創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(完)

 

エピローグ

 

美和は、人通りの絶えた静かな住宅街を、真尋と二人並んで歩いていた。

空は夕陽で茜色に染まり、電信柱がその茜色の空を背景に佇んでいる。夕飯の準備をしているのだろう、近くの家からおいしそうな匂いがする。ある家のリビングからは、子供達が無邪気に笑う声が聞こえた。

世界は美しかった。

少なくとも、美和の目には美しいものとして映った。

 

真尋が目を覚ました日から三日後に、真尋は病院を退院した。

すでに体の方は問題なかったが、念の為、数日病院で様子を見ていた。二日経った日の午後、森田医師から、

「明日は退院しても問題ないでしょう」

との言葉をもらった。

その間に美和は、真尋の住むマンションの不動産会社に電話をかけ、これまでの経緯を簡単に説明した。そして最後に、

「すぐに退去しようと思います」

と告げた。電話先の担当者は引き止めることも、お見舞いを言うこともなかった。

真尋は退院後、自分の部屋の荷物を片付け、美和とかつて一緒に住んでいた家に戻ってきた。

そして真尋がその家に戻ってきた日の夜、美和は真尋から一つの決意を聞いた。

「お母さんに、一つ、伝えたいことがあるんだ」

二人だけの居間で、真尋は美和の目を正面から見ながら言葉を口にする。その視線は全く揺らぐことはなかった。

「私、警察に行こうと思う」

「え?」

「6歳の自分が何をしたのか、それを全部、警察に話そうと思う」

「・・・」

真尋の強い眼差しを見た時点で、6歳のあの夜のことを話そうとしているということは薄々気づいていた。美和が真尋の部屋にあった“手紙”を読んでから今まで、真尋はそのことについて美和に話すことはなかったし、美和も真尋に尋ねることはなかった。だけど、その“手紙”のことは避けては通れないものだということは、始めから分かりきっていた。

美和は、その言葉にどのように返せばいいのか、少し考える。

「あなたは十分に苦しんだ」

美和はゆっくりと口を開いた。

「小さい子供の頃の出来事だし、それに、あの原因は元々は父親にあった。これまでの人生を生きることで、あなたは罪を償った」

「そういうことじゃないの・・・。」

美和の言葉に、真尋は小さく首を横に振る。

「次の一歩を踏み出すために、私は自分のしたことを全て認めなければならないの・・・。そうしないと、私は偽物の世界から一歩も外に出ることができない・・・。今回のことで、私はそれに気づいた」

真尋は強い視線で、美和を見つめる。

その視線を受け止めながら、美和は気づいた。

6歳だったあの夜から、もう14年も経っていた。真尋は、14年間動かすことができずに立ち尽くしていた足を、ようやく前に踏み出そうとしているのだ。自分を守るために自分で作り上げた、“父親がいない”もう一つの世界から、ようやく抜け出そうとしているのだ。

その決意を痛いほど感じた。

もう美和の中に、真尋のその決意に反対する言葉は見つからなかった。

「・・・そうね」

美和は呟く。

美和自身にも償うべき罪があった。

あの夜、自分は、夫である佐藤健太郎の死体をスーツケースに詰め込んで家を出た。自分もその罪を償わなければならないのだ。

「警察に行こう・・・。二人で・・・」

 

十字路の影から、一人の男児が飛び出してきた。

そのまま美和と真尋を気にすることもなく、オレンジ色の道路を走っていく。これまで外で遊んでいて、家に帰る途中だろうか。家に帰るのが遅れると母親に怒られる、と、焦って家に向かっているのだろうか。

美和はその後ろ姿を見ながら、そんなことを考えていた。

その時、左手に、誰かに掴まれたような感触を感じた。

自分の左手を見ると、真尋が美和の左手を握っていた。美和は視線を前に戻す。しばらく二人は黙って歩いていた。

「ずっと、あなたに謝りたかった」

美和は前を見つめながら、隣を歩く真尋に語りかける。

「ごめんなさい、と伝えたかった」

「知っている。あの部屋の中で、私はお母さんの声を確かに聞いたから」

「あの部屋?」

美和が左隣の真尋に視線を向けると、真尋は、

「ううん」

と小さく言って首を横に振った。

「お母さん、私を守ってくれてありがとう・・・。そして、私を許してくれてありがとう」

警察署はもうすぐだった。

二人は手を繋ぎながら、黙って歩き続けた。

14年前のあの日、夕暮れの中を二人して歩いた時のように。

 

 

 

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