【残067話】影はいつでもすぐそこに(1)


✚残067話 影はいつでもすぐそこに(1)✚

 夜が明けた。

 あれほど激しく降り注いだ雨も明け方には勢いを弱め、日の昇る時分にはもうすっかりと上がっていた。

 青く茂る葉からは一粒、また一粒と雨露あまつゆが零れ、鳥たちのさえずりがしんと静まる朝の世界に響き渡る。

 それはいつもとなんら変わりのない日常の風景だった。

 日が昇って、鳥たちが鳴く。いつもと変わりない、日常の風景。

 けれどもエルフェリスはこの朝の訪れを知らずにいた。

 目を覚ました時にはもう再び夜のとばりが降りた後で、まるで自分もヴァンパイアになってしまったかのような錯覚さっかくに思わず苦笑が漏れた。

 いくら城内のガラスすべてに遮光しゃこう処理がほどこされているとはいえ、ほとんどのヴァンパイアは夜明けを待たずに眠りにき、そして夜の訪れを待って再び動き出す。

 ここでの生活に合わせてすっかり夜型になっていたエルフェリスは、それでも日々太陽の光を浴びることを日課としていた。

 よほどのことがない限りは続けようと思っていたのに。

「……はぁ……」

 あまりにもよく寝すぎたせいか、いつもよりぼーっとする目をこすりながら身を起こすと、り固まった体をほぐすように両腕をゆっくり大きく突き上げ伸びをして、今度はゆっくりと息を吐きながら下ろした。

 たったこれだけでも頭のもやが晴れていくようで、いですっかり見慣れた部屋をなにげなく見回す。

 が、いつもよりも視界が狭く感じるのはなぜだろう。

「あれ?」

 目をぱちくりさせながら、眉間に皺を寄せたエルフェリスが思わず声を上げる。

 見慣れた光景に、普段はいないはずの面々があちらこちらで眠りに就いているのが目に入ったからであった。

「……?」

 寝ぼけているのかと思って今一度目をこすってみたが、どうやら幻ではないらしい。

 ソファの上ではリーディアが、また少し離れたラグマットの上ではデューンヴァイスが、それぞれ思い思いの体勢で気持ち良さそうに寝息を立てていた。

 デューンヴァイスの豪快ないびきが響く中、それでも物音を立てないようゆっくりとベッドからい出ると、ふとした拍子に姿見すがたみに映る自分と目が合った。

 吸い寄せられるように足がそちらへと向く。

 ……酷い顔だ。

 くまだけならまだしも、久しぶりに泣きはらした目は見事に腫れていた。いつもの自分とは別の顔をした自分が鏡の中にいる。

 こんな風になるまで泣き続けてしまったのかと思うと、今さらながらに顔中から火が出そうだったが、とにかくこの腫れた目をなんとかしようと引き出しの中からタオルを一枚掴むと、そそくさバスルームへと駆け込んだ。

 誰もいないはずの浴室には灯りが点いていた。
 
 消すの忘れたかなと首をかしげつつ、そのまま正面にある洗面台へと向かうと、細やかな装飾のほどこされた銀の蛇口じゃぐちをキュッとひねった。

 にごりのない冷えた水が、細いくだから勢いよく流れ出す。

 その流れに手をさらし、てのひらに溜めた水を顔へと運ぶ。
 
 身を切るような冷たさが、赤く熱を持っまぶたを鎮めてくれるようだった。

 その感覚を求めて、今度は洗面台に貯めた水の中へと顔を沈めた。

 こぽこぽとほんの少しの空気が音を立てて水中を泳ぎ、そして水面へと抜けていく。

 しばらく耳を澄ましてその音と感覚に神経を集中させたが、やがて息苦しくなったエルフェリスは勢いよく顔を上げると、「ぷはー」と大きく息を吸った。

 そしてそのまま動きを止め、額や髪、睫毛まつげの先から零れ落ちていく水滴をどこかぼんやりと眺めながら、昨夜のエリーゼのことを思い出していた。

 突然失踪しっそうしたあの頃と何ら変わりのない姿でエルフェリスの前に現れたエリーゼは、髪型も、肌の色艶いろつやも、声も、表情も、何もかもがあの頃のままで、エルフェリスだけが一人、長い年月にのみ込まれながら、もがき生きてきたような気分になる。

 自分だけが一人、悪い夢を見ていたのではないかと。

 だが、それは決して夢ではなかった。

 昨夜の彼女の反応からすると、エルフェリスや育ての親でもあるゲイル司祭はおろか、村の事も、自分自身のこともすべて忘れてしまったのだろう。

 すべて忘れて、エリーゼを捜して犠牲になっていった人たちがいたことさえ知らずに、ヴァンパイアの元で幸せに暮らしていたのだろう。

 ドールとなった者は人間であった頃の記憶を失くす。それがドールとなる条件だから……。

 でも、それでも良いとエルフェリスは思った。

 何だかんだ言ってもこの世でたった一人の肉親が生きていてくれたことは素直に嬉しかったし、誰も彼もが姉の生存を諦めた時でも、エルフェリスとゲイル司祭だけはずっとどこかで生きていてくれることを祈っていた。

 ゲイル司祭や村の人たちは、本当の意味で天涯孤独てんがいこどくになったエルフェリスにとても良くしてくれたが……やはりエリーゼの存在にかなう者などいない。

 エルフェリスの中で彼女はそれだけ大きな存在だった。

 いつも明るく笑っていたエリーゼ。そんなエリーゼが、エルフェリスは大好きだった。

 けれど。エリーゼの為に犠牲になった人のことを考えると、やはり手放しで喜べないのもまた事実。

 自らヴァンパイアの元へと出向いたかもしれないのに、それでもと探索の手をヴァンパイアの領域まで拡げてくれた人たちの死に対して、エリーゼの生存という事実だけをはなむけとするにはあまりにも軽く、あまりにも罪が重い。

 思い出してくれなくてもいい。自分のことを嫌ってくれてもいい。

 それでもエルフェリスは、エリーゼに伝えるべきことを伝えなくてはならないのだと、密かに心を決めた。

 思い出してくれなくても。嫌われても……。

「よしッ」

 やってやる、と寝起きで気だるいままの身体に力を込めると、濡れたままの顔を勢い良く上げた。

 すると鏡越しに誰かがこちらを見つめているのが目に入る。

「うわっ」

 一瞬亡霊が出たのかと思って反射的に叫び声を上げてしまったが、よくよく見れば見たことのある顔だった。

 それもそのはず。

 鏡の中にいたのはロイズハルトだったのだ。

 そうと分かればいつまでも背を向けている必要はない。

 腫れた瞼のことなどすっかり忘れて、彼の名を呼びながら意気揚々いきようようと振り返る。

 しかし一秒も経たないうちに、エルフェリスは再びロイズハルトに背を向けてうつむいた。そして急にうるさくなった左胸を無意識に押さえ付ける。

 どうしたらいいのかすぐには判断できなくて、エルフェリスの視線は無意味に宙をただよった。

 なぜなら。

「ななななななんで裸なのっ……!」

 あまりの驚きについていけず、声が上擦うわずる。

 どうしようどうしようと狼狽ろうばいする思考と連動しているように、あちらこちらと視点が定まらない。

 振り返った先にいたロイズハルトは、腰にタオルを一枚巻いただけの姿だったのだ。

 さすがのエルフェリスもこれにはびっくりして、声が出ない。

 けれど当のロイズハルトはエルフェリスの反応を楽しんでいるのか、声を殺して笑っている。

 鏡の中で。

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