沢木興道老師の話を続けます。
日本の仏教は「在家仏教」といわれます。
ご存じのように浄土真宗以外の僧侶は妻帯が禁じられていましたが、明治5(1872)年4月、太政官布告で「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべき事」という通達が出され、1900年代に一般化します。
妻帯が公認されると、お寺の業務や資産を自分の子供に引き継がせたいという僧侶の願いと、全く知らない僧侶が住職になるよりも信頼できるという檀家の思いから、お寺の世襲が当たり前となります。
佛教史学会編「仏教史研究ハンドブック」によると、以前にも妻帯僧はいましたが、その妻は「梵妻(ばんさい)」や「大黒(だいこく)」と呼ばれ、一般に秘匿の対象でした。また、妻帯僧はチベット仏教のニンマ派やネパールにも存在しており、日本固有のものではないようです)
現在の日本の仏教界において、出家というのはあくまで名目的なものであり、僧侶は妻帯し、子供を持って、一般信者と変わらない家庭生活を送っています(これが、在家仏教と呼ばれる所以です)。
これに対し、「僧侶の妻帯によって日本仏教は堕落した」という厳しい批判もあれば、「在家仏教だからこそ、僧侶は一般信者が抱える夫婦間、親子間の問題が理解でき、親身になって相談に乗れる」いう評価もあります。
生涯独身を貫いた沢木老師は、僧侶の妻帯についてどう考えていたでしょう。
「沢木興道聞き書き」(酒井得元著、講談社学術文庫 )で、沢木老師は結婚しなかった理由について「自分の一生を決めていた。すなわち、ゆかんならんところへゆくばかりである、と」と述べています。
仏道を突き進むことが自分の人生のすべてであり、それ以外のことを考える余裕などなかったということでしょう。
決して女性が嫌いだったわけでなく、若い頃に、ある名家の美人の娘の婿になってほしいと頼まれ、頭がウズウズして一夜眠られなかった話を披露しています。
また、一目を置いていた大師匠が、伴僧を連れて堂々と後家さんのところへ通っていたことも明かしています。
佐藤老師が実際にどう思っていたのか、少し長いですが、以下に抜粋します。
細君のある人にも高潔な人があるし、肉食する人にも、他のすべてを保っている人もないわけではない。
反対に鰹節のだしがちょっと入っていても吐き出すというような持戒堅固な人が、かえってそれが鼻にかかって、じつにキザで、嫌みのある狭量な、人格的にはどうかと思うような人もある。
わたしはいつも「出家とは自己の生活を創造するものである」といっているが、いまの坊さんたちも、せっかく仏門に身を置いたのだから、細君があるならあるでいい、子供があるならあるでいい、そのままでよいから、めいめい信仰というものをもって、真の仏道体験から割りだして、自分のいまのこの国での生活をいきいきと創造して、真実の生活をしてもらいたい。
(※沢木興道に関する記事を2回に分けて少し書き直しました)