
「頼む……お前に託したいんだ」
病室の薄暗い光の中、清水さんの声はかすれていた。酸素マスク越しの言葉は、途切れがちで、それでもはっきりと耳に残った。
清水さんとは、俺が高校を卒業して上京し、今の和食チェーンに入社した時からの付き合いだ。店長として働いていた彼は、右も左もわからない俺を何かと気にかけてくれた。仕事のことはもちろん、プライベートでも、まるで兄貴のように面倒を見てくれた。
「達也、飲みに行くぞ」と誘われ、何度も飲み屋に連れて行かれた。そこにはいつも、彼の恋人であり、俺の同期でもある美晴さんがいた。俺は彼女に憧れていた。
可愛いとか美人とか、そういう言葉じゃ片付けられない、柔らかな雰囲気をまとった女性だった。仕事中はてきぱきと働きながら、誰に対しても分け隔てなく笑顔を向ける。そんな美晴さんを、俺はいつも遠くから見ていた。
けれど、その気持ちは封印するしかなかった。清水さんと付き合い始めたと知った時、俺はそれを「仕方ない」と言い聞かせた。誰が見たって、清水さんみたいな男が選ばれるのは当然だった。気遣いができて、社交的で、頼れる存在。俺なんかより、ずっと彼女にふさわしい。だから、何事もなかったように振る舞った。
三人で飲みに行くことも多かったが、俺は決して余計な感情を表に出さなかった。それでいいんだ、と何度も言い聞かせた。
そして、いつしか二人は結婚した。俺は祝福した。心の奥に押し込めた痛みが、無理やり顔を出そうとするのを抑えながら。
それなのに今、清水さんは俺に「託したい」と言っている。
「お前なら許せる」と。
「無理ですよ……そんなの」俺はかろうじてそう言った。言葉にすることで、この状況を否定したかった。
清水さんはかすかに笑った。「美晴も、お前のこと……気に入ってるんだ」
それが本当かどうかはわからない。ただ、清水さんはそれを確信しているようだった。
そして、その夜、俺は再び病室に呼ばれた。そこには美晴さんもいた。
「お前ら、一緒に暮らせ」あまりにも唐突すぎて、言葉が出なかった。
清水さんは、俺たちの戸惑いを見ても、ただ頑なに「そうしろ」と繰り返した。
俺も、美晴さんも、あまりに動揺しすぎて、それを否定する言葉を見つけられなかった。そして結局、俺たちは無理やり頷かされる形になった。
病室を出た後、美晴さんと並んで歩いた。何も言葉は交わさなかった。互いに、何を話せばいいのかわからなかった。
夜の病院の廊下は、しんと静まり返っていた。俺は、今の出来事を、まるで現実とは思えずにいた。そして数日後、清水さんは静かに息を引き取った。
清水さんが亡くなってから、美晴さんは目に見えてやつれていった。
葬儀が終わり、日常が戻るはずの時間が訪れても、美晴さんはどこか空っぽだった。職場には復帰したが、どこか心ここにあらずで、話しかけても上の空。店の人間も気にしていたが、どう声をかければいいのかわからないまま、ただ見守るしかなかった。
俺は仕事終わりに、自然と彼女の家に足を向けるようになっていた。何度か訪れているうちに、嫌でも気づいたことがあった。
冷蔵庫がほぼ空だった。流しには、洗われることのない食器がいくつか置かれたままになっていた。
明らかに、まともに食事をとっていない。
最初は「ちゃんと食べてるのか」と聞いた。「適当に済ませてる」と返ってきたが、その適当が、まるで何も食べていないことを意味しているのは明白だった。
「放っておくと、本当に倒れるぞ」そう言ってみても、彼女は薄く笑って、「大丈夫だから」と言うだけだった。
どうにかしたい、そう思った俺は仕事の合間に弁当を作るようになった。和食の店だから、まかないには困らない。店の材料で、栄養バランスを考えた弁当を作り、仕事帰りに彼女の家へ持って行く。
けれど、美晴さんは「あとで食べる」と言って、手をつけようとしなかった。
「目の前で食べてくれ」
「お腹すいてないの」
「いいから」仕方なさそうに箸を持ち、一口食べる。それだけで、少しホッとした。けれど、彼女は俺がいなければ、また食べなくなる。
それなら、一緒に食べればいい。仕事終わりに彼女の家へ行き、遅い夕食をともにするのが日課になった。
俺が持ってきた弁当を広げ、彼女が適当に用意した味噌汁を添える。
夜10時半を過ぎているから、もう寝るだけの時間だというのに、俺たちは静かに箸を動かした。
最初は会話もなかった。ただ黙々と食べるだけだった。
けれど、それが何日も続くうちに、少しずつ言葉が増えていった。
「仕事、楽しい?」
そんなたわいのない会話。でも、そういうやりとりが、俺たちを少しずつ日常へと戻していった。食後にお茶を飲みながら、二人でぼんやりする時間が増えた。彼女は、夜の静けさの中で、どこか遠くを見つめることが多かった。
言葉にしなくても、俺は知っている。彼女の心の中には、まだ清水さんがいる。それでも、少しずつ距離が縮まっているのを感じていた。
そんなある日、夜になり、いつものように美晴さんの家へ向かうと、「今日は外で飲まない?」と誘われた。
「たまにはさ、家じゃなくて」驚いたが、断る理由はなかった。二人で居酒屋に入り、久しぶりにグラスを交わす。
前みたいに三人ではなく、二人きりの飲み。
最初はぎこちなかったが、酒が進むにつれて、美晴さんの表情がやわらいでいった。
「達也くんとこうやって飲むの、久しぶりだね」
「そうですね。最後に飲んだの……いつでしたっけ?」
「覚えてない。でも、三人でよく来てたね」その名前が出ても、彼女の顔に影は落ちなかった。
「楽しかったなぁ……」グラスの中の氷が静かに揺れる。
俺は、その言葉にどう返せばいいのかわからなかった。
「達也くんさ」
「はい」
「私ね……夫が作ってくれたお味噌汁が、また飲みたいなって思うの」ふいに、美晴さんがそう呟いた。
「お味噌汁?」
「うん。たまに作ってくれてたんだ。それをまた飲みたいなと思って……」その言葉に、俺は記憶を辿る。
確かに、清水さんはまかないを作るのが好きだった。特別な料理ではない、シンプルな味噌汁。だけど、その味を美晴さんがずっと覚えているほど、大事なものだったんだ。
「……作りますよ」
「え?」
「清水さんの味、完全には無理かもしれないですけど……俺、覚えてますから」美晴さんは、少し驚いたような顔をした後、ふっと笑った。
「そっか……達也くんなら、覚えてるよね」その夜は、少し酔いが回った彼女をタクシーで家まで送り届けた。
玄関先で別れ際、「おやすみ」と言った彼女の表情が、どこか懐かしくて、少し切なくなった。
——俺は、まだ彼女に触れることができない。それでも、俺の中には確信が生まれていた。
清水さんの影を背負いながら、それでも彼女は少しずつ前へ進もうとしている。
それなら、俺は——。数日後、俺は味噌汁を作った。
慎重に、丁寧に。清水さんが作っていた時の記憶を頼りに、出汁をとり、具材を切り、味を整えた。
そして、その夜。
「美晴さん、どうぞ」彼女の前に、湯気の立つ味噌汁を置いた。
美晴さんは、少しだけ躊躇ったようだった。だが、そっと箸を持ち、一口すする。
「……同じだ」ぽつりと呟いた彼女の目から、涙が零れ落ちた。
俺は、黙ってその姿を見つめる。美晴さんの肩が小さく震える。俺は、言葉をかけるべきか迷った。
でも、何も言えなかった。ただ、彼女の涙が落ちる音だけが、静かな部屋に響いていた。
美晴さんが泣き止むまで、俺は黙って待っていた。味噌汁をすする音と、小さく震える呼吸だけが、部屋の静寂を埋める。
「……ごめんね」やっとのことで彼女が口を開いた時、その声はかすれていた。
「急に泣いたりして……」
清隆さんの味を思い出して、泣くほどに彼女は彼を愛していた。
その事実を、俺は受け止めなければならなかった。
でも——それでも、俺は。
「美晴さん」そう呼ぶと、彼女がそっと顔を上げた。
「俺と、一緒について来てくれませんか」美晴さんは、驚いたように目を見開く。
「え……?」俺は息を整えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今度、新店が地方にオープンするんです。そこの店長として行くことになりました」
「……そうなの?」
「ええ。それで……」美晴さんの瞳を、まっすぐに見つめる。
「俺と、一緒に来てください」彼女は何かを言おうとした。でも、言葉にならないのか、ただ口を開いたまま、俺を見つめるだけだった。
「清隆さんに言われたからじゃないんです」そう強調するように言った。
「俺は……ずっと美晴さんのことが好きでした」美晴さんが、息をのむのがわかった。
「清隆さんのことを好きなままで構いません。でも、俺にあなたを支えさせてほしい」それは、ずっと封じ込めていた想いだった。
清隆さんがいなくなったから言うわけじゃない。ずっと、心の奥にしまい込んでいた言葉だった。美晴さんは、何も言わなかった。
俺は、それ以上の言葉を待つことなく、ただ彼女の手を取った。そして、そのままそっと引き寄せる。
彼女の体は、ふわりと俺の腕の中に収まった。少しだけ強張った肩の力が、次第に抜けていくのがわかる。
「……いいの?」しばらくして、美晴さんが、小さくそう囁いた。
「俺は、美晴さんと一緒にいたい」俺の言葉に、彼女の指が、ぎゅっと俺の服を握りしめた。
「……ありがとう」その声が、少しだけ震えていた。
夜の静けさの中、俺たちはゆっくりと互いの存在を確かめるように、そっと寄り添った。もう後戻りはできない。
でも、それでいい。この想いを、ようやく口にすることができたのだから。
そして、俺たちは——新しい未来へと、踏み出すことを決めた。