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8.巫女の泉(1)
廊下の隅に、水が盛り上がっていた。
噴水のコーナーだ。一角が、綺麗な石のブロックで囲われている。
近づいていった陽は、途中で、ちょっと顔をしかめた。
靴が歩きにくい。
ピカピカ黒く光っている、高級感あふれる代物だ。
これ、いったい、いくらするんだ?
見当もつかない。
サイズは、問題なかった。シンデレラの靴みたいに、ぴったりだ。
ほどなくして、碧も更衣室から出てきた。
マダム・チュウ+999プロデュースによる、おめかし第2号だ。
すぐに、陽に気付いて近づいて来る。
そして、呆れた声で問いかけた。
「なにしてるの、陽?」
自分と同じくタキシードに身を包んだ陽は、噴水の前を行ったり来たりしている。
動物園で見た、白熊と同じ行動だ。
「いや、こんな靴、履いたことないからさあ。いざってとき走れるように、慣らしてる」
なるほど。納得した。
黒いタキシードは、上背のある姿に、この上なく映えている。
だが、スーツですら、着るのは七五三以来なのだ。しかたがないだろう。
碧は、まだフォーマルな装いに馴染みがある。
同じ準備運動は、必要なさそうだった。
「よう。ちったあ見られる恰好になったな」
低い声が、下から響いた。
確認するまでもない。ド・ジョーだ。
廊下に設けられた噴水の泉に、金色の魚が立っていた。
陽が、立ち止まって笑顔を向ける。
「ド・ジョー。来てたのかあ」
「あれ? 服が違う?」
碧が屈みこんだ。
ちゃんと磨いた眼鏡のおかげで、視界はクリアーだ。
服というか、纏わりついている水の形だ。
いつものトレンチコートとソフト帽ではない。
裾先の割れた上っ張りと、小さな円筒の帽子に変わっている。
燕尾服とトップハットだ。
「そりゃ、花束の宴だからな。お嬢ちゃんは、まだか? ネズミの奥さんが、さぞかし張り切ってるんだろうが」
「おまたせ~」
やっとこさ、オネエな声と共に、最後の一人が現れた。
マダム・チュウ+999は、桃の肩に乗っかっている。
「どう! かわいいでしょ!」
そう言って、自信満々で胸を張っているのは、ネズミの方だ。
当の本人は、恥ずかしそうに眼を伏せた。
深紅のドレスだった。
嫌味にならない程度に、可愛らしさを押し出したデザインだ。ボリュームのあるスカートが、膝を覆い隠している。
靴も、お揃いだった。共布を貼ってある。
ヒールは高くないが、華奢な作りだ。
「桃、それ走れるか?」
あろうことか、陽の第一声はそれだった。
「え? どうかな」
妹も、怒るでもなく首を傾けた。
そして、いきなりこっちに走ってきた。
暁が乗り移ったかのような行動の速さである。
「大丈夫みたい」
陽を見上げて、桃は小さく答えた。
今まで見たことがないほどフォーマルな兄に対し、桃も特に感想は述べない。
三ツ矢家の兄妹間に、美辞麗句は存在しないのだ。
「ちょっと、陽! 0点よ、それじゃ」
だが、ピンク色のネズミは、それでは納まらなかった。
途中地点で、桃の肩から吹っ飛ばされたが、堪える玉ではない。
猛然と四つ足で駆けて来ると、ぷんすか、まくし立てた。
「似合ってるでしょ!? 大変だったのよ、選ぶの。手袋は苦手だとか、肩は出さないデザインがいいとか、ドレスは引きずりたくないとか。挙句の果てには、ポケットが付いてないから付けてとか! もう、たくさん言うんですもの。碧より手間がかかったわ」
お怒りは、碧にまで飛び火した。
どうやら、文句ひとつ言わず、出されたものを着用したのは、陽だけだったらしい。
ちなみに、碧はカマーバンドを用意されて、
「こんな腹巻みたいなの、したくない!」
そう、ごねまくったものだ。
おかげで、男性陣二人が内側に着用しているのは、ジレと呼ばれるベストだ。
「かわいいでしょ?!」
裂帛の気合が篭もった付加疑問文だ。
「うん、かわいいなあ」
ネズミの怒りを収める意図ではなく、心から陽が答えた。
だが、この兄は、散歩している犬がリボンを付けていたとしても、おんなじセリフを言う。心から。
そう知り抜いている桃は、くるりと碧の方に向いた。
「どう……かな、碧?」
小さな声で、隣に立つ碧に問いかける。
ちょっと心配になってきた。
碧のタキシード姿は、完璧だ。兄より堂々として見える。
隣に立つ自分は、ちゃんとしているんだろうか?
「へ? 俺?」
碧の返事も、ひどい。
しかも、ドレスアップした桃ではなく、噴水の泉に気を取られてしまっている。
なんか……変だよな。
噴水の一画は、壁側が、丸く抉れている。
ぽこんと奥まった空間の真ん中に、背丈ほどの水柱が湧き上がっていた。
でも、一本だけだ。
そして、やけに野太い。
噴水にしては、しょぼすぎる。
さあぁっ……
音を立てて、澄んだ水は下から突き上げ、頂上を極めてから落ちていく。
ただそれだけの動きだ。
だけど。なんか、さっきより歪になってきてないか?
木の柱を彫っている途中のように。
何かの形が、途中まで作られているみたいな。
「あーおーいぃ」
地を這うような声で再び呼ばれて、碧の思考は緊急停止した。
おどおどとした桃の目が、自分に問いかけている。
マダム・チュウ+999は、再び桃の肩に乗っかっていた。呼んだのは、こっちだ。
ピンク色のネズミは、ぶっ刺さるくらい鋭い視線を碧に向けていた。
桃のドレスの色が反射しているのか?
バシバシの睫毛に縁どられた目が、魔物のように赤く光って見える。
これは命に係わる。
一瞬の判断で、碧は口早に答えた。
「すごく似合ってる。大丈夫、大丈夫」
「やれやれ……」
呆れたド・ジョーが、ちょっと、くねっとした。肩をすくめたようだ。
「なんにせよ、支度が間に合ってよかった。巫女も宿られた。そろそろ始まるぜ」



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