前回のブログでブータンのことを取り上げたついでといっては何ですが、チベット学者の今枝由郎氏(1947年~)の著書「ブータン仏教から見た日本仏教」( NHKブックス)をご紹介したいと思います(残念ながら、現在は絶版となっています)。
実は、日本の仏教に対し、これほど辛辣な批判を繰り広げている(かつ正鵠を射ていると思われる)書物を、私はほかに知りません。
今枝氏は大谷大学を卒業後、チベット仏教の研究のためにパリ第七大学に留学し、フランス国立科学研究センターに勤務した後、ブータン国立図書館顧問として10年間にわたってブータンに滞在するという「日本人としては型破り」の遍歴を重ねた人物です(現在は京都大学こころの未来研究センターのチベット歴史・文献学特任教授)。
本は前半部分で今枝氏の半生が記され(これも大変興味深いです)、後半部分で「外部の目」から見た日本仏教の異端ぶりが、歯に衣着せぬ筆致で綴られています(以下に本文を抜粋します)。
「日本仏教にとって、その最初から現在に至るまでの最大の悲劇・欠点は、仏典いわゆる「お経」が日本語に訳されることなく、中国語すなわち漢訳のままであるということであろう」
「お坊さんも「お経」の意味を理解せず、儀式的、呪術的に読誦するだけ‥‥このお経を、意味もわからずに、ありがたく拝聴し、相当な額のお布施を払う信者の態度も、私にとっては不可解としか形容のしようがない」
「日本人には、仏教徒としての意識は希薄で、あるのは「私の家は真言宗です」とか「家は、浄土宗の檀家です」といった家の宗派意識だけである」
「日本仏教のもっとも致命的な欠点は、インド仏教以来の本来の戒律の伝統がすっかり絶えてしまったことである」
「仏教である以上、その出発点で「三(宝)帰依」は必須であり、それなくしては仏教徒になれない。‥‥出家者の集団である僧伽がなくなった日本では、仏・法の二宝しかなく、三(宝)帰依は自ずと不可能である」
「妻帯僧というのは本来の僧侶ではなく、その当然の結果として一般信者から「生臭坊主」と呼ばれるように、宗教者としてのオーラが完全に欠如している」
「お墓があるのは、仏教国では日本だけである。‥‥現在の日本社会では何らの強制力を持たない「檀家制」が継続されているのには、お墓の存在が大きい。私の友人の一人は「先祖、父母の遺骨を、質(かた)にとられているみたい」と評した」
「回忌法要は、先祖崇拝という背景から生まれた日本仏教特有のもので、仏教本来のものでない」
いかがでしょうか。
今枝氏はこの本の最終章で「(仏教が生きている証を取り戻すためには)まず第一に僧侶の妻帯とそれに伴う寺の世襲制という日本仏教固有の異端的特殊事情が、根本的に見直されるべきであろう」と主張していますが、これはよほどの危機意識がなければ、実現は難しいでしょう。