早春の香を忘れずに

もうすぐ終点だからこそ日々を丁寧に過ごしたいシニアの日記です

双極性障害2型

2024-01-28 14:57:01 | 自分を見つめる

私は複数の疾患と付き合いながら生きています。

どれも厄介ですが・・・

双極性障害Ⅱ型という脳の疾患はうつ病期と躁病期をくりかえすが

外見で解る物ではないので、鬱の時は家に閉じこもり気だるい時間を過ごしているが

その姿を知る人は少なく、ヘルパーさん位です。

躁の時、軽躁なので 元気?!・・と言う感じ位でこの病相も知る人ぞ知る・・です。

診断されて20年が経ちますが、

10年位前に 本当は離婚した33歳の直前に発症したことを自覚しました。

不可解な夫の言動に悩んで!悩んで!(鬱状態)10kgも痩せてヘロヘロになって居たのに

ある日 「そうだ!私がこの家を出れば解決するのだ!」と急に青空の世界になり

子供達が春スキーに行ってる間に当座の荷物を纏め、アパートを借り家を出たのです。

スキーから子供達が帰る日に、迎えに行き、アパートに連れ帰って

「お母さん ここ何処?私の机があるけど」と言う子供に「お引越ししたのよ」と答える私。

仕事を探しながら、弁護士に離婚の相談に行く。

完全に 躁状態でした。

 

だれも 私の病的な行動に気付くことなく20年が経って・・・

子供たちが自立し、結婚をすると、人格が変わったかのように 重い鬱状態に陥り

膠原病も同時に発症し ドクターストップがかかったのです。

 

生身のまま、墓の中に埋められた気持ちと表現するのが 一番適切かもしれません。

53歳で職を失い、親、姉兄、子供達・・・私は頼ることが出来いないまま過ごし

今を生きています。

 


年賀状終いの時期

2024-01-18 12:30:15 | 日記

長年 年末に年賀状を書き、年明けに郵便配達の赤いバイクが来るのが楽しみでした。

遠くにお嫁に行った小学校の同級生とは 年に1回安否確認のように

年賀状が来るのが楽しみでした。

 

今年が元旦に届いたのは2通だけ。

私も パソコンの調子が悪く結局年末にに投函になってしまいました。

スマホに届く年賀の言葉も。

個人情報?なのか、携帯番号は交換しても 住所までは知らない人も多くなりました。

 

今年から 郵便料金が値上がりするようです。

ますます、 年賀状や手紙が少なくなりそうです。

パソコンやスマホのメールで用件が届く時代なのですもの

もう 年賀状終いを 認める時期になったのかもしれません。

 

年賀状で 忘れがたい想い出があります。

頂いた年賀状が1等で 大きなワイドテレビが当たったのです。

約30年近く前だったので サラリーマン家庭では高値の花のテレビ。

 

高校生の息子が、

「お母さん!年賀状くれた人に お礼のお菓子かなんか上げるんじゃないの?・・・と。

そうなんですよね。 それくらいのテレビなのですが・・・

職場で足の指を痛め、一度だけ行ったきりの整骨院からのハガキだったので、お礼には行きませんでした。

 

今、今年の年賀状の当選番号を確認したところです。

1等・・・現金30万円・・・なんか?夢がないですね。

     市役所の低所得者に給付される お金みたい。

あっという間に食費になってしまう現金・・・嬉しいけど、夢が無いかな~

 

今年で私も年賀状終いにしようと思いました。

年末に寒中見舞いを出して 年賀状終いのお知らせにしようと思います。

 

 

 


デンジャラスティカー

2024-01-13 10:42:35 | 人とは

今朝 パソコンを開けて 直ぐに目に飛び込んで来た言葉が

デンジャラスティカー  とい言葉でした。

気になって読んでみました。

直訳すると 「危険な貰いたがり屋」かしら?

 

昨年末からずっと 私の心を占領し苦しめていた原因を意味しています。

タイトルに 近づかない方が良い人間・・・と付け加えてある。

まさに そうなんです。

 

でも 集合住宅に住んで居ると 好まざるとも言葉を交わさなければならない関係も。

 

昨年末、 自治会で「貯筋体操」とか?を高齢者対象にやる事になったとか。

役員をしている民生委員が回覧板を回したとの事だが 我が家やスルーされました。

理由は分かっています。

上階に住む Sさんは 親切のつもりか?

回覧板を私に関係あるかどうか?を勝手に判断し、否の時はスルーして次に廻すのです。

私には その内容を口頭で伝えます。

いささかうんざりしてはいても、一人住まいの弱み、応諾せざる得ないことも有ります。

 

そのSさんこそが 私にとって デンジャラステイカー なのです

 

私に 貯筋体操に出るように勧めて来ました。

自治会主催ならばと 最初顔を出したのです。

民生委員が 集まった 10名程の人に ペットボトルのお茶を出しました。

即座に Sさんは 「お茶は皆、銘々に持ってくればいいんじゃない」と発言。

??? 民生委員はそれに従うのです。

バイタルチェックも無し。休憩も無しで約2時間の集会でした。

 

何故か?民生委員がは 私への用件をSさんに言付けるのです。

Sさんが・・・貴女が体操に出てくれて良かったと・・・民生委員さんが言ってたわよと言う。

何故?・・・機械(パソコンや電気関係)に強い人から・・・と言う。

え~~?

 

10月の火曜日 私は国立病院の受診でした。

昼過ぎに帰宅すると まるで見計らったように上階のSさんから電話があり

「民生委員さんが、テレビに接続するCDデッキが届いたので私に伝えて」と言う内容です。

つまり 私に接続しろと言う事のようです。

 

隣の市にある国立病院から帰って来て疲れているから・・・と断りました。

遅い昼食をとり、2時間程横になって・・薄暗くなった頃 

Sさんに「何の事?」と電話をすると

疲れているなら明日でもいいって~と さも その作業が私の義務のように言う。

 

こんなやりとりがあって 以後、私は体操には参加しないことにしました。

それでも 毎週電話が掛かってくるが 無視。

 

Sさんはマスクをつくって~

   スマホの調子悪いの。見て~

  デジカメに溜まった写真を印刷して~ 要らない物削除して~と

且つて勤めていた観光ホテルの使い捨てのタオルをどっさり持ち帰っているので

それらを何枚か 雑巾にでも~と持って来ては 私に用事を頼みのきていました。

 

ご近所付き合いと しかたなく引き受けていたのですが

今回は 自治会の仕事であり 自宅でできることではないので断りました。

 

Sさんは承服できないようです。

以後、私とは顔を合わさず、言葉も交わさず・・の関係です。

 

民生委員は 離れた所の大きなスーパーに買い物に行く時は

Sさんと その同居人を誘って 出かけます。

あれ? 病院に連れて行ってと言うご近所さんは断られたというが?

スーパーや100均ショップには車に乗せて連れて行き、飲食して来る?って変じゃない!!

自家菜園の野菜や果物を持って足げく訪問するって変じゃな?

民生委員曰く  Sさんはうちの猫に餌をくれたり、主人と世間話をしてくれる・・。

 

Sさん曰く  民生委員は 何処まで連れて行って貰っても 金、取らないから・・と!!

タクシー代わりに利用している日常です。

 

私も Sさんに取ってお金を要求しない便利な使い手の一人だったようです。

 

断ることはに勇気がいる。

意見を言う事は 反動もありエネルギーが要る。

でも 言わなければ 距離を置かなけれ いけない人間関係もある。

私は 年末 デンジャラスティカーと 距離を置く事を実行したのです。

 

毎年 旧友から年末には房総の切り花を沢山送ってくれるので

Sさんにも お裾分けしていたのですが・・・

一昨年、お花を取りに来た時のSさんは 賞味期限のきれたビール瓶2本を持って来たのです。

そのビールは コロナ禍前に 自治会の宴会の残り物で 民生委員が廃棄を指示されてた物。

 

その気の抜けたビールを貰ってきたSさんは 正月用の切り花を貰いに来た時

私に 2本置いて行ったのです。

勿論 捨てました。

観光ホテルで働いていた時は毎月30万~40万の給料を貰うが

寮生活で、食事付き、 山の上なので遊ぶ場所も無いので お金は溜まるばかりと豪語している。

 

それでも 賞味期限の切れたビールを貰って飲み、他人にも分ける人を

私は昨年末 切り捨てることにしたのです。


心がおれそう

2024-01-10 18:36:11 | 自分を見つめる

歌手の八代亜紀さんの訃報が何度もテレビで映されています。

特別 フアンという訳ではありませんが

アイドルブームが続いていた時代に

個性的な表現と声で大人の歌を聴かせてくれる歌手として応援していました。

 

死因は特異な膠原病の一つで急激に悪化したとの事。

 

私も膠原病を二つ・・・抱えています。

そして 不随する疾患を併発し7診療科を受診する日々を生きています。

 

私は大丈夫。

もう、慣れっこで、通院費で四苦八苦だけど、心の準備は出来ています。

 

 

思い出すのは母の末妹の文子叔母さんの事。

私と14歳しか違わない叔母を私は文子姉ちゃんと呼んでいました。

文子姉ちゃんは十代から、手が荒れると 桃の花 をよく手に刷り込んで

絆創膏だらけで水仕事が辛いと言っていました。

体調不良も良く訴えていたので、祖母はお嫁に出す事を心配し

結婚しても、祖父母と暮らしていました。

 

長男・長女にも恵まれましたが、同時に体調は益々悪化するばかり。

私は小学生から 結婚して長女を産むまで 時間がある限り付き添っていたのです。

 

当時の点滴の針は今の様にフレキシブルでは無く、

身体を動かすと液漏れして痣だらけにになるので、手を握って添い寝をした物です。

其の頃はナースコールなどなかったので、家族が付き添い寝泊まりすることがしばしば。

 

姉ちゃんの長女の幼稚園の卒園式、小学校入学式は

高校卒業したばかりの私が母代わりでした。

 

文子姉ちゃんの旦那さん(兄ちゃん)はカバン類の職人です。

家事も子育ても満足に出来ない姉ちゃんの為に

会社勤めを辞め 自宅を工房にして

在宅でハンドバックやカバンを手縫いしていました。

その傍らでニコニコしながら作業を見ている文子姉ちゃんの顔は幸せそうです。

 

姉ちゃんが37歳になった時、(昭和47年)

全身性エリテマトーデスという膠原病と診断されました。

 

ステロイド剤などの薬剤が沢山投与されました。

入院中はなされるがままでしたが、少し良くなって自宅療養になると

髪が抜け、ムーンフェイスになり、吐き気が酷く・・・

副作用に苦しんだ文子姉ちゃんは 自己判断で薬を止めてしまい

知人が薦めてくれたお茶を煎じて飲む方を選んだのです。

私が結婚し、長女を出産した頃です。

 

間もなく姉ちゃんは異常な程の体調変化を感じ緊急入院となりました。

 

母達が付き添って、

私には「赤ん坊にばい菌が感染するといけない」と言い

私は付き添う事ができませんでした。

 

専門医も 勿論今の様に多くの知識は無い時代

まして、素人の家族は只々おろおろするばかり。

想定外の悪化を不信に思った医師に追求されて 

母はステロイド剤を断薬していたことを言う事になり・・・

母達は雷鳴の如く 医師の叱りを受けたとのことでした。

 

昏睡と呻きの間に 心残りを呟く文子姉ちゃん。

直視できない程溜まった 腹水を還流する装置を取り付け

懸命に 手を尽くしてくれた医師達の努力も甲斐なく

特別寒い初秋に 文子姉ちゃんの命は尽きたのです。

 

まだ、暖房の入って居ない病室で見守る母達が

寒いので羽織物を持って来て欲しいと電話があったので

私は長女を夫に預け、半纏やショールなどを抱えて病院に行き

すりガラスの入った病室の戸をノックしました。

昏睡の姉ちゃんが目を開け 私の名を呼んだのです。

入って来いと・・・呼ぶのです。

私は声を発してはいない。

すりガラスの戸で姿は見えないはず。

母達は 違うよ 違うよ・・・と打ち消す様を

私は泣きながら、戸の外で聞いていました。

 

病院の駐車場で待っている夫と家に帰り

言葉にならない息苦しさを感じながら床についたのですが、

間もなく母から電話があり、姉ちゃんが旅立ったとの知らせでした。

 

手続きをして、朝、自宅に帰るとのことだったので

私は朝日が昇る頃 着替えなどをバックに詰め実家に行く支度をしました。

 

もう50回忌も済んで、過去になるはずの姉ちゃんの生涯が今蘇っています。

 

矢代亜紀さんの訃報と 若き日の悲しみが重なって 心がおれそうです。

私も母方の血筋を引いたのか?

膠原病と付随する疾患で20余年の闘病をしています。

 

初めの5年位は 運命を呪った事もあったのですが・・・

精神も病んで 治療を受けているのですが・・・

 

でも もう何も悔いなく暮らす術を いつの間にか身についているはずなのに

姉ちゃんの闘病と最後の声を思いだすと 心がおれそう・・・です

 

 

 

 

 

 

 


新春を迎えて

2024-01-05 13:59:32 | 自分を見つめる

  一人で新年を迎えるのは何度目かしら?

すっかり忘れてしまったけれど 一人も悪くはない。

 

1日の大半を過ごすダイニングには

ガラス越しの陽射しが入りとても身も心も暖かい新年です。

 

20年程前訪れた能登半島の町々が、元旦早々に地震に見舞われ

訪れた加賀友禅の工房も、新鮮な魚類の市場も、漆塗工房も壊れてしまったようで

故郷が一つ消えてしまったような虚無感に支配された年の始まりだが

人はいつ幸せな時間を手放す事になるのか・・・?

誰にも分からないけれど、でもそれが真理だと言う事は感じとれる。

だれにでも 有りうることだと・・・確かに思える

 

だから 私は老い行く歳を数える事よりも

早春の香りを いつも身に纏って暮らしたいと思うのです。

無い物だらけの日々の暮らしだけれど

小さな歓びを大切に、心の安定を大切に

生きる日々を書き記します。

 

今年の目標・・・うん~ん? 少し本を読んでみようかな?

もう 着る事も無くなった 着物類をリホームしてみようかな?

 

2024年が始まりました。

感謝と喜びと愛を感じ取って暮らしていけたら

・・・なんて素敵でしょう。