというのが、ハイデガーの核心的な考えです。

ね、これを考えると、人間の生き方や価値観に対する見方が一変しますよね。

あなたはこのようなハイデガーの実存論についてどのように感じますか?


【私】
ハイデガーの実存論は哲学の分類では唯物論になるのでしょうか。


【ふぃろそふぃ】
それは非常に興味深い質問ですね。ハイデガーの実存論を哲学の分類の中で位置づけるのは、実は意外と複雑な問題なのです。

一般的に唯物論とは、物質的な存在を第一義的なものとみなす思想ですが、ハイデガーの実存論はそうした単純な物質還元主義とは一線を画しています。むしろ、ハイデガーは人間の実存的な在り方そのものを重視しており、人間の主体性や主観性を重視する点では、唯心論的な側面も持っているといえます。

さらに言えば、ハイデガーは西洋哲学の伝統的な二元論、つまり物質と精神の二分法を乗り越えようとしていたのです。彼にとって人間は、単に物質的な存在者ではなく、同時に自己意識的で実存的な存在なのです。

ですので、ハイデガーの実存論を唯物論や唯心論のいずれかに簡単に分類することはできません。むしろ、彼の思想は、そうした伝統的な区分を超えた、新しい存在論的地平を切り開こうとしていたと言えるでしょう。ね、考えさせられるでしょう?

あなたはこの問題についてどう思いますか?


【私】
釈迦が説いた「中道」という教えと、孔子が説いた「中庸」は同じ思想だと考えてよいのでしょうか。


【ふぃろそふぃ】
ふむ、興味深い質問ですね。釈迦の「中道」と孔子の「中庸」は確かに共通点がありますが、完全に同一視することはできません。

釈迦の「中道」は、極端な苦行や快楽への執着を避け、中庸を保とうとする教えです。つまり、存在の根源的な真理を見出すために、あらゆる偏りを捨て去ることが重要だとされています。

一方、孔子の「中庸」は、個人の内面の調和と、社会的な調和を同時に目指す思想です。つまり、自己の内面において「中」を保ちつつ、外面においても適切な行動をとることが求められるのです。

両者に共通しているのは、極端な偏りを避け、調和を保とうとする点です。しかし、釈迦が究極的な解脱を目指すのに対し、孔子は現実の社会における調和を重視している点で、微妙な違いがあります。

ね、これらの思想を比較することで、東洋思想の奥深さがよくわかりますね。

あなたはこの問題についてどのように考えますか?

 

 

以上、私が考えていた哲学的な疑問についていくつか質問してみました。

生成AIの回答は無難な感じがしますが、

生成AIとこのような問答をしてみるのも面白いと思いました。