創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(84)

 

真尋は目を開けた。

見知らぬ白い天井が自分の上に広がっていた。

「ここは・・・」

ひどく掠れた声だった。

白い天井。

最近、同じような光景を見た気がする。

「真尋・・・」

すぐ横から声が聞こえた。

その白い天井の片隅に、誰かの顔がぼんやりと見えた。その顔になかなか目の焦点が合わなくて、ひどくぼやけている。

「真尋・・・」

真尋の目の焦点は、ゆっくりとその顔に合わされていく。

顔を少しだけ右に向ける。自分の顔のすぐ上には、母である美和の泣きそうな顔があった。

「・・・お母さん?」

声はまだ掠れたままで、自分でもよく聞き取れない。

その美和の後ろで、何かが色鮮やかに輝いているのが見えた。窓からの日の光を受けて、小さな瓶が色鮮やかに光っている。青、赤、オレンジ、黄色。その光景はあまりにも美しくて、真尋は、自分が今、天国にいるのかと思った。そして、目の前に浮かぶ美和の顔も、ただ幻を見ているだけなのかと思った。

何かが、自分の右手を強く握っていた。

何だろう。

真尋の目の焦点は、美和の顔から、その顔の前にあるものに移動する。それは自分の右手だった。そしてその右手を包むようにして握っている、美和の両手だった。

その手は暖かかった。そして力強かった。その暖かさと力強さは、幻なんかではなかった。一つの現実として、その右手を介して真尋の中に流れ込んできた。

この母の姿は、幻なんかではない。

自分は、助かったのだろうか。

「・・・ここは?」

「病院よ」

「・・・病院?」

「そう、病院よ」

真尋は部屋の中をゆっくりと視線を巡らせる。小さな部屋に幾つかのベッドが並んでいて、その一つに自分が寝ている。ベッドのシーツの色、壁紙の色、ベッドの間に引かれているカーテンの色。全てが白だった。

なぜ今、自分は病院にいるのか。

真尋の中の記憶はひどくぼやけていて、はっきりとしなかった。

「なぜ・・・病院に?」

美和は悲しそうな表情を浮かべたまま、その真尋の言葉には何も答えなかった。

ここで目覚める前に、何かひどく怖い思いをした気がする。

今、目の前に広がる白い天井と同じような天井を、絶望の中で見た気がする。

徐々に、真尋の胸の中で、閉じ込められた部屋の記憶が蘇っていく。

 

そうだ・・・。

 

小さな部屋に閉じ込められて、溺れそうになって、そしてやっとドアが開いてくれて、自分は助かった。母の声が自分をこの場所に導いてくれた。

その記憶の後ろで、もう一つの記憶が蘇っていく。

大学帰りのあの夜、自分が何に絶望したのか、そしてその絶望から逃げたい一心で何をしてしまったのか。その記憶が真尋の中で一つのイメージとして形を取り戻していく。

「お母さん・・・」

言葉と共に、真尋の目に涙が溢れる。涙は、ベッドに寝ている真尋の顔の横に、線を描いて流れ落ちた。

「怖かったよ・・・。本当に、怖かったよ・・・」

「・・・」

「でも、私は戦ったよ・・・。私はあきらめなかったよ・・・」

「・・・分かってる」

美和の声は、とても優しかった。

「戦いなさいって、お母さんの声は確かに聞こえたよ・・・。お母さんが、私を救ってくれたんだよ・・・・」

「・・・分かってるよ」

涙でにじむ視界の中で、美和の目にも涙が溢れているのが見えた。

「真尋・・・。おかえり」

真尋と美和は、二人して、いつまでも泣き続けていた。

 

 

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閉じ込められた部屋(83)

 

自分の中で生まれた一つの決意を、真尋はそっと胸に抱いた。

水位は上がり続けていて、もう完全に真尋の足は床に付かなくなっている。何とか、立ち泳ぎをしながら顔を水面の上に出していた。だけど、その状態でどれだけ持ちこたえることができるのか分からなかった。そもそもとして、天井まで完全に水が満たしてしまえば、もうそこに逃げ場は全く無くなってしまう。そうなれば、完全に終わりだった。

水はもう真尋の背の高さを超えている。

それまでかかった時間は40分くらいだろうか。

そうなると、天井の高さにその水位が到達するまで、あと残された時間はもう30分もなかった。

真尋は立ち泳ぎを続けながら、何とか自分の気持ちを落ち着かせる。

どうすればこの部屋から出られるのか。出られる可能性がこの部屋のどこに存在するのか。何か見落としていることはないのか。

必死に、もう水が半分以上満たされている部屋の中に視線を巡らせた。

ドアが一つだけ設けられた小さな部屋。窓は一つもない。絵が取り外された壁は無機質な灰色を真尋に見せるだけだった。何かが隠されているような隙間は、その壁のどこにも見当たらなかった。

真尋の背中には、何度開けようとしても開けることができなかったドアがあった。

だけど、この部屋と外部を繋ぐものは、もうそのドアしかなかった。

真尋は意を決したように一度大きく息を吸い込み、水の中に潜る。そして水中でぼやけた視界の中でドアノブを探した。ドアノブを掴むと、それを思い切り回そうとした。だけど、さきほどやった時と同じように、そのドアノブは全く回る気配を見せなかった。すぐに息が続かなくなる。真尋はドアノブから手を離して、水面から顔を出す。荒い息を必死になって整えて、また水中に潜った。

同じようにそのドアノブを掴み、力一杯回そうとする。

 

お願い!

回って!

 

だけどそのドアノブは、無情にも全く動いてくれなかった。

真尋は何度も水中に潜り、そして息が続かなくなり何度も水面に戻ることになっても、それをやめなかった。もう真尋は諦めなかった。

水面に顔を出すたびに、水面と天井の高さは徐々に近くなっていく。近づいてくるその天井の高さに、刻一刻と迫ってくるタイムリミットを感じる。それでも真尋は、水中に何度でも潜り続けた。

何回潜っただろうか。

そして何回、ドアノブを回そうとしただろうか。

自分でも分からなくなる。

体が疲労で鉛のように重い。

天井と水面の間の隙間は、もうほとんど残されていない。

真尋は最後の力を振り絞るようにして、水中に潜る。そしてドアノブを再び握った。

 

それは突然だった。

何の前触れもなく、真尋の手の中で突然そのドアノブは回った。

何が起こったのか分からなかった。自分の手の中で回っていくドアノブを真尋は確かに感じたのだけど、それは本当に一瞬の出来事だった。

ドアノブが真尋の手の中で回り切った次の瞬間には、部屋の水の重さに押し出されるようにしてドアは外側に勢いよく開いていた。そしてドアが開かれると同時に、部屋の中に溜まっていた大量の水が隣の部屋に流れ出ていく。真尋はなすすべもなく、水と一緒にそのドアの外に吸い込まれていった。

その水の中で流されながら真尋は、自分の体が光に包まれていくような感覚を覚えた。光の中で、深い水の底に沈んでいくかのように、意識が薄れていく。だけど真尋は怖くはなかった。逆に、どこか懐かしいような暖かさを感じた。

その光の先に、一人の少女が立っていた。

 

あなたは・・・。

 

それは6歳の真尋だった。

少女は、寂しそうな目でこちらを見ている。

真尋は、その幼い自分に心の中で語りかけた。

 

ありがとう・・・。

あの時、どんなに苦しくても、それでも生きるという道を選択してくれて・・・。

あなたがその道を選択してくれたから、今の私がいる・・。

あなたがいてくれたから、今の私がいるんだよ・・・。

 

少女は小さく首を横に振る。そして悲しそうに微笑んだ。

 

私は、諦めなかったよ・・・。

 

その言葉を最後に、真尋の意識は光の中の闇に落ちていった。

 

 

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閉じ込められた部屋(82)

 

真尋は、あの夜の自分自身を思い出していた。

そして、あの夜から今の自分につながる14年間という時間を思い出していた。

あの夜の6歳の真尋は、自分の存在を理不尽に踏みにじってくるものに対して必死になって抵抗した。必死になって抗った。

そしてあの夜から今までの14年間は、その6歳の真尋の存在を自分の中から消し去ることで、何とかこの世界を生き延びようとした別の真尋がいた。そうすることで、この世界に自分が生きられる場所を作ろうとした。

どちらも同じ真尋だった。

だけど、決定的な一点で違っていた。

6歳の真尋は、自分の運命に対して戦おうとした。

だけど今の真尋は、自分の運命からただひたすら逃げようとしていた。

6歳のあの夜の自分を記憶から消すことで何とか自分を守ろうとしたのだとしても、6歳のあの夜の記憶を消すということは、6歳だった自分自身を消すということと同じだった。そしてそれは、今なぜ自分はここにいるのか、その理由すらも消してしまうということと同じだった。

確かに、6歳の自分が存在しない世界にさえいれば、あの夜のことに絶望することはなかった。だけど、その世界はどこまでいっても偽りの世界だった。自分を守るために、真尋自身が作り上げた偽物の世界でしかなかった。

その偽りの世界を囲う壁はまるでマジックミラーであるかのように、その中にいる今の真尋には鏡に映る今の自分の姿しか見えていなかった。だけど、その世界の外に立ち尽くしていた6歳の真尋には、いつだって今の真尋の姿が見えていた。

そして悲しそうな目で、いつだって今の真尋を見つめていた。

そのような14年間をただ生き続けてしまっていた。

 

ごめんなさい・・・。

見捨ててしまって、本当に、ごめんなさい・・・。

 

真尋は心の中で、6歳の自分に謝る。

自分は、そのような偽りの世界に14年間も逃げ続けていたのだ。そして自分自身を、その偽りの世界に閉じ込め続けていたのだ。

その偽りの世界の中では、周りに友達がいたとしても、そして隣に母がいたとしても、真尋はいつだって一人だった。どこまでいっても孤独だった。偽りの世界は、外に広がる本当の世界のどこにもつながってはいなかった。

その作り物の世界の中で真尋がどんなに声をあげても、その声は誰にも届かなかった。

 

もう、嫌だ・・・。

この偽りの世界の中で生き続けるのは嫌だ・・・。

6歳の自分を見捨てるようにして生き続けるのは嫌だ・・・。

この偽りの世界の中で、人知れず死んでいくのは、絶対に嫌だ・・・。

 

真尋は強い視線で、前を見つめる。

 

戦おう・・。

最後の最後まで戦おう・・・。

6歳だったときの私のように・・・。

 

 

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閉じ込められた部屋(81)

 

とうとう完全に足が付かなくなった。

必死になって顔を水の上に出し、呼吸をしようとする真尋の口に、水が流れ込む。

真尋はげほげほと咳き込んだ。それでも立ち泳ぎのような形で何とか顔を水面の上に出して、息をする。そして

「苦しいよ・・・。ここから出してよ・・・」

と声を上げた。声はすぐに水の音にかき消されていく。

「お母さん・・・、怖いよ・・・。怖くてたまらないよ・・・」

真尋の眼に再び涙が溢れ出す。

涙が止まらなかった。6歳の少女のように、真尋は泣きじゃくっていた。

「お母さん・・・、助けて・・・」

真尋は必死に母に救いを求めた。もうそこにしか縋れるものはなかった。

そんな真尋の心に、また母の声が響いた。

“戦うの”

その声はあまりに力強くて、あまりに威厳に満ちていて、そしてあまりに優しかった。その声に、真尋の心は大きく震える。目が覚めるような思いで、その声を聞いた。

“あの夜のあなたのように・・・、あなたの存在を、理不尽に踏みにじってくるものに対して戦うの・・・。あなたの存在を、理不尽に押し潰そうとしてくるものに対して戦うのよ”

 

私の存在を、理不尽に踏みにじってくるもの・・・。

私の存在を、理不尽に押し潰そうとしてくるもの・・・。

 

それは、私の心をばらばらに壊していった、父だった・・・。

それは、私の存在を受け入れてくれなかった、この世界だった・・・。

そしてそれは、生きることを諦めようとする、今の私自身だった・・・。

 

6歳のあの夜の光景が目の前に蘇る。

あの夜の真尋は、自分を守ろうとしただけだった。ただ、生きようとしただけだった。確かにそのためにとった手段は間違っていたのかもしれない。だけど、6歳の真尋は勇気を出して一歩前に踏み出そうとした。たとえその先が絶望につながる道だとしても、勇気を出して実際にその一歩を踏み出したのだ。そしてその勇気によって、6歳の真尋は、少なくともその時の自分の存在を救うことができた。

20歳になった今の真尋が、その6歳の自分の行動に絶望し、生きることを放棄しそうになったとしても、6歳の真尋はその行動によって何とか“生きる”という道を見出した。そして現に、その道は20歳の真尋に続いていた。6歳の真尋がその時点でその道を進むことを放棄してしまっていたら、今の20歳の真尋は存在しなかった。この14年間も存在しなかった。

真尋は、その事実に初めて気付いた気がした。

“6歳のあなたができたのだから、今のあなたができない訳がない”

母の声が、真尋の心の中の一番深い部分に響く。

“戦いなさい”

真尋はもう、泣いてはいなかった。

 

 

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閉じ込められた部屋(80)

 

そうだ。あの日に感じた暖かさに似ている。

真尋は自分の右手を見つめた。

「お母さん・・・」

真尋は呟く。だけど、耳に聞こえるのは“放水口”から流れ落ちる水の音だけだった。その言葉に答えてくれる人は誰もいなかった。

あの日、母は黙って自分の手を握ってくれた。

一緒に歩き続けてくれた。

だけど、黙って歩く母の胸の内にはどんな思いが溢れていたのだろうか。

それまでの真尋は、自分のことしか考えていなかったことに気づいた。

母の思いなんて、想像しようともしていなかった。そしてただ自分が目の前の現実から逃げることしか考えていなかった。

あの日、黙って歩いていた母の胸のうちにあったのは、人生に対する絶望だったのだろうか。あるいは未来に対する悲嘆だったのだろうか。もしかしたら、突然暗闇に包まれてしまった未来に、呆然と立ちつくすような思いだったのかもしれない。

それでも、母は自分の手を握ってくれたのだ。

そして一緒に歩き続けてくれたのだ。

「お母さん・・・、ごめんなさい」

真尋は自分の右手を見つめながら、呟いていた。

背伸びをするようにして伸ばし続けている足首が痛くなる。そろそろ真尋の顔を水が覆いかけていた。それでも顔を上に向け、必死になって顔を水の上に持ち上げた。

あの日、夕日に染まる住宅街を真尋と一緒に歩き続けた母は、結局最後まで何も言うことはなかった。そのまま二人とも黙って歩き続け、そして家にたどり着いた。

だけど一緒に歩きながら真尋は、本当は、母の言葉が聞きたかった。

自分の思いを、娘に向けて、言葉という形のあるもので伝えて欲しかった。

その時の思いが真尋の中に蘇る。

 

でも、あの日、私はどんな言葉が欲しかったのだろう・・・。

どんな言葉をかけて欲しかったのだろう・・・。

 

真尋の目には、この小さな部屋の天井が映っている。

コンクリートの打ちっぱなしのような灰色の天井。その天井のどこかに、自分の今の問いかけの答えが書かれていないか。それを必死になって探すかのように、その天井を見つめる。だけど、そのどこにも答えなんて書かれていなかった。

“真尋”

「え?」

誰かの声が聞こえた気がした。

だけど、すでに耳は水に浸かっている。声なんて聞こえるわけがなかった。

“あなたは十分に苦しんだ。もう、謝らなくてもいいのよ”

母の声だった。耳からではなく、心に直接響くかのように、真尋の中に母の声が響いていた。

「ねえ、お母さん? どこにいるの?」

真尋は必死になって声を上げる。

「私を許してくれるの? 私はあんなことをしたのに。あんなにもお母さんを苦しめたのに。それなのに、そんな私を本当に許してくれるの?」

母の囁くような声が、また真尋の心に聞こえた。

“たとえこの世界があなたを許さなくても・・・、私は・・・、私だけは、あなたを許すから・・・”

ああ、そうだったんだ。

真尋は凍りついた心が溶けていくのを感じた。

 

私はただ、誰かに許して欲しかっただけだったんだ・・・。

誰かに、

「あなたを許す」

と言って欲しかっただけだったんだ・・・。

そして、誰かに、

「あなたは生きていてもいいんだよ」

と一言言って欲しかっただけだったんだ・・・。

その一言さえあれば、どんなにこの世界はつらくても、どんなに絶望に溢れていても、きっとこの世界を生きていくことができたんだ・・・。

 

 

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