ユリブロ

40歳を過ぎて女装マッサージセラピストデビューを果たした、超遅咲き男の娘ユリのブログ。略して『ユリブロ』

開き直りの言葉〜『馬鹿だから仕方ない』の力とソクラテスの『無知の知』

はじめに

皆様いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。

 

いつも色々と考える中で、どうすればもっと上手く行くのかとアレコレやり方を考えたり、人間関係での身の処し方を考えたり、様々な場面での立ち回り方を考えたり、又は、それを人からアドバイスされたり、日々そうして色々なことを計らいながら、石橋を叩きながら、人間というのは生きているものだと思います。

しかし、それはそうとして、反面それをやり過ぎでもいけないのかなと思います。上手くいくことを追求し過ぎれば、病的なほど神経質になったりもしますし、失敗したことをいつまでも悔やんで、どうすれば良かったのかと考え過ぎることも精神的にあまり良くありません。

そんな時、私達は何処かで折り合いを付けなければならないということも人生において学ぶべき大切な事柄であります。

 

 

そこで、私が最近試している方法を皆様に聞いていただきたく、今回記事にいたしましたのは、考え、悩み、精神的に追い込まれてしまっている時の『開き直りの術』というものです。

 

人間最後は、誰しも死んでしまうのですから、結果全てを失うことになるのにも関わらず、沢山のものを得ようとするのも人間の性です。

その死ぬまでの間の、あくせくした生き様において、七転八倒するのもまた人間でもあります。物語のエンディングには全てを失うのだから、完璧に過ごすことなど始めからあり得ないのに、完璧を求め続けてしまうものです。

そして、上手くいくことを求め続けて、逆に悩みすぎて自分の身を滅ぼしてしまうのも人間です。そんな時に、自分を救ってくれる効果のあるお呪いを皆さんにお伝えしたいと思います。

さあ、それでは開き直りの術を語っていきたいと思います。

アブラカタブラホンジャマカホンジャマカ〜ホーイホーイという具合に理由のわからないお呪いではありません🤫

 

馬鹿なんだから仕方ないじゃないか

この言葉、とても単純でありふれた言葉です。しかし、私は追いこまれた時、この言葉を唱えると、全ての結果を受け入れることができるのではないかと思っています。

この一言で、“自分は本来、馬鹿なんだから、失敗して当たり前だし、様々なトラブルに巻き込まれる可能性も当然あって、不遇な環境や待遇にあっても、なんら不思議でないのだ”というスタンスでいることができます。

そして、全て降りかかる現実を受け入れることができます。また、これまでの人生で起きてきた数々の出来事も、こうして捉えることで、失敗したことは当然のこととして受け入れられるのは勿論のこと、逆に成功したことの有り難さも感じる事ができるというものです。

 

 

『こんな馬鹿野郎にも、こんな事が出来たんだ』

 

こんな風に思えて、成功したことを謙虚に捉えることが出来るし、成功したことを自慢しては、周りの人の気に障ることなどもなくなってしまいます。

 

というわけで、自分は本来、馬鹿なんだからと開き直るというものなのですが、これらの言葉に微妙に似た表現があるので、そちらと考え比べて、少し区別しておきたいと思います。

それは、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスが唱えた言葉、『無知の知』です。

 

無知の知には、どこか高圧的に感じる

ある日、ソクラテスは周りの友人から「ソクラテス、私はあなたより賢い人間がこの世にいるかと神に尋ねたが、神はソクラテスよりも賢いものはいないと答えた」と言われたそうです。

それを聞いたソクラテスは、本当に自分よりも賢い人がいないかどうかを確かめようとしました。

国の権威ある政治家や、知識人のもとに自ら赴いて、問答対決をしました。その問答対決の中で、ソクラテスは「自分は自分が無知であることを知っているが、彼らはその知識に酔いしれているだけで、自分が無知であることを知らないのだ」と考えました。その時、自身がその知識人たちより優れている点は、『無知の知』にあることに気がついたのです。

そして、ソクラテスはその知識人たちに、自分が無知であることを気づかせるため、相手が答えられないような質問をして、無知の知を根本にした考えでもって、次々と知識人達を論破していきました。

しかし、結果的には、知識人達はそんなソクラテスの問答に憤慨してしまいます。彼は捕まえられて牢獄に入れられ、死刑が言い渡されてしまいました。友人たちは彼へ逃亡を提案しますが、ソクラテスはそれを拒否して、自ら毒を飲んであの世へ旅立ちました。

ソクラテスは最後に「私は死ぬべく、あなた方は生きるべく。 私たちのどちらがより善き運命に赴くのかは、だれにも明らかではありません。 神は別にして。」と言い残してこの世を去ったのでした。

こうして生まれたのが、この『無知の知』という言葉です。

 

 

確かに、知識人達の気持も分からなくはありません。質問攻めをして、プライドのある人達の鼻をへし折ってしまうわけですから、怒りを買うのも無理はないと思います。

ソクラテスの考える『無知の知』と一連の話しには、相手を戒めるという反面、自分を守っている側面がある為、どこか相手に対して高圧的に取られてしまうのだと思います。ですから、人から嫌われ痛い目に合わされてしまうというデメリットがあるかもしれません。

しかし、ソクラテスが死ぬ前に残した言葉の意味を考えると、知識人とソクラテス自身と、どちらが正しいのか、どちらがより良い人生を歩めるのか、彼自身には自信があったように感じ取れます。

きっといつかその言葉の真意を理解される時がくると、思っていたのではないでしょうか?もしかしたら、人が人に無知であることを自覚させる為には、ソクラテスくらい直接的に相手に投げかけなければ、分からせられないのかもしれません。

 

言葉は使いよう

私の提案する開き直りのお呪い『馬鹿なんだから仕方ない』という言葉と、ソクラテスの『無知の知』という言葉、ニュアンスが同じようでも、意味合いは全く違います。

前者は、起きた結果に対してアプローチしているのに対して、後者は自分が無知であることを知ることによって、もっと謙虚に、もっと誠実に身を正して、研究なりして、物事を追求していこうではないかと、物事に向き合う姿勢について語られているのではないかと思います。

しかし前者には、開き直ることのできる反面、諦めにも似た境地に捉えられ、人を変えていく力が少し足りないのかもしれません。

また、後者には起きてしまった結果に対して、何処か割り切れない救いようがない部分を与えてしまいます。そして、プレッシャーを感じて、過去のことを悔やんでしまって、なかなか失敗を受け入れることが難しくなり、逆に足枷になってしまうかもしれません。考えれば、どちらにもデメリットが考えられます。

 

 

そこで私はこう考えました。

人によって使い分けることではないかと。例えば、ソクラテスがしたように、思い上がった知識人や政治家を相手にする時は、「無知の知」を使って叩きのめすことにして、苦しい思いをしている一般庶民には、「馬鹿だから仕方ない」と、一緒になって開き直って見せるというのが、良いのではないでしょうか。

 

格言というのは、その時、誰が誰に対して言ったのか、肝心な部分が忘れ去られていて、その言葉だけが切り取られて独り歩きしてしまうものです。そして、私達は、切り取られたその言葉を時に利用し、また、その権威に振り回されてしまいがちです。

しかし、正直に感じるままに、そういう言葉の数々に対して考えていかなければならないなと思います。今も昔も、切り取りが好きな世界で、言葉は使いようであることを忘れずにいきたいなと思います。

 

本日もご清聴ありがとうございました🙇

 

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