桜の多賀城碑

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最近テレビ番組のサザエさんで多賀城の事が放送されたので行ってきました。桜が満開で大勢の人が訪れて散策していました。

多賀城跡は桜が満開でした。

多賀城(たがじょう)は、現在の宮城県多賀城市にある古代城柵。国の特別史跡に指定されています。奈良時代から平安時代に陸奥国府やが置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地でした。

多賀城の復元図

多賀城碑は古代の多賀城南門の前にあり、724年の多賀城創建と762年の改修が刻まれています。書道史の上から、奈良時代の文字が、今なお、しっかりと刻まれている日本三古碑の1つです。

多賀城の碑文

高さ約1.96m、幅約1mで、その一面を平らにして字が彫ってあります。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11行140字の碑文が刻まれている。

多賀城は京から一千五百里の距離があることが記されています。

徳川光圀(水戸黄門)は、『大日本史』編さんのために派遣した家臣(助さんのような人)の報告で、碑が苔むした状態であることを知り、仙台藩主伊達綱村(だてつなむら)に対し、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を勧めます。これを受けて間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで碑が守られています。

「おくのほそ道」の旅で碑と体面した芭蕉は、この碑だけは変わらぬ姿を留めているのを見て、「泪(なみだ)も落つるばかり也」と、感動の文章を『おくのほそ道』にしたためています。

むかしより、よみ置ける歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木に変れば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事のみ。ここに至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に、古人の心を閲(けみ)す。

多賀城碑が発見されたのは1660年ごろで、芭蕉が訪れる約三十年前。これが歌枕の壺碑と混同され世に広く知れ渡ってしまいました。ですから芭蕉や当時の文人、徳川光圀も多賀城碑を「壺碑」(つぼのいしぶみ)と思い込んでいました。

壺碑は陸奥のおくの方にあると伝わる古い石碑。歌枕として多くの和歌に詠み込まれました。平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれ、西行(さいぎょう)や源頼朝などの和歌で有名です。『奥の細道』の旅は歌枕の地を訪ね歩く旅でした。

真の壺碑は所在も実体もいまだもって謎のままなのです

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