【儒教】『論語』孔子

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生誕:紀元前551年
死没:紀元前479年

第一 学而

 先師がいわれた。
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか」
 有先生がいわれた。
「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめつたにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか」
 先師がいわれた。
「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、仁の影がうすい」
 曾先生がいわれた。
「私は、毎日、つぎの三つのことについて反省することにしている。その第一は、人のために謀つてやるのに全力をつくさなかつたのではないか、ということであり、その第二は、友人との交りにおいて信義にそむくことはなかつたか、ということであり、そしてその第三は、自分でまだ実践出来るほど身についていないことを人に伝えているのではないか、ということである」
 先師がいわれた。
「千乗の国を治める秘訣が三つある。即ち、国政の一つ一つとまじめに取組んで民の信を得ること、出来るだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと、これである」
 先師がいわれた。
「年少者の修養の道は、家庭にあつては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、先ず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお餘力があるならば、詩書・礼・楽といつたような学問に志すべきであろう」
 子夏がいつた。
「美人を慕う代りに賢者を慕い、父母に仕えて力のあらんかぎりを尽し、君に仕えて一身の安危を省みず、朋友と交つて片言隻句も信義にたがうことがないならば、かりにその人が世間に謂ゆる無学の人であつても、私は断乎としてその人を学者と呼ぶに躊躇しないであろう」
 先師がいわれた。
「道に志す人は、常に言語動作を慎重にしなければならない。でないと、外見が軽っぽく見えるだけでなく、学ぶこともしっかり身につかない。むろん、忠実と信義とを第一義として一切の言動を貫くべきだ。安易に自分より知徳の劣った人と交っていい気になるのは禁物である。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ」
 曾先生がいわれた。
「上に立つ者が父母の葬いを鄭重にし、遠い先祖の祭りを怠らなければ、人民もおのずからその徳に化せられて、敦厚な人情風俗が一国を支配するようになるものである」
 子禽が子貢にたずねた。
「孔先生は、どこの国に行かれても、必ずその国の政治向きのことに関係されますが、それは先生の方からのご希望でそうなるのでしょうか、それとも先方から持ちかけて来るのでしょうか」
 子貢が答えた。
「先生は、温・良・恭・儉・譲の五つの徳を身につけていられるので、自然にそうなるのだと私は思う。むろん、先生ご自身にも政治に関与したいというご希望がないのではない。しかし、その動機はほかの人とは全くちがっている。先生にとって大事なのは、権力の掌握でなくて徳化の実現なのだ。だから、先生はどこの国に行つても、ほかの人達のように媚びたり諂ったりして官位を求めるようなことはなさらない。ただご自身の徳をもって君主にぶっつかって行かれるのだ。それが相手の心にひびいて、自然に政治向きの相談にまで発展して行くのではないかと思われる」
 先師がいわれた。
「父の在世中はそのお気持を察して孝養をつくし、父の死後はその行われた跡を見て、すべての仕来りを継承するがいい。こうして三年の間父の仕来りを改めず、ひたすら喪に服する人なら、真の孝子といえるであろう」
 有先生がいわれた。
「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである」
 有先生がいわれた。
「約束したことが正義にかなっておれば、その約束どおりに履行出来るものだ。丁寧さが礼にかなっておれば、人に軽んぜられることはないものだ。人にたよる時に、たよるべき人物の選定を誤っていなければ、生涯その人を尊敬して行けるものだ」
 先師がいわれた。
「君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人に就いて自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ」
 子貢が先師にたずねた。
「貧乏でも人にへつらわない、富んでも人に驕らない、というほどでしたら、立派な人物だと思いますが、いかがでしょう」
 先師がこたえられた。
「先ず一とおりの人物だといえるだろう。だが、貧富を超越し、へつらうまいとか驕るまいとかいうかまえ心からすっかり脱却して、貧乏してもその貧乏の中で心ゆたかに道を楽しみ、富んでもごく自然に礼を愛するというような人には及ばないね」
 すると子貢がいった。
「なるほど人間の修養には、上には上があるものですね。詩経に、
『切るごとく、
 磋るごとく、
 琢つごとく、
 磨くがごとく、
 たゆみなく、
 道にはげまん』
 とありますが、そういうことをいったものでございましょうか」
 先師は、よろこんでいわれた。
「賜よ、お前はいいところに気がついた。それでこそ共に詩を談ずる資格があるのだ。君は一つのことがわかると、すぐつぎのことがわかる人物だね」
 先師がいわれた。
「人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。自分が人を知らないということが心配なのだ」

第二 為政

 先師がいわれた。
「徳によつて政治を行えば、民は自然に帰服する。それは恰も北極星がその不動の座に居て、もろもろの星がそれを中心に一絲みだれず運行するようなものである」
 先師がいわれた。
「詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貴く精神は『思い邪なし』の一句につきている」
 先師がいわれた。
「法律制度だけで民を導き、刑罰だけで秩序を維持しようとすると、民はただそれらの法網をくぐることだけに心を用い、幸にして免れさえすれば、それで少しも恥じるところがない。これに反して、徳を以て民を導き、礼によって秩序を保つようにすれば、民は恥を知り、自ら進んで善を行うようになるものである」
 先師がいわれた。
「私は十五歳で学問に志した。三十歳で自分の精神的立脚点を定めた。四十歳で方向に迷わなくなつた。五十歳で天から授かった使命を悟った。六十歳で自然に真理をうけ容れることが出来るようになつた。そして七十歳になってはじめて、自分の意のままに行動しても決して道徳的法則にそむかなくなった」
 大夫の孟懿子が孝の道を先師にたずねた。すると先師は答えられた。
「はずれないようになさるがよろしいかと存じます」
 そのあと、樊遅が先師の車の御者をつとめていた時、先師が彼にいわれた。
「孟孫が孝の道を私にたずねたので、私はただ、はずれないようになさるがいい、とこたえておいたよ」
 樊遅がたずねた。
「それはどういう意味でございましょう」
 先師が答えられた。
「親の存命中は礼を以て仕え、その死後は礼を以て葬り、礼を以て祭る。つまり、礼にはずれないという意味だ」
 孟武伯が孝の道を先師にたずねた。先師はこたえられた。
「父母はいつも子の健康のすぐれないのに心をいためるものでございます」
 子游が孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。
「現今では、親に衣食の不自由をさせなければ、それが孝行だとされているようだが、それだけのことなら、犬や馬を飼う場合にもやることだ。もし敬うということがなかつたら、両者に何の区別があろう」
 子夏が孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。
「むずかしいのは、どんな顔付をして仕えるかだ。仕事は若いもの、ご馳走は老人と、型通りにやったところで、それに真情がこもらないでは孝行にはなるまい」
 先師がいわれた。
「回と終日話していても、彼は私のいうことをただおとなしくきいているだけで、まるで馬鹿のようだ。ところが彼自身の生活を見ると、あべこべに私の方が教えられるところが多い。回という人間は決して馬鹿ではないのだ」
 先師がいわれた。
「人間のねうちというものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどの辺にその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察して見ると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない」
 先師がいわれた。
「古きものを愛護しつつ新しき知識を求める人であれば、人を導く資格がある」
 先師がいわれた。
「君子は機械的な人間であってはならぬ」
 子貢が君子たるものの心得をたずねた。先師はこたえられた。
「君子は、言いたいことがあったら、先ずそれを自分で行ってから言うものだ」
 先師がいわれた。
「君子の交りは普遍的であつて派閥を作らない。小人の交りは派閥を作って普遍的でない」
 先師がいわれた。
「他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない。自分で考えるだけで他に学ばなければ独断に陥る危険がある」
 先師がいわれた。
「異端の学問をしても害だけしかない」
 先師がいわれた。
「由よ、お前に『知る』ということはどういうことか、教えてあげよう。知っていることは知っている、知らないことは知らないとして、すなおな態度になる。それが知るということになるのだ」
 子張は求職の方法を知りたがっていた。先師はこれをさとしていわれた。
「なるだけ多く聞くがいい。そして、疑わしいことをさけて、用心深くたしかなことだけを言つておれば、非難されることが少い。なるだけ多く見るがいい。そして、あぶないと思うことをさけて、自信のあることだけを用心深く実行しておれば、後悔することが少い。非難されることが少く、後悔することが少ければ、自然に就職の道はひらけて来るものだ」
 哀公がたずねられた。
「どうしたら人民が心服するだろうか」
 先師がこたえられた。
「正しい人を挙用して曲った人の上におくと、人民は心服いたします。曲った人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません」
 大夫の季康子がたずねた。
「人民をしてその支配者に対して敬意と忠誠の念を抱かせ、すすんで善を行わしめるようにするためには、どうしたらいいでしょうか」
 先師はこたえられた。
「支配者の態度が荘重端正であれば人民は敬意を払います。支配者が親に孝行であり、すべての人に対して慈愛の心があれば、人民は忠誠になります。有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育すれば、人民はおのずから善に励みます」
 ある人が先師にたずねていった。
「先生はなぜ政治にお携りになりませんか」
 先師はこたえられた。
「書経に、孝についてかようにいってある。『親に孝行であり、兄弟に親密であり、それがおのずから政治に及んでいる』と。これで見ると、家庭生活を美しくするのもまた政治だ。しいて国政の衝にあたる必要もあるまい」
 先師がいわれた。
「人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進が出来よう。人間における信もその通りだ」
 子張がたずねた。
「十代も後のことが果してわかるものでございましょうか」
 先師がこたえられた。
「わかるとも。殷の時代は夏の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところもあるが、根本は変っていない。周の時代は殷の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところがあるが、やはり根本は変っていない。今後周についで新しい時代が来るかも知れないが、礼の根本は変らないだろう。真理というものは、かように過現未を通ずるものだ。従って十代はおろか百代の後も豫見出来るのだ」
 先師がいわれた。
「自分の祭るべき霊でもないものを祭るのは、へつらいだ。行うべき正義を眼前にしながら、それを行わないのは勇気がないのだ」

第三 八佾

 先師が季氏を批評していわれた。
「季氏は前庭で八佾の舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう」
 三家のものが、雍の詩を歌って祭祀の供物を下げた。先師がこれを非難していわれた。
「雍の詩には、『諸侯が祭りを助けている。天子はその座にあって威儀を正している』という意味の言葉もあるし、元来三家の祭りなどで歌えるような性質のものではないのだ」
 先師がいわれた。
「不仁な人が礼を行ったとて何になろう。不仁な人が楽を奏したとて何になろう」
 林放が礼の根本義をたずねた。先師がこたえられた。
「大事な質問だ。吉礼は、ぜいたくに金をかけるよりも、つまし過ぎる方がいい。凶礼は手落がないことよりも、深い悲みの情があらわれている方がよい」
 先師がいわれた。
「夷狄の国にも君主があって秩序が立っている。現在の乱脈な中華諸国のようなものではないのだ」
 季氏が泰山の山祭りをしようとした。先師が冉有にいわれた。
「お前は季氏の過ちを救うことが出来ないのか」
 冉有がこたえた。
「私の力ではもうだめです」
 先師がため息をついていわれた。
「するとお前は、泰山の神は林放という一書生にも及ばないと思つているのか」
 先師がいわれた。
「君子は争わない。争うとすれば弓の競射ぐらいなものであろう。それもゆずりあって射場にのぼり、勝負がすむと射場を下って仲よく酒をのむ。争うにしても君子らしく争うのだ」
 子夏が先師にたずねた。
「笑えはえくぼが愛くるしい。
 眼はぱっちりと澄んでいる。
 それにお化粧が匂ってる。
 という歌がありますが、これには何か深い意味がありましょうか」
 先師がこたえられた。
「絵の場合でいえば、見事な絵がかけて、その最後の仕上げにごふんをかけるというようなことだろうね」
 子夏がいった。
「なるほど。すると礼は人生の最後の仕上げにあたるわけでございましょうか。しかし、人生の下絵が立派でなくては、その仕上げには何のねうちもありませんね」
 先師が喜んでいわれた。
「商よ、お前には私も教えられる。それでこそいっしょに詩の話が出来るというものだ」
 先師がいわれた。
「私はしばしば夏の礼制の話をするが、夏の子孫の国である現在の杞には、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。私はしばしば殷の礼制の話をするが、殷の子孫の国である現在の宋には、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。それは典籍も不十分であり、賢人もいないからだ。それらがありさえすれば、私は私のいうことが正しいということを完全に証拠立てることが出来るのだが」
 先師がいわれた。
「禘の祭は見たくないものの一つだが、それでも酒を地にそそぐ降神式あたりまではまだどうなりがまんが出来る。しかしそのあとはとても見ていられない」
 ある人が禘の祭のことを先師にたずねた。すると先師は、自分の手のひらを指でさしながら、こたえられた。
「私は知らない。もし禘の祭のことがほんとうにわかっている人が天下を治めたら、その治績のたしかなことは、この手のひらにのせて見るより、明らかなことだろう」
 先師は、祖先を祭る時には、祖先をまのあたりに見るような、また、神を祭る時には、神をまのあたりに見るようなご様子で祭られた。そしていつもいわれた。
「私は自分みずから祭を行わないと、祭ったという気がしない」
 王孫賈が先師にたずねた。
「奥の神様に媚びるよりは、むしろ竈の神様に媚びよ、という諺がございますが、どうお考えになりますか」
 先師がこたえられた。
「いけませぬ。大切なことは罪を天に得ないように心掛けることです。罪を天に得たら、どんな神様に祈っても甲斐がありませぬ」
 先師がいわれた。
「周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい」
 先師が大廟に入つて祭典の任に当られた時、事ごとに係の人に質問された。それをある人があざけっていった。
「あの鄹の田舎者のせがれが、礼に通じているなどとは、いったいだれがいい出したことなのだ。大廟に入つて事ごとに質問しているではないか」
 先師はこれをきかれて、いわれた。
「慎重にきくのが礼なのだ」
 先師がいわれた。
「射の主目的は的にあてることで、的皮を射ぬくことではない。人の力には強弱があって等しくないからである。これは古の道である」
 子貢が、告朔の礼に餼羊をお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師がいわれた。
「賜よ、お前は羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい」
 先師がいわれた。
「君主に仕えて礼をつくすのは当然だ。然るに世間ではそれをへつらいだという」
 定公がたずねられた。
「君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ」
 先師がこたえられた。
「君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます」
 先師がいわれた。
「関雎の詩は歓楽を歌っているが、歓楽におぼれてはいない。悲哀を歌っているが、悲哀にやぶれてはいない」
 哀公が宰我に社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。
「夏の時代には松を植えました。殷の時代には柏を植えました。周の時代になってからは、栗を植えることになりましたが、それは人民を戦慄させるという意味でございます」
 先師はこのことをきかれて、いわれた。
「出来てしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、諌めても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
 先師がいわれた。
「管仲は人物が小さい」
 するとある人がたずねた。
「管仲の人物が小さいと仰しゃるのは、つましい人だからでしょうか」
 先師がいわれた。
「つましい? そんなことはない。管仲は三帰台というぜいたくな高台を作り、また、家臣を多勢使って、決して兼任をさせなかったぐらいだ」
「すると、管仲は礼を心得て、それに捉われていたとでもいうのでしょうか」
「そうでもない。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫を用いるのは諸侯同志の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう」
 先師が魯の楽長に音楽について語られた。
「およそ音楽の世界は一如の世界だ。そこにはいささかの対立もない。先ず一人一人の楽手の心と手と楽器が一如になり、楽手と楽手とが一如になり、更に楽手と聴衆とが一如になって、翕如として一つの機をねらう。これが未発の音楽だ。この翕如たる一如の世界が、機熟しておのずから振動をはじめると、純如として濁りのない音波が人々の耳を打つ。その音はただ一つである。ただ一つではあるが、その中には金音もあり、石音もあり、それぞれに独自の音色を保って、決しておたがいに殺しあうことがない。皦如として独自を守りつつ、しかもただ一つの音の流れに没入するのだ。こうして時がたつにつれ、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、その間、厘毫のすきもなく、繹如としてつづいて行く。そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される。まことの音楽というものは、こうして始まり、こうして終るものだ」
 儀の関守が先師に面会を求めていった。
「有徳のお方がこの関所をお通りになる時に、私がお目にかかれなかったためしは、これまでまだ一度もございません」
 お供の門人たちが、彼を先師の部屋に通した。やがて面会を終って出て来た彼は、門人たちにいった。
「諸君は、先生が野に下られたことを少しも悲観されることはありませんぞ。天下の道義が地におちてすでに久しいものですが、天は、先生を一国だけにとめておかないで、天下の木鐸にしようとしているのです」
 先師が楽曲韶を評していわれた。
「美の極致であり、また善の極致である」
 更に楽曲武を評していわれた。
「美の極致ではあるが、まだ善の極致だとはいえない」
 先師がいわれた。
「人の上に立つて寛容でなく、礼を行うのに敬意をかき、葬儀に参列しても悲しい気持になれない人間は、始末におえない人間だ」

第四 里仁

 先師がいわれた。
「隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない」
 先師がいわれた。
「不仁な人間は、長く逆境に身を処すことも出来ないし、また長く順境に身を処することも出来ない。それが出来るのは仁者と知者であるが、仁者はどんな境遇にあっても、仁そのものに安んずるが故にみだれないし、知者は仁の価値を知って努力するが故にみだれない」
 先師がいわれた。
「ただ仁者のみが正しく人を愛し、正しく人を悪むことが出来る」
 先師がいわれた。
「志向がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行うことはない」
 先師がいわれた。
「人は誰しも富裕になりたいし、また尊貴にもなりたい。しかし、正道をふんでそれを得るのでなければ、そうした境遇を享受すべきではない。人は誰しも貧困にはなりたくないし、また卑賎にもなりたくはない。しかし、道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそれを脱れようとあせる必要はない。君子が仁を忘れて、どうして君子の名に値しよう。君子は、箸のあげおろしの間にも仁にそむかないように心掛くべきだ。いや、それどころか、あわを食ったり、けつまずいたりする瞬間も、心は仁にしがみついていなければならないのだ」
 先師がいわれた。
「私はまだ、真に仁を好む者にも、真に不仁を悪む者にも会ったことがない。真に仁を好む人は自然に仁を行う人で、全く申分がない。しかし不仁を悪む人も、つとめて仁を行うし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。せめてその程度には誰でもなりたいものだ。それは何もむずかしいことではない。今日一日、今日一日と、その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえ出来ない人はまさかないだろう。あるかも知れないが、私はまだ、それも出来ないような人を見たことがない」
 先師がいわれた。
「人がら次第で過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁不仁がわかるものだ」
 先師がいわれた。
「朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない」
 先師がいわれた。
「いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない」
 先師がいわれた。
「君子が政治の局にあたる場合には、自分の考えを固執し、無理じいに事を行ったり禁止したりすることは決してない。虚心に道理のあるところに従うだけである」
 先師がいわれた。
「上に立つ者が常に徳に心掛けると、人民は安んじて土に親み、耕作にいそしむ。上に立つ者が常に刑罰を思うと、人民はただ上からの恩恵だけに焦慮する」
 先師がいわれた。
「利益本位で行動する人ほど怨恨の種をまくことが多い」
 先師がいわれた。
「礼の道にかなつた懇切さで国を治めるならば、何の困難があろう。もし国を治めるのに、そうした懇切さを欠くなら、いったい礼制は何のためのものか」
 先師がいわれた。
「地位のないのを心配するより、自分にそれだけの資格があるかどうかを心配するがいい。また、自分が世間に認められないのを気にやむより、認められるだけの価値のある人間になるように努力するがいい」
 先師がいわれた。
「参よ、私の道はただ一つの原理で貫かれているのだ」
 曾先生が答えられた。
「さようでございます」
 先師はそういって室を出て行かれた。すると、ほかの門人たちが曾先生にたずねた。
「今のは何のことでしょう」
 曾先生は答えていわれた。
「先生の道は忠恕の一語につきるのです」
 先師がいわれた。
「君子は万事を道義に照らして会得するが、小人は万事を利害から割出して会得する」
 先師がいわれた。
「賢者を見たら、自分もそうありたいと思うがいいし、不賢者を見たら、自分はどうだろうかと内省するがいい」
 先師がいわれた。
「父母に仕えて、その悪を默過するのは子の道ではない。言葉を和らげてそれを諌めるがいい。もし父母がきかなかったら、一層敬愛の誠をつくして、根気よく諌めることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親を怨んではならない」
 先師がいわれた。
「父母の存命中は、遠い旅行などはあまりしないがいい。やむを得ず旅行する場合は行先を明らかにしておくべきだ」
 先師がいわれた。
「もし父の死後三年間その仕来りを変えなければ、その人は孝子といえるだろう」
 先師がいわれた。
「父母の年齢は忘れてはならない。一つにはその長命を喜ぶために、一つには老先の短いのをおそれていよいよ孝養をはげむために」
 先師がいわれた。
「古人はかろがろしく物をいわなかったが、それは実行の伴わないのを恥じたからだ」
 先師がいわれた。
「ひかえ目にしていてしくじる人は少い」
 先師がいわれた。
「君子は、口は不調法でも行いには敏活でありたいと願うものだ」
 先師がいわれた。
「徳というものは孤立するものではない。必ず隣が出来るものだ」
 子游がいった。
「君主に対して忠言の度が過ぎると、きっとひどい目にあわされる。友人に対して忠告の度が過ぎると、きっとうとまれる」

第五 公冶長

 先師が公冶長を評していわれた。
「あの人物なら、娘を嫁にやってもよい。かつては縄目の恥をうけたこともあったが、無実の罪だったのだ」
 そして彼を自分の婿にされた。
 また先師は南容を評していわれた。
「あの人物なら、国が治っている時には必ず用いられるであろうし、国が乱れていても刑罰をうけるようなことは決してあるまい」
 そして兄上の娘を彼の嫁にやられた。
 先師が子賎を評していわれた。
「こういう人こそ君子というべきだ。しかし、もし魯の国に多くの君子がいなかったとしたら、彼もなかなかこうはなれなかったろう」
 先師が人物評をやつておられると、子貢がたずねた。
「私はいかがでございましょう」
 先師がこたえられた。
「お前は見事な器だね」
 子貢がかさねてたずねた。
「どんな器でございましょう」
 先師がこたえられた。
「瑚連だ」
 ある人がいった。
「雍は仁者ではありますが、惜しいことに口下手で、人を説きふせる力がありません」
 すると先師がいわれた。
「口下手など、どうでもいいことではないかね。人に接して口先だけうまいことをいう人は、たいていおしまいには、あいそをつかされるものだよ。私は雍が仁者であるかどうかは知らないが、とにかく、口下手は問題ではないね」
 先師が漆雕開に仕官をすすめられた。すると、漆雕開はこたえた。
「私には、まだ役目を果すだけの自信がありません」先師はその答えを心から喜ばれた。
 先師がいわれた。
「私の説く治国の道も、到底行われそうにないし、そろそろ桴にでも乗って海外に出ようと思うが、いよいよそうなった場合、私について来てくれるのは、由かな」
 子路はそれをきいて大喜びであった。すると先師がまたいわれた。
「ところで、由は、勇気を愛する点では私以上だが、分別が足りないので、いささか心細いね」
 孟武伯が先師にたずねた。
「子路は仁者でございましょうか」
 先師がこたえられた。
「わかりませぬ」
 孟武伯は、しかし、おしかえしてまた同じことをたずねた。すると先師がいわれた。
「由は千乗の国の軍事を司るだけの能力はありましょう。しかし仁者といえるかどうかは疑問です」
「では、求はいかがでしょう」
 先師はこたえられた。
「求は千戸の邑の代官とか、百乗の家の執事とかいう役目なら十分果せましょう。しかし、仁者といえるかどうかは疑問です」
「赤はどうでしょう」
 先師はこたえられた。
「赤は式服をつけ、宮庭において外国の使臣の応接をするのには適しています。しかし、仁者であるかどうかは疑問です」
 先師が子貢にいわれた。
「お前と囘とは、どちらがすぐれていると思うかね」
 子貢がこたえていった。
「私ごときが、囘と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。囘は一をきいて十を知ることが出来ますが、私は一をきいてやつと二を知るに過ぎません」
 すると先師がいわれた。
「実際、囘には及ばないね。それはお前のいうとおりだ。お前のその正直な答はいい」
 宰予が昼寝をしていた。すると先師がいわれた。
「くさった木には彫刻は出来ない。ぼろ土の塀は上塗をしてもだめだ。お前のようななまけ者を責めても仕方がない」
 それから、しばらくしてまたいわれた。
「これまで私は、誰でもめいめい口でいう通りのことを実行しているものだとばかり信じて来たのだ。しかしこれからは、もうそうは信じていられない。いうことと行うこととが一致しているかどうか、それをはっきりつきとめないと、安心が出来なくなって来た。お前のような人間もいるのだから」
 先師がいわれた。
「私はまだ剛者というほどの人物に会ったことがない」
 するとある人がいった。
「申棖という人物がいるではありませんか」
 先師は、いわれた。
「申棖は慾が深い。あんなに慾が深くては剛者にはなれないね」
 子貢がいった。
「私は、自分が人からされたくないことは、自分もまた人に対してしたくないと思つています」
 すると先師がいわれた。
「賜よ、それはまだまだお前に出来ることではない」
 子貢がいった。
「先生のご思想、ご人格の華というべき詩書礼楽のお話や、日常生活の実践に関するお話は、いつでもうかがえるが、その根本をなす人間の本質とか、宇宙の原理とかいう哲学的なお話は、容易にはうかがえない」
 子路は、一つの善言をきいて、まだそれを実現することが出来ない間は、更に新しい善言を聞くことを恐れた。
 子貢がたずねた。
「孔文子はどうして文というりっぱなおくり名をされたのでありましょうか」
 先師がこたえられた。
「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかつた。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ」
 先師が子産のことを評していわれた。
「子産は、為政家の守るべき四つの道をよく守つている人だ。彼は先ず第一に身を持すること恭謙である。第二に上に仕えて敬慎である。第三に人民に対して慈恵を旨としている。そして第四に人民の使役の仕方が公正である」
 先師がいわれた。
「晏平仲は交際の道をよく心得ている人である。どんなに久しく交際している人に対しても狎れて敬意を失うことがない」
 先師がいわれた。
「臧文仲は、諸侯でもないのに、国の吉兆を占う蔡をもっている。しかもそれを置く節には山の形を刻み、梲には水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。世間では彼を知者だといっているが、こんな身の程知らずが、何で知者といえよう」
 子張が先師にたずねた。
「子文は三度令尹の職にあげられましたが、べつにうれしそうな顔もせず、三度その職をやめられましたが、べつに不平そうな顔もしなかったそうです。そして、やめる時には、気持よく政務を新任の令尹に引きついだということです。こういう人を先生はどうお考えでございましょうか」
 先師がいわれた。
「忠実な人だ」
 子張がたずねた。
「仁者だとは申されますまいか」
 先師がこたえられた。
「どうかわからないが、それだけきいただけでは仁者だとは断言出来ない。
 子張が更にたずねた。
「崔子が斉の荘公を弑したときに、陳文子は馬十乗もあるほどの大財産を捨てて国を去りました。ところが、他の国に行って見ると、そこの大夫もよろしくないので、『ここにも崔子と同様の大夫がいる』といって、またそこを去りました。それから更に他の国に行きましたが、そこでも、やはり同じようなことをいって、去ったというのです。かような人物はいかがでしょう」
 先師がこたえられた。
「純潔な人だ」
 子張がたずねた。
「仁者だとは申されますまいか」
 先師がいわれた。
「どうかわからないが、それだけきいただけでは、仁者だとは断言出来ない」
 季文子は何事も三たび考えてから行った。先師はそれをきいていわれた。
「二度考えたら十分だ」
 先師がいわれた。
「甯武子は国に道が行われている時には、見事に腕をふるって知者だといわれ、国が乱れている時には、損な役割を引きうけて愚者だといわれた。その知者としての働きは真似が出来るが、愚者としての働きは容易に真似の出来ないところだ」
 先師が天下を周遊して陳の国に居られたときに、いわれた。
「帰るとしよう、帰るとしよう。帰って郷党の若い同志を教えるとしよう。彼等の志は遠大だが、まだ実践上の磨きが足りない。知識学問においては百花爛漫の妍を競っているが、まだ自己形成のための真の道を知らない。それはちょうど、見事な布は織ったが、寸法をはかってそれを裁断し、衣服に仕立てることが出来ないようなものだ。これをすてては置けない。しかも、彼等を教えることは、こうして諸侯を説いて無用な旅をつづけるより、どれだけ有意義なことだろう」
 先師がいわれた。
「伯夷・叔斉は人の旧悪を永く根にもつことがなかった。だから人に怨まれることがほとんどなかったのだ」
 先師がいわれた。
「いったい誰が微生高を正直者などといい出したのだ。あの男は、ある人に酢を無心され、それを隣からもらって与えたというではないか」
 先師がいわれた。
「言葉巧みに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる」
 顔渕と季路とが先師のおそばにいたときのこと、先師がいわれた。
「どうだ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを語りあって見ようではないか」
 すると、子路がすぐいった。
「私が馬車に乗り、軽い毛皮の着物が着れるような身分になりました時に、友人と共にそれに乗り、それを着て、かりに友人がそれをいためましても、何とも思わないようにありたいものだと思います」
 顔渕はいった。
「私は、自分の善事を誇ったり、骨折を吹聴したりするような誘惑に打克って、自分の為すべきことを、真心こめてやれるようになりたいと、それをひたすら願っております」
 しばらくして子路が先師にたずねた。
「どうか、先生のご理想も承らしていただきたいと思います」
 先師は答えられた。
「私は、老人たちの心を安らかにしたい。友人とは信をもって交りたい。年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのだ」
 先師がいわれた。
「何ともしようのない世の中だ。自分の過ちを認めて、自ら責める人がまるでいなくなったようだ」
 先師がいわれた。
「十戸ほどの小村にも、まじめで偽りがないというだけのことなら、私ぐらいな人はきっといるだろう。だが、学問を愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにあるまい。

第六 雍也

 先師がいわれた。
「雍には人君の風がある。南面して政を見ることが出来よう」
 仲弓が先師に子桑伯子の人物についてたずねた。先師がこたえられた。
「よい人物だ。大まかでこせこせしない」
 すると仲弓がまたたずねた。
「日常あくまでも敬慎の心を以て万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民に臨む、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放慢になりがちだと思いますが」
 先師がいわれた。
「お前のいうとおりだ」
 哀公が先師にたずねられた。
「門人中で誰が一番学問が好きかな」
 先師がこたえられた。
「顔囘と申すものがおりまして、大変学問が好きでありました。怒りをうつさない、過ちをくりかえさない、ということは、なかなか出来ることではありませんが、それが顔囘には出来たのでございます。しかし、不幸にして短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔囘亡きあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はいないようでございます」
 子華が先師の使者として斉に行った。彼の友人の冉先生が、留守居の母のために飯米を先師に乞うた。先師がいわれた。
「五六升もやれば結構だ」
 冉先生はそれではあんまりだと思ったので、もう少し増してもらうようにお願いした。すると、先師がいわれた。
「では、一斗四五升もやったらいいだろう」
 冉先生は、それでも少いと思ったのか、自分のはからいで七石あまりもやってしまった。
 先師はそれを知るといわれた。
「赤は斉に行くのに、肥馬に乗り軽い毛衣を着ていたくらいだ。まさか留守宅が飯米にこまることもあるまい。私のきいているところでは、君子は貧しい者にはその不足を補ってやるが、富める者にその富のつぎ足しをしてやるようなことはしないものだそうだ。少し考えるがいい」
 原思が先師の領地の代官になった時に、先師は彼に俸祿米九百を与えられた。原思は多過ぎるといって辞退した。すると先師がいわれた。
「遠慮しないがいい。もし多過ぎるようだったら、近所の人たちにわけてやってもいいのだから」
 先師は仲弓のことについて、こんなことをいわれた。
「まだら牛の生んだ子でも、毛が赤くて、角が見事でさえあれば、神前に供えられる資格は十分だ。人がそれを用いまいとしても、山川の神々が決して捨ててはおかれないだろう」
 先師がいわれた。
「囘よ、三月の間、心が仁の原理をはなれなければ、その他の衆徳は日に月に進んで来るものだ」
 大夫の季康子が先師にたずねた。
「仲由は政治の任にたえうる人物でしょうか」
 先師がこたえられた。
「由には決断力があります。決して政治が出来ないことはありません」
 季康子が先師にたずねた。
「賜は政治の任にたえうる人物でしょうか」
 先師がこたえられた。
「賜は聰明です。決して政治が出来ないことはありません」
 季康子が先師にたずねた。
「求は政治の任にたえうる人物でしょうか」
 先師がこたえられた。
「求は多才多能です。決して政治が出来ないことはありません」
 魯の大夫季氏が閔子騫を費の代官に任用したいと思って、使者をやった。すると、閔子騫は、その使者にいった。
「どうか私に代ってよろしくお断り申しあげて下さい。もし再び私をお召しになるようなことがあれば、私はきっと汶水のほとりにかくれるでございましょう」
 伯牛が癩を病んで危篤に陥った。先師は彼をその家に見舞われ、窓から彼の手をとって永訣された。そして嘆いていわれた。
「惜しい人がなくなる。これも天命だろう。それにしても、この人にこの業病があろうとは。この人にこの業病があろうとは」
 先師がいわれた。
「囘は何という賢者だろう。一膳飯に一杯酒で、裏店住居といったような生活をしておれば、たいていの人は取りみだしてしまうところだが、囘は一向平気で、ただ道を楽み、道にひたりきっている。囘は何という賢者だろう」
 冉求がいった。
「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
 すると、先師がいわれた。
「力が足りないかどうかは、根かぎり努力して見たうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。お前はたおれもしないうちから、自分の力に見きりをつけているようだが、それがいけない」
 先師が子夏にいわれた。
「君子の儒になるのだ。小人の儒になるのではないぞ」
 子游は武城の代官をつとめていたが、ある時、先師が彼にたずねられた。
「部下にいい人物を見つけたかね」
 子游がこたえた。
「澹臺滅明という人物がおります。この人間は、決して近道やぬけ道を歩きません。また公用でなければ、決して私の部屋にはいって来たことがございません」
 先師がいわれた。
「孟子反は功にほこらない人だ。敗軍の時に一番あとから退却して来たが、まさに城門に入ろうとする時、馬に鞭をあてて、こういったのだ。自分は好んで殿の役をつとめたわけではないが、つい馬がいうことをきかなかったので」
 先師がいわれた。
「祝鮀ほど口がうまくて、宋朝ほどの美男子でないと、無事にはつとまらないらしい。何というなさけない時代だろう」
 先師がいわれた。
「外に出るのに戸口を通らないものはない。然るに、どうして人々は、人間が世に出るのに必ず通らなければならないこの道を通ろうとしないだろう」
 先師がいわれた。
「質がよくても文がなければ一個の野人に過ぎないし、文は十分でも、質がわるければ、気のきいた事務家以上にはなれない。文と質とがしっかり一つの人格の中に溶けあった人を君子というのだ」
 先師がいわれた。
「人間というものは、本来、正直に生れついたものだ。それを無視して生きていられるのは、決して天理にかなっていることではない。偶然に天罰を免れているに過ぎないのだ」
 先師がいわれた。
「真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は真理を楽む者に及ばない」
 先師がいわれた。
「中以上の学徒には高遠精深な哲理を説いてもいいが、中以下の学徒にはそれを説くべきではない」
 樊遅が「知」について先師の教えを乞うた。先師がこたえられた。
「ひたすら現実社会の人倫の道に精進して、超自然界の霊は敬して遠ざける、それを知というのだ」
 樊遅はさらに「仁」について教えを乞うた。先師がこたえられた。
「仁者は労苦を先にして利得を後にする。仁とはそういうものなのだ」
 先師がいわれた。
「知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽み、仁者は永遠の中に安住する」
 先師がいわれた。
「斉が一飛躍したら魯のようになれるし、魯が一飛躍したら真の道義国家になれるのだが」
 先師がいわれた。
「觚には角があるものだが、この觚には角がない。角のない觚が觚だろうか。角のない觚が觚だろうか」
 宰我が先師にたずねた。
「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか」
 先師がこたえられた。
「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることは出来る。しかし、おとし入れることは出来ない。人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ」
 先師がいわれた。
「君子は博く典籍を学んで知見をゆたかにすると共に、実践の軌範を礼に求めてその知見にしめくくりをつけて行かなければならない。それでこそはじめて学問の道にそむかないといえるであろう」
 先師が南子に謁見された。子路がそのことについて遺憾の意を表した。先師は、すると、誓言するようにいわれた。
「私のやったことが、もし道にかなわなかったとしたら、天がゆるしてはおかれない。天がゆるしてはおかれない」
 先師がいわれた。
「中庸こそは完全至高の徳だ。それが人々の間に行われなくなってから久しいものである」
 子貢が先師にたずねていった。
「もしひろく恵みをほどこして民衆を救うことが出来ましたら、いかがでしょう。そういう人なら仁者といえましょうか」
 先師がこたえられた。
「それが出来たら仁者どころではない。それこそ聖人の名に値するであろう。堯や舜のような聖天子でさえ、それには心労をされたのだ。いったい仁というのは、何もそう大げさな事業をやることではない。自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、ただそれだけのことだ。それだけのことを日常生活の実践にうつして行くのが仁の具体化なのだ」

第七 述而

 先師がいわれた。
「私は古聖の道を伝えるだけで、私一箇の新説を立てるのではない。古聖の道を信じ愛する点では、私は心ひそかに自分を老彭にも劣らぬと思っているのだ」
 先師がいわれた。
「沈默のうちに心に銘記する、あくことなく学ぶ、そして倦むことなく人を導く。それだけは私に出来る。そして私に出来るのは、ただそれだけだ」
 先師がいわれた。
「修徳の未熟なこと、研学の不徹底なこと、正義と知ってただちに実践にうつり得ないこと、不善の行を改めることが出来ないこと。いつも私の気がかりになっているのは、この四つのことだ」
 先師が家にくつろいでいられる時は、いつものびのびとして、うれしそうな顔をしていられた。
 先師がいわれた。
「私もずいぶん老衰したものだ。このごろはさっぱり周公の夢も見なくなってしまった」
 先師がいわれた。
「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい」
 先師がいわれた。
「かりそめにも束脩をおさめて教えを乞うて来たからには、私はその人をなまけさしてはおかない」
 先師がいわれた。
「私は、教えを乞う者が、先ず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない」
 先師は、喪中の人と同席して食事をされるときには、腹一ぱい召しあがることがなかった。先師は、人の死を弔われたその日には、歌をうたわれることがなかった。
 先師が顔渕に向っていわれた。
「用いられれば、その地位において堂々と道を行うし、用いられなければ、天命に安んじ、退いて静かに独り道を楽む。こういった出処進退が出来るのは、まず私とお前ぐらいなものであろう」
 すると子路がはたからいった。
「もし一国の軍隊をひきいて、いざ出陣という場合がありましたら、先生は誰をおつれになりましょうか」
 先師はこたえられた。
「素手で虎を打とうとしたり、徒歩で大河をわたろうとしたりするような、無謀なことをやって、死ぬことを何とも思わない人とは、私は事を共にしたくない。私の参謀には、臆病なぐらい用心深く、周到な計画のもとに確信をもって仕事をやりとげて行くような人がほしいものだ」
 先師がいわれた。
「もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい」
 先師が慎んだ上にも慎まれたのは、斎戒と、戦争と、病気の場合であった。
 先師は斉にご滞在中、韶をきかれた。そして三月の間それを楽んで、肉の味もおわかりにならないほどであった。その頃、先師はこういわれた。
「これほどのすばらしい音楽があろうとは、思いもかけないことだった」
 冉有がいった。
「先生は衛の君を援けられるだろうか」
 子貢がいった。
「よろしい。私がおたずねして見よう」
 彼は先師のお室に入ってたずねた。
「伯夷・叔斉はどういう人でございましょう」
 先師はこたえられた。
「古代の賢人だ」
 子貢が先師にたずねた。
「二人は自分たちのやったことを、あとで悔んだのでしょうか」
 先師はこたえられた。
「仁を求めて仁を行うことが出来たのだから、何の悔むところがあろう」
 子貢は先師のお室からさがって、冉有にいった。
「先生は衛の君をお援けにはならない」
 先師がいわれた。
「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯でも、その中に楽みはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ」
 先師がいわれた。
「私がもう数年生き永らえて、五十になる頃まで易を学ぶことが出来たら、大きな過ちを犯さない人間になれるだろう」
 先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。
 葉公が先師のことを子路にたずねた。子路はこたえなかった。先師はそのことを知って、子路にいわれた。
「お前はなぜこういわなかったのか。学問に熱中して食事を忘れ、道を楽んで憂いを忘れ、そろそろ老境に入ろうとするのも知らないような人がらでございます、と」
 先師がいわれた。
「私は生れながらにして人倫の道を知っている者ではない。古聖の道を好み、汲々としてその探求をつづけているまでのことだ」
 先師は、妖怪変化とか、腕力沙汰とか、醜聞とか、超自然の霊とか、そういったことについては、決して話をされなかった。
 先師がいわれた。
「三人道連れをすれば、めいめいに二人の先生をもつことになる。善い道連れは手本になってくれるし、悪い道連れは、反省改過の刺戟になってくれる」
 先師がいわれた。
「私は天に徳を授かった身だ。桓魋などが私をどうにも出来るものではない」
 先師がいわれた。
「お前たちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをお前たちにかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は四六時中、お前たちに私の行動を見てもらっているのだ。それが私の教えの全部だ。丘という人間は元来そういう人間なのだ」
 先師は四つの教育要目を立てて指導された。典籍の研究、生活体験、誠意の涵養、社会的信義がそれである。
 先師がいわれた。
「今の時代に聖人の出現は到底のぞめないので、せめて君子といわれるほどの人に会えたら、私は満足だ」
 またいわれた。
「今の時代に善人に会える見込は到底ないので、せめてうそのない人にでも会えたら、結構だと思うのだが、それもなかなかむずかしい。無いものをあるように、からっぽなものを充実しているように、また行きづまっていながら気楽そうに見せかけるのが、この頃のはやりだが、そういう人がうそのない人間になるのは、容易なことではないね」
 先師は釣りはされたが、綱はつかわれなかった。また矢ぐるみで鳥をとられることはあったが、ねぐらの鳥を射たれることはなかった。
 先師がいわれた。
「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたる途なのだ」
 互郷という村の人たちは、お話にならないほど風俗が悪かった。ところがその村の一少年が先師に入門をお願いして許されたので、門人たちは先師の真意を疑った。すると、先師がいわれた。
「せっかく道を求めてやって来たのだから、喜んで迎えてやって、退かないようにしてやりたいものだ。お前たちのように、そうむごいことをいうものではない。いったい、人が自分の身を清くしようと思って一歩前進して来たら、その清くしようとする気持を汲んでやればいいので、過去のことをいつまでも気にする必要はないのだ」
 先師がいわれた。
「仁というものは、そう遠くにあるものではない。切実に仁を求める人には、仁は刻下に実現されるのだ」
 陳の司敗がたずねた。
「昭公は礼を知っておられましょうか」
 先師がこたえられた。
「知っておられます」
 先師はそれだけいって退かれた。そのあと司敗は巫馬期に会釈し、彼を自分の身近かに招いていった。。
「私は、君子というものは仲間ぼめはしないものだと聞いていますが、やはり君子にもそれがありましょうか。と申しますのは、昭公は呉から妃を迎えられ、その方がご自分と同性なために、ごまかして呉孟子と呼んでおられるのです。もしそれでも昭公が礼を知った方だといえますなら、世の中に誰か礼を知らないものがありましょう」
 巫馬期があとでそのことを先師に告げると、先師がいわれた。
「私は幸福だ。少しでも過ちがあると、人は必ずそれに気づいてくれる」
 先師は、誰かといっしょに歌をうたわれる場合、相手がすぐれた歌い手だと、必ずその相手にくりかえし歌わせてから、合唱された。
 先師がいわれた。
「典籍の研究は、私も人なみに出来ると思う。しかし、君子の行を実践することは、まだなかなかだ」
 先師がいわれた。
「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地を目ざして厭くことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。それだけが私の身上だ」
 すると、公西華がいった。
「それだけと仰しゃいますが、そのそれだけが私たち門人には出来ないことでございます」
 先師のご病気が重かった。子路が病気平癒のお祷りをしたいとお願いした。すると先師がいわれた。
「そういうことをしてもいいものかね」
 子路がこたえた。
「よろしいと思います。誄に、汝の幸いを天地の神々に祷る、という言葉がございますから」
 すると、先師がいわれた。
「そういう祷りなら、私はもう久しい間祷っているのだ」
 先師がいわれた。
「ぜいたくな人は不遜になりがちだし、儉約な人は窮屈になりがちだが、どちらを選ぶかというと、不遜であるよりは、まだしも窮屈な方がいい」
 先師がいわれた。
「君子は気持がいつも平和でのびのびとしている。小人はいつもびくびくして何かにおびえている」
 先師は、温かで、しかもきびしい方であった。威厳があって、しかもおそろしくない方であった。うやうやしくて、しかも安らかな方であった。

第八 泰伯

 先師がいわれた。
「泰伯こそは至徳の人というべきであろう。固辞して位をつがず、三たび天下を譲ったが、人民にはそうした事実をさえ知らせなかった」
 先師がいわれた。
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる」
 またいわれた。
「上に立つ者が親族に懇篤であれば、人民はおのずから仁心を刺戟される。上に立つ者が故旧を忘れなければ、人民はおのずから浮薄の風に遠ざかる」
 曾先生が病気の時に、門人たちを枕頭に呼んでいわれた。
「私の足を出して見るがいい。私の手を出して見るがいい。詩経に、
『深渕にのぞむごと、
 おののくこころ。
 うす氷ふむがごと、
 つつしむこころ』
 とあるが、もう私も安心だ。永い間、おそれつつしんで、この身をけがさないように、どうやら護りおおせて来たが、これで死ねば、もうその心労もなくなるだろう。ありがたいことだ。そうではないかね、みんな」
 曾先生が病床にあられた時、大夫の孟敬子が見舞に行った。すると、曾先生がいわれた。
「鳥は死ぬまえに悲しげな声で鳴き、人は死ぬまえに善言を吐く、と申します。これから私の申上げますことは、私の最後の言葉でございますから、よくおきき下さい。およそ為政家が自分の道として大切にしなければならないことが三つあります。その第一は態度をつつしんで粗暴怠慢にならないこと、その第二は顔色を正しくして信実の気持があふれること、その第三は、言葉を叮重にして野卑不合理にならないこと、これであります。祭典のお供物台の並べ方などのこまかな技術上のことは、それぞれ係の役人がおりますし、一々お気にかけられなくともよいことでございます」
 曾先生がいわれた。
「有能にして無能な人に教えを乞い、多知にして少知の人にものをたずね、有っても無きが如く内に省み、充実していても空虚なるが如く人にへり下り、無法をいいかけられても相手になって曲直を争わない。そういうことの出来た人がかって私の友人にあったのだが」
 曾先生がいわれた。
「安んじて幼君の補佐を頼み、国政を任せることが出来、重大事に臨んで断じて節操を曲げない人、かような人を君子人というのであろうか。正にかような人をこそ君子人というべきであろう」
 曾先生がいわれた。
「道を行おうとする君は大器で強靭な意志の持主でなければならない。任務が重大でしかも前途遼遠だからだ。仁をもって自分の任務とする、何と重いではないか。死にいたるまでその任務はつづく、何と遠いではないか」
 先師がいわれた。
「詩によって情意を刺戟し、礼によって行動に基準を与え、楽によって生活を完成する。これが修徳の道程だ」
 先師がいわれた。
「民衆というものは、範を示してそれに由らせることは出来るが、道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ」
 先師がいわれた。
「社会秩序の破壊は、勇を好んで貧に苦しむ者によってひき起されがちなものである。しかしまた、道にはずれた人を憎み過ぎることによってひき起されることも、忘れてはならない」
 先師がいわれた。
「かりに周公ほどの完璧な才能がそなわっていても、その才能にほこり、他人の長所を認めないような人であるならば、もう見どころのない人物だ」
 先師がいわれた。
「三年も学問をして、俸祿に野心のない人は得がたい人物だ」
 先師がいわれた。
「篤く信じて学問を愛せよ。生死をかけて道を育てよ。乱れるきざしのある国には入らぬがよい。すでに乱れた国には止まらぬがよい。天下に道が行われている時には、出でて働け。道がすたれている時には、退いて身を守れ。国に道が行われていて、貧賎であるのは恥だ。国に道が行われないで、富貴であるのも恥だ」
 先師がいわれた。
「その地位にいなくて、みだりにその職務のことに口出しすべきではない」
 先師がいわれた。
「楽師の摯がはじめて演奏した時にきいた関雎の終曲は、洋々として耳にみちあふれる感があったのだが」
 先師がいわれた。
「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律儀さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない」
 先師がいわれた。
「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ」
 先師がいわれた。
「何という荘厳さだろう、舜帝と禹王が天下を治められたすがたは。しかも両者共に政治には何のかかわりもないかのようにしていられたのだ」
 先師がいわれた。
「堯帝の君徳は何と大きく、何と荘厳なことであろう。世に真に偉大なものは天のみであるが、ひとり堯帝は天とその偉大さを共にしている。その徳の広大無辺さは何と形容してよいかわからない。人はただその功業の荘厳さと文物制度の燦然たるとに眼を見はるのみである」
 舜帝には五人の重臣があって天下が治った。周の武王は、自分には乱を治める重臣が十人あるといった。それに関連して先師がいわれた。
「人材は得がたいという言葉があるが、それは真実だ。唐・虞の時代をのぞいて、それ以後では、周が最も人材に富んだ時代であるが、それでも十人に過ぎず、しかもその十人の中一人は婦人で、男子の賢臣は僅かに九人にすぎなかった」
 またいわれた。
「しかし、わずかの人材でも、その有る無しでは大変なちがいである。周の文王は天下を三分してその二を支配下におさめていられたが、それでも殷に臣事して秩序をやぶられなかった。文王時代の周の徳は至徳というべきであろう」
 先師がいわれた。
「禹は王者として完全無欠だ。自分の飲食をうすくしてあつく農耕の神を祭り、自分の衣服を粗末にして祭服を美しくし、自分の宮室を質素にして灌漑水路に力をつくした。禹は王者として完全無欠だ」

第九 子罕

 先師はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁とかいうことと結びつけて話された。
 達巷という村のある人がいった。
「孔先生はすばらしい先生だ。博学で何ごとにも通じてお出でなので、これという特長が目立たず、そのために、却って有名におなりになることがない」
 先師はこれを聞かれ、門人たちにたわむれていわれた。
「さあ、何で有名になってやろう。御にするかな、射にするかな。やっぱり一番たやすい御ぐらいにしておこう」
 先師がいわれた。
「麻の冠をかぶるのが古礼だが、今では絹糸の冠をかぶる風習になった。これは節約のためだ。私はみんなのやり方に従おう。臣下は堂下で君主を拝するのが古礼だが、今では堂上で拝する風習になった。これは臣下の増長だ。私は、みんなのやり方とはちがうが、やはり堂下で拝することにしよう」
 先師に絶無といえるものが四つあった。それは、独善、執着、固陋、利己である。
 先師が匡で遭難された時いわれた。
「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、何で、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何が出来るというのだ」
 大宰が子貢にたずねていった。
「孔先生のような人をこそ聖人というのでしょう。実に多能であられる」
 子貢がこたえた。
「もとより天意にかなった大徳のお方で、まさに聖人の域に達しておられます。しかも、その上に多能でもあられます」
 この問答の話をきかれて、先師がいわれた。
「大宰はよく私のことを知っておられる。私は若いころには微賎な身分だったので、つまらぬ仕事をいろいろと覚えこんだものだ。しかし、多能だから君子だと思われたのでは赤面する。いったい君子というものの本質が多能ということにあっていいものだろうか。決してそんなことはない」
 先師のこの言葉に関連したことで、門人の牢も、こんなことをいった。
「先生は、自分は世に用いられなかったために、諸芸に習熟した、といわれたことがある」
 先師がいわれた。
「私が何を知っていよう。何も知ってはいないのだ。だが、もし、田舎の無知な人が私に物をたずねることがあるとして、それが本気で誠実でさえあれば、私は、物事の両端をたたいて徹底的に教えてやりたいと思う」
 先師がいわれた。
「鳳鳥も飛んで来なくなった。河からは図も出なくなった。これでは私も生きている力がない」
 先師は、喪服を着た人や、衣冠束帯をした人や、盲人に出会われると、相手がご自分より年少者のものであっても、必ず起って道をゆずられ、ご自分がその人たちの前を通られる時には、必ず足を早められた。
 顔渕がため息をつきながら讃歎していった。
「先生の徳は高山のようなものだ。仰げば仰ぐほど高い。先生の信念は金石のようなものだ。鑚れば鑚るほど堅い。捕捉しがたいのは先生の高遠な道だ。前にあるかと思うと、たちまち後ろにある。先生は順序を立てて、一歩一歩とわれわれを導き、われわれの知識をひろめるには各種の典籍、文物制度を以てせられ、われわれの行動を規制するには礼を以てせられる。私はそのご指導の精妙さに魅せられて、やめようとしてもやめることが出来ず、今日まで私の才能のかぎりをつくして努力して来た。そして今では、どうなり先生の道の本体をはっきり眼の前に見ることが出来るような気がする。しかし、いざそれに追いついて捉えようとすると、やはりどうにもならない」
 先師のご病気が重くなった時、子路は、いざという場合のことを考慮して、門人たちが臣下の礼をとって葬儀をとり行うように手はずをきめていた。その後、病気がいくらか軽くなった時、先師はそのことを知られて、子路にいわれた。
「由よ、お前のこしらえ事も、今にはじまったことではないが、困ったものだ。臣下のない者があるように見せかけて、いったいだれをだまそうとするのだ。天を欺こうとでもいうのか。それに第一、私は、臣下の手で葬ってもらうより、むしろ二三人の門人の手で葬ってもらいたいと思っているのだ。堂々たる葬儀をしてもらわなくても、まさか道ばたでのたれ死したことにもなるまいではないか」
 子貢が先師にいった。
「ここに美玉があります。箱におさめて大切にしまっておきましょうか。それとも、よい買手を求めてそれを売りましょうか」
 先師はこたえられた。
「売ろうとも、売ろうとも。私はよい買手を待っているのだ」
 先師が道の行われないのを歎じて九夷の地に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。
「野蠻なところでございます。あんなところに、どうしてお住居が出来ましょう」
 すると先師がいわれた。
「君子が行って住めば、いつまでも野蠻なこともあるまい」
 先師がいわれた。
「音楽が正しくなり、雅も頌もそれぞれその所を得て誤用されないようになったのは、私が衛から魯に帰って来たあとのことだ」
 先師がいわれた。
「出でては国君上長に仕える。家庭にあっては父母兄姉に仕える。死者に対する礼は誠意のかぎりをつくして行う。酒は飲んでもみだれない。私に出来ることは、先ずこのくらいなことであろうか」
 先師が川のほとりに立っていわれた。
「流転の相はこの通りだ。昼となく夜となく流れてやまない」
 先師がいわれた。
「私はまだ色事を好むほど徳を好む者を見たことがない」
 先師がいわれた。
「修行というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ」
 先師がいわれた。
「何か一つ話してやると、つぎからつぎへと精進して行くのは囘だけかな」
 先師が顔淵のことをこういわれた。
「惜しい人物だった。私は彼が進んでいるところは見たが、彼が止まっているところを見たことがなかったのだ」
 先師がいわれた。
「苗にはなつても、花が咲かないものがある。花は咲いても実を結ばないものがある」
 先師がいわれた。
「後輩をばかにしてはならない。彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。だが、四十歳にも五十歳にもなって注目をひくに足りないようでは、おそるるに足りない」
 先師がいわれた。
「正面切って道理を説かれると、誰でもその場はなるほどとうなずかざるを得ない。だが大事なのは過を改めることだ。やさしく婉曲に注意してもらうと、誰でも気持よくそれに耳を傾けることが出来る。だが、大事なのは、その真意のあるところをよく考えて見ることだ。いい気になって真意を考えて見ようともせず、表面だけ従って過を改めようとしない人は、私には全く手のつけようがない」
 先師がいわれた。
「忠実に信義を第一義として一切の言動を貫くがいい。安易に自分より知徳の劣った人と交って、いい気になるのは禁物だ。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ」
 先師がいわれた。
「大軍の主将でも、それを捕虜に出来ないことはない。しかし、一個の平凡人でも、その人の自由な意志を奪うことは出来ない」
 先師がいわれた。
「やぶれた綿入を着て、上等の毛皮を着ている者と並んでいても、平気でいられるのは由だろうか。詩経に、
『有るをねたみて
 こころやぶれず
 無きを恥じらい
 こころまどわず、
 よきかなや、
 よきかなや』
 とあるが、由の顔を見ると私にはこの詩が思い出される」
 子路は、先師にそういわれたのがよほど嬉しかったと見えて、それ以来、たえずこの詩を口ずさんでいた。すると、先師がいわれた。
「その程度のことが何で得意になるねうちがあろう」
 先師がいわれた。
「寒さに向うと、松柏の常盤木であることがよくわかる。ふだんはどの木も一様に青い色をしているが」
 先師がいわれた。
「知者には迷いがない。仁者には憂いがない。勇者にはおそれがない」
 先師がいわれた。
「共に学ぶことの出来る人はあろう。しかし、その人たちが共に道に精進することの出来る人であるとは限らない。共に道に精進することの出来る人はあろう。しかし、その人たちが、いざという時に確乎たる信念に立って行動を共にしうる人であるとは限らない。確乎たる信念に立って行動を共にしうる人はあろう。しかし、その人たちが、複雑な現実の諸問題に当面して、なお事を誤らないで共に進みうる人であるとは限らない」
 民謡にこういうのがある。
『ゆすらうめの木
 花咲きゃ招く、
 ひらりひらりと
 色よく招く。
 招きゃこの胸
 こがれるばかり、
 道が遠くて
 行かりゃせぬ』
 先師はこの民謡をきいていわれた。
「まだ思いようが足りないね。なあに、遠いことがあるものか」

第十 郷党

 孔先生は、自宅に引きこもっておいでの時には、単純素樸なご態度で、お話などまるでお出来にならないかのように見える。ところが、宗廟や朝廷にお出になると、いうべきことは堂々といわれる。ただ慎しみだけは決してお忘れにならない。
 朝廷で、下大夫とは、心置きなく率直に意見を交換され、上大夫に対しては、おだやかに、しかも正確に所信を述べられる。そして国君がお出ましの時には、恭敬の念をおのずから形にあらわされるが、それでいて、固くなられることがない。
 君公に召されて国賓の接待を仰せつけられると、顔色が変るほど緊張され、足がすくむほど慎まれる。そして同役の人々にあいさつされるため、左右を向いて拱いた手を上下されるが、その場合、衣の裾の前後がきちんと合っていて、寸分もみだれることがない。国賓の先導をなされる時には、小走りにお進みになり、両袖を鳥の翼のようにお張りになる。そして国賓退出の後には、必ず君公に復命していわれる。
「国賓はご満足のご様子でお帰りになりました」
 宮廷の門をおはいりになる時には、小腰をかがめ、身をちぢめて、恰も狭くて通れないところを通りぬけるかのような様子になられる。門の中央に立ちどまったり、敷居を踏んだりは決してなされない。門内の玉座の前を通られる時には、君いまさずとも、顔色をひきしめ、足をまげて進まれる。そして堂にいたるまでは、みだりに物をいわれない。堂に上る時には、両手をもって衣の裾をかかげ、小腰をかがめ、息を殺していられるかのように見える。君前を退いて階段を一段下ると、ほっとしたように顔色をやわらげて、にこやかになられる。階段をおりきって小走りなさる時には両袖を翼のようにお張りになる。そしてご自分の席におもどりになると、うやうやしくひかえて居られる。
 他国に使し、圭を捧げてその君主にまみえられる時には、小腰をかがめて進まれ、圭の重さにたえられないかのような物腰になられる。圭を捧げられた手をいくらか上下されるが、上っても人にあいさつする程度、下っても人に物を授ける程度で、極めて適度である。その顔色は引きしまり、恰も戦陣にのぞむかのようであり、足は小股に歩んで地に引きつけられているかのようである。贈物を捧げる礼にはなごやかな表情になられ、式が終って私的の礼となると、全く打ちとけた態度になられる。
 先生は衣服にもこまかな注意を払われる。紺色や淡紅色は喪服の飾りだから、それを他の場合の襟の飾りには用いられないし、また平常服に赤や紫のようなはでな色を用いられることもない。暑い時には単衣のかたびらを着られるが、下着なしに着られることはない。黒衣の下には黒羊の皮衣、白服の下には白鹿の皮衣、黄衣の下には狐の皮衣を用いられる。平常服の皮衣は温かいように長目に仕立てられるが、働きよいように右袂を短くされる。寝衣は必ず別にされ、長さは身長の一倍半である。家居には、狐や貉の毛皮を用いて暖かにされる。喪の時以外は玉その他の装身具をきちんと身につけていられる。官服・祭服のほかは簡略にして布地を節約される。黒羊の皮衣や黒の冠で弔問されることはない。退官後も、毎月朔日には礼服を着て参賀される。
 ものいみする時には清浄潔白な衣を着られる。その衣は布製である。また、ものいみ中は食物を変えられ、居室をうつされる。
 米は精白されたのを好まれ、膾は細切りを好まれる。飯のすえて味の変つたのや、魚のくずれたのや、肉の腐つたのは、決して口にされない。色のわるいもの、匂いのわるいものも口にされない。煮加減のよくないものも口にされない。季節はずれのものは口にされない。庖丁のつかい方が正しくないものは口にされない。ひたし汁がまちがっていれば口にされない。肉の料理がいろいろあっても、主食がたべられないほどには口にされない。ただ酒だけは分量をきめられない。しかし、取乱すほどには飲まれない。店で買った酒や乾肉は口にされない。生姜は残さないで食べられる。大食はされない。君公のお祭りに奉仕していただいた供物の肉は宵越しにならないうちに人にわかたれる。家の祭の肉は三日以内に処分し、三日を過ぎると口にされない。口中に食物を入れたままでは話をされない。寝てからは口をきかれない。粗飯や、野菜汁のようなものでも、食事前には必ず先ずお初穂を捧げられるが、その御様子は敬虔そのものである。
 座席のしき物がゆがんだり曲がったりしたままでは坐られない。
 村人と酒宴をされる時でも、老人が退席してからでないと退席されない。村人が鬼やらいに来ると、礼服をつけ、玄関に立ってそれをむかえられる。
 他邦におる知人に使者をやって訪問させる時には、再拝してその使者をおくられる。
 ある時魯の大夫季康子が先生に薬をおくられたことがあったが、先生は病中拝礼してこれをうけられた。そしていわれた。
「おいただきしたお薬が私の病気に適するかどうか、まだわかりませんので、今すぐには服用いたしません」
 先生の馬屋が焼けた。朝廷からお帰りになった先生は人にけがはなかったか、と問われたきり、馬のことは問われなかった。
 君公から料理を賜わると、必ず席を正し、先ず自らそれをいただかれ、あとを家人にわけられる。君公から生肉を賜わると、それを調理して、先ず先祖の霊に供えられる。君公から生きた動物を賜わると、必ずそれを飼っておかれる。君公に陪食を仰せつかると、君公が食前の祭をされている間に、必ず毒味をされる。病気の時、君公の見舞をうけると、東を枕にし、寝具に礼服をかけ、その上に束帯をおかれる。君公のお召しがあると、車馬の用意をまたないでお出かけになる。
 大廟に入られると、ことごとに係の人に質問される。
 先生は、友人が死んで遺骸の引取り手がないと、「私のうちで仮入棺をさせよう」といわれる。
 先生は、友人からの贈物だと、それが車馬のような高価なものでも、拝して受けられることはない。ただ拝して受けられるのは、祭の供物にした肉の場合だけである。
 寝るのに、死人のような寝方はされない。家居に形式ばった容儀は作られない。喪服の人にあわれると、その人がどんなに心やすい人であっても、必ずつつしんだ顔になられる。衣冠をつけた人や、盲人にあわれると、あらたまった場所でなくても、必ず礼儀正しい態度になられる。車上で喪服の人にあわれると、車の横木に手をかけて頭を下げられる。国家の地図や戸籍を運搬する役人に対しても同様である。手厚いもてなしを受けられる時には、心から思いがけもないという顔をして、立って礼をいわれる。ひどい雷鳴や烈しい嵐の時には、形を正して敬虔な態度になられる。
 車に乗られる時には、必ず正しく立って車の吊紐を握り、座席につかれる。車内では左右を見まわしたり、あわただしい口のきき方をしたり、手をあげて指ざしたりされることがない。
 人のさま あやしと見てか、
 鳥のむれ 空にとび立ち
 舞い舞いて 輪を描きしが、
 やがてまた 地にひそまりぬ。
 師はいえり「み山の橋の
 雌雉らは 時のよろしも、
 雌雉らは 時のよろしも」
 子路ききて 腕なでつつ、
 雌雉らを とらんと寄れば、
 雌雉らは 三たび鳴き交い
 舞い立ちぬ いずくともなく。
 孔子はある日門人たちと山間に杖をひいていた。橋の近くまで行くと、雉が人の気配におどろいて空にまい立つたが、やがて安全な時と所を見出して再び舞いおりた。孔子はこれを見て、人もあの鳥のように機に臨み変に応じて自然に「時のよろしき」を得た行動に出たいものだ、と嘆じた。子路は時の意味を全くちがつた意味に解し、師のために雉を捕獲しようとした。雉は、しかし、子路の自由にはならなかつた。それはすでにいずくともなく飛び去つていたのである。

第十一 先進

 先師がいわれた。
「礼楽の道において、昔の人は土くさい野人、今の人は磨きのかかった上流人、と、そう世間で考えるのも一応尤もだ。しかし、もし私がそのいずれか一つを選ぶとすると、私は昔の人の歩んだ道を選びたい」
 先師がいわれた。
「私について陳・蔡を旅した門人たちは、今はもう一人も門下にはいない」
 先師に従って陳・蔡におもむいた門人の中で、徳行にすぐれたのが顔渕・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言論に秀でたのが宰我・子夏、政治的才能できこえたのが冉有・季路、文学に長じたのが子游・子夏であった。
 先師がいわれた。
「囘はいっこう私を啓発してはくれない。私のいうことは、何の疑問もなく、すぐのみこんでしまうのだから」
 先師がいわれた。
「閔子騫は何という孝行者だろう。親兄弟が彼をいくらほめても、誰もそれを身びいきだと笑うものがない」
 南容は白圭の詩を日に三たびくりかえしていた。先師はそれを知られて、ご自分の兄の娘を彼にめあわされた。
「白玉のかけたるは
 みがきても見む、
 言の葉のかけたるは
 せんすべもなし」
 大夫の季康子がたずねた。
「お弟子のうちで、だれが学問の好きな人でしょう」
 先師がこたえられた。
「顔囘というものがおりまして、学問が好きでございましたが、不幸にして若くて死にました。もうこの世にはおりません」
 顔渕が死んだ。父の顔路は彼のために外棺を造ってやりたいと思ったが、貧しくて意に任せなかった。そこで先師に願った。
「先生のお車をいただけますれば、それを金にかえて、外棺を作ってやりたいと存じますが……」
 すると先師がいわれた。
「才能があろうとなかろうと、子の可愛ゆさは同じだ。私も子供の鯉が死んだ時には、せめて外棺ぐらい作ってやりたい気がしないでもなかった。しかしついに内棺だけですますことにしたのだ。私がその時、徒歩する覚悟にさえなれば、車を売って外棺を作ってやることも出来ただろう。しかし、私が敢てそれをしなかったのは、私も大夫の末席につらなっているので、職掌から、徒歩するわけに行かなかったからなのだ」
 顔渕が死んだ。先師がいわれた。
「ああ、天は私の希望を奪った。天は私の希望を奪った」
 顔渕が死んだ。先師はその霊前で声をあげて泣かれ、ほとんど取りみだされたほどの悲しみようであった。お供の門人が、あとで先師にいった。
「先生も今日はお取りみだしのようでしたね」
 先師がこたえられた。
「そうか。取りみだしていたかね。だが、あの人のためになげかないで、誰のためになげこう」
 顔渕が死んだ。門人たちが彼のために葬儀を盛大にしようともくろんだ。先師はそれを「いけない」といって、とめられたが、門人たちはかまわず盛大な葬儀をやってしまった。すると先師がいわれた。
「囘は私を父のように思っていてくれた。私も彼を自分の子供同様に葬ってやりたかったが、それが出来なかった。それは私のせいではない。みんなおまえたちのせいなのだ」
 季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。
「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう」
 季路がかさねてたずねた。
「では、死とは何でありましょうか」
 すると先師がこたえられた。
「まだ生が何であるかわからないのに、どうして死が何であるかがわかろう」
 閔先生は物やわらかな態度で、子路はごつごつした態度で、冉有と子貢とはしゃんとした態度で、先師のおそばにいた。先師はうれしそうにしていられたが、ふと顔をくもらせていわれた。
「由のような気性だと、畳の上では死ねないかも知れないね」
 魯の当局が長府を改築しようとした。それについて、閔子騫がいった。
「これまでの建物を修理したらいい。何も改築する必要はあるまい」
 先師はそれを伝えきいていわれた。
「あの男はめったに物をいわないが、いえば必ず図星にあたる」
 先師がいわれた。
「由の瑟は、私の家では弾いてもらいたくないな」
 それをきいた門人たちは、とかく子路を軽んずる風があった。すると、先師がいわれた。
「由はすでに堂にのぼっている。まだ室に入らないだけのことだ」
 子貢がたずねた。
「師と商とでは、どちらがまさっておりましようか」
 先師がこたえられた。
「師は行き過ぎている。商は行き足りない」
 子貢が更にたずねた。
「では、師の方がまさっているのでございましょうか」
 すると、先師がこたえられた。
「行き過ぎるのは行き足りないのと同じだ」
 先師がいわれた。
「季氏は周公以上に富んでいる。然るに、季氏の執事となった求は、主人の意を迎え、租税を苛酷に取り立てて、その富をふやしてやっている。彼はわれわれの仲間ではない。諸君は鼓を鳴らして彼を責めてもいいのだ」
 先師がいわれた。
「柴は愚かで、参はのろい。師はお上手で、由はがさつだ」
 先師がいわれた。
「囘の境地は先ず理想に近いだろう。財布が空になることはしばしばだが、いつも天命に安んじ、道を楽しんでいる。賜はまだ天命に安んじないで、財を作るのにかなり骨を折っているようだ。しかし、判断は正しいし、考えさえすれば、道にはずれるようなことはめったにないだろう」
 子張がたずねた。
「天性善良な人は、べつに学問などしなくても、自然に道に合するようになる、というようにも考えられますが、いかがでしょう」
 先師がこたえられた。
「どうなり危険のない道を進むことは出来るかも知れない。しかし、せっかく先人に開拓してもらったすばらしい道があるのに、その道を歩かないというのは惜しいことだ。それに、第一、そんな自己流では、所詮、道の奥義をつかむことは出来ないだろう」
 先師がいわれた。
「いうことがしっかりしているということだけで判断したのでは、君子であるか、にせ者であるか、わからない」
 子路がたずねた。
「善いことをきいたら、すぐ実行にうつすべきでしょうか」
 先師がこたえられた。
「父兄がおいでになるのに、おたずねもしないで、一存で実行するのはよろしくない」
 冉有がたずねた。
「善いことをきいたら、すぐ実行にうつすべきでしょうか」
 先師がこたえられた。
「すぐ実行するがよい」
 後日、公西華が先師にたずねた。
「先生は、善事をきいたらすぐ実行すべきかどうかについて、由がおたずねした時には、父兄がおいでになる、とおこたえになり、求がおたずねした時には、すぐ実行せよ、とおこたえになりました。私には、どうも先生のお気持がわかりません。いったい、どちらが先生のご真意なのですか」
 先師はこたえられた。
「求はとかく引込み思案だから、尻をたたいてやったし、由はとかく出過ぎるくせがあるから、おさえてやったのだ」
 先師が匡の難に遭われた時、顔渕は一行におくれて一時消息不明になっていたが、やっと追いつくと、先師がいわれた。
「私は、お前が死んだのではないかと、気が気でなかったよ」
 すると、顔渕はいった。
「先生がおいでになるのに、何で私が軽々しく死なれましょう」
 季子然がたずねた。
「仲由と冉求とは大臣といってもいい人物でございましょうね」
 先師がこたえられた。
「私はまた誰かもつと非凡な人物についてのおたずねかと思っておりましたが、由や求のことでございましたか。お言葉にありました大臣と申しますのは、道をもって君に仕え、道が行われなければ直ちに身を退くような人をいうのでありまして、由や求にはまだ及びもつかないことでございます。二人はせいぜい忠実に政務を執るぐらいの、いわば具臣とでも申すべき人物でございましょう」
 季子然がまたたずねた。
「では、二人は主命には絶対に従うでしょうね」
 すると、先師はこたえられた。
「彼等といえども、まさか君父を弑するような命令には従いますまい」
 子路が子羔を費の代官に推挙した。先師は、そのことをきいて子路にいわれた。
「そんなことをしたら、却ってあの青年を毒することになりはしないかね。実務につくには、まだ少し早や過ぎるように思うが」
 子路がいった。
「費には治むべき人民がありますし、祭るべき神々の社があります。子羔はそれで実地の生きた学問が出来ると存じます。何も机の上で本を読むだけが学問ではありますまい」
 すると、先師がいわれた。
「そういうことをいうから、私は、口達者な人間をにくむのだ!」
 子路と曾皙と冉有と公西華が先師のおそばにいたとき、先師がいわれた。
「私がお前たちよりいくらか先輩だからといって、何も遠慮することはない。今日は一つ存分に話しあって見よう。お前たちは、いつも、自分を認めて用いてくれる人がないといって、くやしがっているが、もし用いてくれる人があるとしたら、いったいどんな仕事がしたいのかね」
 すると、子路がいきなりこたえた。
「千乗の国が大国の間にはさまって圧迫をうけ、しかも戦争、饑饉といったような難局に陥った場合、私がその国政の任に当るとしましたら、三年ぐらいで、人民を勇気づけ、且つ彼等に正しい行動の基準を与えることが出来ます」
 先師は微笑された。そして、いわれた。
「求よ、お前はどうだ」
 冉求はこたえた。
「方六七十里、あるいは五六十里程度のところでしたら、三年ぐらいで、人民の生活を安定させる自信があります。尤も、礼楽といった方面のことになりますと、私はそのがらではありませんので、高徳の人の力にまたなければなりません」
 先師がいわれた。
「赤よ、お前はどうだ」
 公西華がこたえた。
「まだ十分の自信はありませんが、稽古かたがたやって見たいと思うことがあります。それは、宗廟のお祭りや、国際会談といったような場合に、礼装して補佐役ぐらいの任務につくことです」
 先師がいわれた。
「点よ、お前はどうだ」
 曾皙は、それまで、みんなのいうことに耳をかたむけながら、ぽつん、ぽつんと瑟を弾じていたが、先師にうながされると、がちゃりとそれをおいて立ちあがった。そしてこたえた。
「私の願いは、三君とはまるでちがっておりますので……」
 先師がいわれた。
「何、かまうことはない。みんなめいめいに自分の考えていることをいって見るまでのことだ」
 曾皙がこたえた。
「では申しますが、私は、晩春のいい季節に、新しく仕立てた春着を着て、青年五六人、少年六七人をひきつれ、沂水で身を清め、舞雩で一涼みしたあと、詩でも吟じながら帰って来たいと、まあそんなことを考えております」
 すると先師は深い感歎のため息をもらしていわれた。
「私も点の仲間になりたいものだ」
 間もなく三人は室を出て、曾皙だけがあとに残った。
 彼はたずねた。
「あの三人のいったことを、どうお考えになりますか」
 先師はこたえられた。
「みんなそれぞれに自分相応の抱負をのべたに過ぎないさ」
 曾皙はたずねた。
「では、なぜ先生は由をお笑いになりましたか」
 先師はこたえられた。
「国を治むるには礼を欠いではならないのに、由の言葉は高ぶり過ぎていたので、ついおかしくなったのだ」
 曾皙がいった。
「求は謙遜して一国の政治ということにはふれなかったようですが……」
 先師はこたえられた。
「方六七十里、或は五六十里といえば、小さいながらも国だ。やはり求も一国の政治のことを考えていたのだよ。謙遜はしていたが」
 曾皙はたずねた。
「赤のいったのは、いかがでしょう。ああいうことも一国の政治といえるでしょうか」
 先師はこたえられた。
「宗廟のことや国際会談の接伴というようなことは、諸侯にとっての重大事で、やはり一国の政治だよ。しかも赤はその適任者だ。謙遜して、補佐役ぐらいなところを引きうけたいといっていたが、彼が補佐役だったら、彼の上に長官になれる人はないだろう」

第十二 顔淵

 顔渕が仁の意義をたずねた。先師はこたえられた。
「己に克ち、私利私欲から解放されて、調和の大法則である礼に帰るのが仁である。上に立つ者が一たび意を決してこの道に徹底すれば、天下の人心もおのずから仁に帰向するであろう。仁の実現は先ず自らの力によるべきで、他にまつべきではない」
 顔渕がさらにたずねた。
「実践の細目について、お示しをお願いいたしたいと存じます」
 先師がこたえられた。
「非礼なことに眼をひかれないがいい。非礼なことに耳を傾けないがいい。非礼なことを口にしないがいい。非礼なことを行わぬがいい」
 顔渕がいった。
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます」
 仲弓が仁についてたずねた。先師はこたえられた。
「門を出て社会の人と交る時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であるがいい。人民に義務を課する場合には、天地宋廟の神々を祭る時のように、恐懼するがいい。自分が人にされたくないことを、人に対して行ってはならない。もしそれだけのことが出来たら、国に仕えても、家にあっても、平和を楽しむことが出来るだろう」
 仲弓がいった。
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます」
 司馬牛が仁についてたずねた。先師はこたえられた。
「仁者というものは、言いたいことがあっても、容易に口をひらかないものだ」
 司馬牛が更にたずねた。
「容易に口をひらかない、それだけのことが仁というものでございましょうか」
 すると先師がいわれた。
「仁者は実践のむずかしさをよく知っている。だから、言葉をつつしまないではいられないのだ」
 司馬牛が君子についてたずねた。先師はこたえられた。
「君子はくよくよしない。またびくびくしない」
 司馬牛が更にたずねた。
「くよくよしない、びくびくしない、というだけで君子といえるでしょうか」
 すると先師がいわれた。
「それは誰にも出来ることではない。自分を省みてやましくない人だけにしか出来ないことなのだ」
 司馬牛が沈んだ顔をして子夏にいった。
「誰にも兄弟があるのに、私だけにはない」
 すると、子夏が慰めていった。
「死生や富貴は天命だときいているが、兄弟に縁のうすいのも、やはり天命だろう。おたがいに道に志して、心につつしみを持ちつづけ、礼をもって社会生活の調和を保って行くならば、四海のいたるところに兄弟は見出せるではないか。道に志す者が何で肉親の兄弟に縁のうすいのをくよくよ思う必要があろう」
 子張が明察ということについてたずねた。先師はこたえられた。
「水がしみこむようにじりじりと人をそしる言葉や、傷口にさわるように、するどくうったえて来る言葉には、とかく人は動かされがちなものだが、そういう言葉にうかうかと乗らなくなったら、その人は明察だといえるだろう。いや、明察どころではない、達見の人といってもいいだろう」
 子貢が政治の要諦についてたずねた。先師はこたえられた。
「食糧をゆたかにして国庫の充実をはかること、軍備を完成すること、国民をして政治を信頼せしめること、この三つであろう」
 子貢が更にたずねた。
「その三つのうち、やむなくいずれか一つを断念しなければならないとしますと、先ずどれをやめたらよろしうございましょうか」
 先師はこたえられた。
「むろん軍備だ」
 子貢がさらにたずねた。
「あとの二つのうち、やむなくその一つを断念しなければならないとしますと?」
 先師はこたえられた。
「食糧だ。国庫が窮乏しては為政者が困るだろうが、昔から人間は早晩死ぬものときまっている。国民に信を失うぐらいなら、饑えて死ぬ方がいいのだ。信がなくては、政治の根本が立たないのだから」
 衛の大夫棘子成がいった。
「君子は精神的、本質的にすぐれておれば、それでいいので、外面的、形式的な磨きなどは、どうでもいいことだ」
 すると子貢がいった。
「あなたの君子論には、遺憾ながら、ご同意出来ません。あなたのような地位の方が、そういうことを仰しゃっては、取りかえしがつかないことになりますから、ご注意をお願いいたします。いったい本質と外形とは決して別々のものではなく、外形はやがて本質であり、本質はやがて外形なのであります。早い話が、虎や豹の皮が虎や豹の皮として価値あるためには、その美しい毛がなければならないのでありまして、もしその毛をぬき去って皮だけにしましたら、犬や羊の皮とほとんどえらぶところはありますまい。君子もその通りであります」
 魯の哀公が有若にたずねられた。
「今年は飢饉で国庫が窮乏しているが、何かよい案はないのか」
 有若がこたえていった。
「どうして十分の一税になさいませんか」
 哀公がいわれた。
「十分の二税を課しても足りないのに、十分の一税になど、どうして出来るものか」
 すると、有若がいった。
「百姓がもし足りていたら、君主として、あなたはいったい誰と共に不足をおなげきになりますか。百姓がもし足りていなかったら、君主として、あなたはいったい誰と共に足りているのをお喜びになりますか」
 子張がたずねた。
「徳を高くして、迷いを解くには、いかがいたしたものでございましょうか」
 先師がこたえられた。
「誠実と信義を旨とし、たゆみなく正義の実現に精進するがよい。それが徳を高くする道だ。迷いは愛憎の念にはじまる。愛してはその人の生命の永からんことを願い、憎んではその人の死の早からんことを願う。何というおそろしい迷いだろう。愛憎の超克、これが迷いを解く根本の道だ」
 斉の景公が先師に政治について問われた。先師はこたえていわれた。
「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの道をつくす、それだけのことでございます」
 景公がいわれた。
「善い言葉だ。なるほど君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくないとすれば、財政がどんなにゆたかであっても、自分は安んじて食うことは出来ないだろう」
 先師がいわれた。
「ただ一言でぴたりと判決を下し、当事者双方を信服させる力のあるのは、由だろうか」
 子路は元来、引きうけたことは直ちに実行にうつす人で、ふだんから人に信頼された人なのである。
 先師がいわれた。
「訴訟ごとの審理判決をやらされると、私もべつに人と変ったところはない。もし私に変ったところがあるとすれば、それは、訴訟ごとのない世の中にしたいと願っていることだ」
 子張が政治のやり方についてたずねた。先師はこたえられた。
「職務に専念して、辛抱づよく、真心をこめてやりさえすれば、それでいいのだ」
 先師がいわれた。
「ひろく典籍を学んで知見をゆたかにすると共に、実践の軌範を礼に求めてその知見にしめくくりをつけるがいい。それでこそ学問の道にそむかないといえるだろう」
 先師がいわれた。
「君子は人の美点を称揚し、助長するが、人の欠点にはふれまいとする。小人はその反対である」
 季康子が、政治について先師にたずねた。先師はこたえられた。
「政治の政は正であります。あなたが真先に立って正を行われるならば、誰が正しくないものがありましょう」
 季康子が国内に盗賊の多いのを心配して、先師にその対策をもとめた。すると先師はこたえられた。
「もしあなたさえ無欲におなりになれば、賞をあたえるといっても盗む者はありますまい」
 季康子が政治について先師にたずねていった。
「もし無道な者を殺して有道な者を保護するようにしたらいかがでしょう」
 先師がこたえられた。
「政治を行うのに人を殺す必要がどこにありましょう。あなたが、もし真に善をお望みであれば、人民はおのずから善に向います。為政者と人民との関係は風と草との関係のようなもので、風が吹けば草は必ずその方向になびくものでございます」
 子張がたずねた。
「学問に励みますからには、いわゆる達人といわれる境地にまで進みたいと思いますが、その達というのは、いったいどういうことなのでしょう」
 先師がいわれた。
「お前はどう思うかね、その達というのは」
 子張がこたえた。
「公生活においても、私生活においても、第一流の人だといわれるようになることだろうと存じますが」
 先師がいわれた。
「それは名聞というものだ。達ではない。達というのは、質実朴直で正義を愛し、人言にまどわされず、顔色に欺かれず、思慮深く、しかも謙遜で、公生活においても、私生活においても、内容的に充実することなのだ。名聞だけのことなら、実行の伴わない人でも、表面仁者らしく見せかけ、自らあやしみもせず、平然としてやっておれば、公私とも何とかごまかせることもあるだろう。しかしそんな無内容なことでは、断じて達人とはいえないのだ」
 樊遅が先師のお伴をして舞雩のほとりを散策していた。彼はたずねた。
「生意気なおたずねをするようですが、徳を高め、心の奥深くひそんでいる悪をのぞき、迷いを解くには、どうしたらよろしうございましょうか」
 先師がこたえられた。
「大事な問題だ。為すべき事をどしどし片付けて、損得をあとまわしにする。これが徳を高くする道ではないかね。自分の悪をせめて他人の悪をせめない。これが心に巣喰っている悪をのぞく道ではないかね。一時の腹立ちで自分を忘れ、災を近親にまで及ぼす。これが迷いというものではないかね」
 樊遅が仁の意義をたずねた。先師はこたえられた。
「人間を愛することだ」
 樊遅がさらに知の意義をたずねた。先師はこたえられた。
「人間を知ることだ」
 樊遅はまだよくのみこめないでいた。すると先師がいわれた。
「まっすぐな人を挙用して、まがった人の上におくと、まがった人も自然に正しくなるものだ」
 樊遅は室を出たが、子夏を見るとすぐたずねた。
「さきほど、私は先生にお会いして、知についておたずねしました。すると先生は、まっすぐな人を挙用して、まがった人の上におくと、まがった者も自然に正しくなる、といわれましたが、これはどういう意味でございましょうか」
 子夏がこたえた。
「含蓄の深いお言葉だ。昔、舜帝が天下を治めた時、衆人の中から賢人皐陶を挙げて宰相に任じたら、不仁者がすがたをひそめたのだ。また殷の湯王が天下を治めた時、衆人の中から賢人伊尹を挙げて宰相に任じたら、不仁者がすがたをひそめたのだ」
 子貢が交友の道をたずねた。先師はこたえられた。
「真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない」
 曾先生がいわれた。
「君子は、教養を中心にして友人と相会し、友情によって仁をたすけあうものである」

第十三 子路

 子路が政治についてたずねた。先師がこたえられた。
「人民の先に立ち、人民のために骨折るがいい」
 子路は物足りない気がして、いった。
「もう少しお話をお願いいたします」
 すると先師はいわれた。
「あきないでやることだ」
 仲弓が魯の大夫季氏の執事となった時に、政治について先師にたずねた。先師がいわれた。
「それぞれの係の役人を先に立てて働かせるがいい。小さな過失は大目に見るがいい。賢才を挙用することを忘れないがいい」
 仲弓がたずねた。
「賢才を挙用すると申しましても、もれなくそれを見出すことはむずかしいと存じますが」
 先師がいわれた。
「それは心配ない。お前の知っている賢才を挙用さえすれば、お前の知らない賢才は、人がすててはおかないだろう」
 子路がいった。
「もし衛の君が先生をおむかえして政治を委ねられることになりましたら、先生は真先に何をなさいましょうか」
 先師がこたえられた。
「先ず名分を正そう」
 すると、子路がいった。
「それだから先生は迂遠だと申すのです。この火急の場合に、名分など正しておれるものではありません」
 先師がいわれた。
「お前は何というはしたない男だろう。君子は自分の知らないことについては、だまってひかえているものだ。そもそも名分が正しくないと論策が道をはずれる。論策が道をはずれると実務があがらない。実務があがらないと礼楽が興らない。礼楽が興らないと刑罰が適正でない。刑罰が適正でないと人民は不安で手足の置き場にも迷うようになる。だから君子は必ず先ず名分を正すのだ。いったい君子というものは、名分の立たないことを口にすべきでなく、口にしたことは必ずそれを実行にうつす自信がなければならない。あやふやな根拠に立って、うかつな口をきくような人は、断じて君子とはいえないのだ」
 樊遅が殻物の作り方を教えていただきたいと先師に願った。先師はこたえられた。
「私は老農には及ばないよ」
 樊遅は、すると、野菜の作り方を教えていただきたいと願った。先師はこたえられた。
「私は老園芸家には及ばないよ」
 樊遅が引退がると、先師はいわれた。
「樊須は人物が小さい。上に立つ者が礼を好めば、人民が上を敬しないことはない。上に立つ者が義を好めば、人民が上に服しないことはない。上に立つ者が信を好めば、人民が不人情になることはない。そして、そうなれば、人民はその徳を慕い、四方の国々から子供をおぶって集って来るであろう。為政者に農業技術の知識など何の必要もないことだ」
 先師がいわれた。
「詩経にある三百篇の詩を暗んずることが出来ても、政治をゆだねられて満足にその任務が果せず、諸侯の国に使して自分の責任において応対が出来ないというようでは、何のためにたくさんの詩を暗んじているのかわからない」
 先師がいわれた。
「上に立つ者が身を正しくすれば、命令を下さないでも道が行われるし、身を正しくしなければ、どんなに厳しい命令を下しても、人民はついて来るものではない」
 先師がいわれた。
「魯の政治と衛の政治とはやはり兄弟だな」
 衛の公子荊のことについて、先師がいわれた。
「あの人は家庭経済をよく心得て、奢らなかった人だ。はじめ型ばかり家財があった時に、どうなり間にあいそうだといい、少し家財がふえると、どうやらこれで十分だといい、足りないものがないようになると、いささか華美になりすぎたといった」
 先師が衛に行かれた時、冉有がお供をして馬車を御していた。先師はいわれた。
「この国の人口は大したものだ」
 すると冉有がたずねた。
「これだけ人が集れば結構でございますが、この上は、どういうことに力を注ぐべきでございましょう」
 先師がこたえられた。
「経済生活をゆたかにしてやりたいね」
 冉有がまたたずねた。
「もし経済生活がゆたかになりましたら、その次には?」
 先師がこたえられた。
「文教を盛んにすることだ」
 先師がいわれた。
「もし私を用いて政治をやらせてくれる国があったら、一年で一通りのことは出来るし、三年もあったら申し分のないところまで行けるのだが」
 先師がいわれた。
「古語に、単なる善人に過ぎないような人でも、もしその人が百年間政治の任にあたることが出来たら、人間の残忍性を矯め、死刑のような極刑を用いないでもすむようになる、とあるが、まことにその通りだ」
 先師がいわれた。
「たとえ真の王者が現われても、少くも一世代を経なければ、民をあまねく仁に化することは出来ない」
 先師がいわれた。
「もし自分の身を正しくすることが出来るなら、政治の局に当っても何の困難があろう。もし自分の身を正しくすることが出来ないなら、どうして人を正しくすることが出来よう」
 冉先生が役所から退出して来られると、先師がたずねられた。
「どうしてこんなにおそくなったのかね」
 冉先生がこたえられた。
「政治上の相談がひまどりまして」
 先師がいわれた。
「いや、そうではあるまい。季氏一家の私事ではなかったかね。もし政治向きのことであれば私にも相談があるはずだ」
 魯の定公がたずねられた。
「一言で国を興隆させるような言葉はないものかな」
 先師がこたえられた。
「いったい言葉というものは、仰せのようにこれぞという的確なききめのあるものではありません。しかし、世の諺に、君となるのも難しい、臣となるのもたやすくはない、ということがございます。もし、君となるのがむずかしいという言葉が支配者に十分のみこめましたら、その言葉こそ一言で国を興隆させる言葉にもなろうかと存じます」
 定公がまたたずねられた。
「一言で国を亡ぼすというような言葉はないものかな」
 先師がこたえられた。
「いったい言葉というものは、仰せのように、これぞという的確なききめのあるものではありません。しかし、世の諺に、君となっても何の楽みもないが、ただ何をいってもさからう者がないのが楽みだ、ということがございます。もし善いことをいってさからう者がないというのなら、まことに結構でございますが、万一にも、悪いことをいってもさからう者がないという意味でございますと、それこそ一言で国を亡ばす言葉にもなろうかと存じます」
 葉公が政道についてたずねた。先師はこたえられた。
「領内の人民が悦服すれば、領外の者も慕って参りましょう」
 子夏が莒父の代官となった時、政道についてたずねた。先師はこたえられた。
「功をいそいではならない。小利にとらわれてはならない。功をいそぐと手落ちがある。小利にとらわれると大事を成しとげることが出来ない」
 葉公が得意らしく先師に話した。
「私の地方に、感心な正直者がおりまして、その男の父が、どこからか羊が迷いこんで来たのを、そのまま自分のものにしていましたところ、かくさずそのあかしを立てたのでございます」
 すると、先師がいわれた。
「私の地方の正直者は、それとは全く趣がちがっております。父は子のためにその罪をかくしてやりますし、子は父のためにその罪をかくしてやるのでございます。私は、そういうところにこそ、人間のほんとうの正直さというものがあるのではないかと存じます」
 樊遅が仁についてたずねた。先師がこたえられた。
「休息している時にもだらけた風をしない、執務の時には仕事に魂をぶちこむ、人と交っては誠実を旨とする。この三つのことを、時処の如何をとわず、たとえば野蛮国に行っても忘れないようにするがいい」
 子貢がたずねた。
「士たる者の資格についておうかがいいたしたいと存じます」
 先師がこたえられた。
「自分の行動について恥を知り責任を負い、使節となって外国に赴いたら君命を辱しめない、というほどの人であったら、士といえるだろう」
 子貢がまたたずねた。
「もう一段さがったところで申しますと?」
 先師がこたえられた。
「一家親族から孝行者だとほめられ、土地の人から兄弟の情誼に厚いと評判されるような人だろう」
 子貢がさらにたずねた。
「更にもう一段さがったところで申しますと?」
 先師がこたえられた。
「口に出したことは必ず実行する、やり出したことはあくまでやりとげる、といったような人は、石ころ見たようにこちこちしていて、融通がきかないところがあり、人物の型は小さいが、それでも第三流ぐらいのねうちはあるだろう」
 子貢が最後にたずねた。
「現在政務に当っている人たちをご覧になって、どうお考えになりますか」
 すると先師はこたえられた。
「だめ、だめ。桝ではかるような小人物ばかりで、まるで問題にはならない」
 先師がいわれた。
「願わくば中道を歩む人と事を共にしたいが、それが出来なければ、狂熱狷介な人を求めたい。狂熱的な人は志が高くて進取的であり、狷介な人は節操が固くて断じて不善を為さないからだ」
 先師がいわれた。
「南国の人の諺に、人間の移り気だけには、祈祷師のお祈りも役に立たないし、医者の薬もきかない、ということがあるが、名言だ。また、易経に、徳がぐらついていると、いつかは、だれかに恥辱というお土産をいただくだろう、という言葉があるが、これもまちがいのないことだ」
 先師がいわれた。
「君子は人と仲よく交るが、ぐるにはならない。小人はぐるにはなるが、ほんとうに仲よくはならない」
 子貢がたずねた。
「その土地の人みんなにほめられるような人でございましたら、りっぱな人といえましょうか」
 先師がこたえられた。
「必ずしもそうとはいえまい」
 子貢がまたたずねた。
「では、土地の人みんなに憎まれるような人が却ってりっぱな人でございましょうか」
 先師がこたえられた。
「そうはいえまい。土地の善人にほめられ、悪人ににくまれるような人が、一番りっぱな人なのだ」
 先師がいわれた。
「君子は仕えやすいが、きげんはとりにくい。きげんをとろうとしても、こちらが道にかなっていないといい顔はしない。しかし人を使う時には、それぞれの器量に応じて使ってくれ、無理な要求をしないから仕えやすい。小人は、これに反して、仕えにくいがきげんはとりやすい。こちらが道にかなわなくても、きげんをとろうと思えばわけなく出来る。しかし人を使う時には、すべてに完全を求めて無理な要求をするから仕えにくい」
 先師がいわれた。
「君子は泰然としている。しかし高ぶらない。小人は高ぶる。しかし泰然たるところがない」
 先師がいわれた。
「剛健な意志、毅然たる節操、表裏のない質朴さ、粉飾のない訥々たる言葉、こうした資質は、最高の徳たる仁に近い徳である」
 子路がたずねた。
「どういう人物を士というのでございましょう」
 先師がこたえられた。
「こまやかな情愛、かゆいところに手のとどくような親切心、春風のようにやわらかで温かい物ごし、そうしたものが士にはそなわっていなければならない。とりわけ朋友に対しては情をこまやかにして、懇切に交るがいいし、兄弟に対しては顔色をやわらげることに気をつけるがいい」
 先師がいわれた。
「有徳の人が人民を教化して七年になったら、はじめて戦争に使ってもよいようになるだろう」
 先師がいわれた。
「教化訓練の行き届かない人民を率いて戦にのぞむのは、民を棄てるのと同じである」

第十四 憲問

 憲が恥についてたずねた。先師がこたえられた。
「国に道が行われている時、仕えて祿を食むのは恥ずべきことではない。しかし、国に道が行われていないのに、その祿を食むのは恥ずべきである」
 憲がたずねた。
「優越心、自慢、怨恨、食欲、こうしたものを抑制することが出来ましたら、仁といえましょうか」
 先師がこたえられた。
「それが出来たらえらいものだが、それだけで仁といえるかどうかは問題だ」
 先師がいわれた。
「士たる者が、安楽な家庭生活のみを恋しがるようでは、士の名に値しない」
 先師がいわれた。
「国に道が行われている時には、信ずるところを大胆に言い、大胆に行うべきである。国に道が行われていない時には、行いは無論大胆でなければならないが、言葉は多少ひかえて、婉曲であるがいい」
 先師がいわれた。
「有徳の人は必ずよいことをいう。しかしよいことをいう人、必ずしも有徳の人ではない。仁者には必ず勇気がある。しかし勇者必ずしも仁者ではない」
 南宮适が先師にたずねていった。
「羿は弓の名手であり。奡は大船をゆり動かすほどの大力でありましたが、いずれも非業の最期をとげました。しかるに、禹と稷とは自ら耕作に従事して、ついに天子の位にのぼりました。これについての先生の御感想を承りたいと存じます」
 先師はこたえられなかった。しかし、南宮羿がその場を去ると、いわれた。
「あのような人こそ、まことの君子だ。あのような人こそ、まことに徳を尊ぶ人だ」
 先師がいわれた。
「道に志す君子にも不仁なものがないとはいえない。しかし道を求めない小人はすべて不仁だ」
 先師がいわれた。
「人を愛するからには、その人を鍛えないでいられようか。人に忠実であるからには、その人を善導しないでいられようか」
 先師がいわれた。
「鄭の国では、外交文書を作製するには、裨諶が草稿をつくり、世叔がその内容を検討し、外交官の子羽がその文章に筆を入れ、更に東里の子産がそれに最後の磨きをかけている」
 ある人が鄭の大夫子産の人物についてたずねた。先師がこたえられた。
「めぐみ深い人だ」
 楚の大夫子西の人物についてたずねた。先師がこたえられた。
「あの人か、あの人は」
 斉の大夫管仲の人物についてたずねた。先師がこたえられた。
「人物だね。あの人は大夫伯氏の罪をただして、その領地であった駢邑三百里を没収したが、当の伯氏は、その後やっとかゆをすするほどの困りかたであったにもかかわらず、死ぬまであの人に対して怨みごとをいわなかったというのだから、大したものだ」
 先師がいわれた。
「貧乏でも怨みがましくならないということは、めったな人に出来ることではない。それに比べると、富んでおごらないということはたやすいことだ」
 先師がいわれた。
「孟公綽は、たとい晉の趙家や魏家のような大家であっても、その家老になったらりっぱなものだろう。しかし、滕や薜のような小国でも、その大夫にはなれない人物だ」
 子路が「成人」の資格についてたずねた。先師がいわれた。
「臧武仲の知、公綽の無欲、卞荘子の勇気、冉求の多芸をかね、更に礼楽をもつて磨きをかけたら、成人といってもいいだろう」
 さらにいわれた。
「しかし、今のような乱世では、そこまでは望めまい。利得の問題では道義を考え、国家の危急に臨んでは身命をなげうち、古い約束や、平常の誓いを忘れずに実行する、というような人であったら、今ではまずまず成人といえるだろう」
 先師が公叔文子のことを公明賈にたずねていわれた。
「ほんとうでしょうか、あの方は、言わず笑わず取らず、というような方だときいていますが?」
 公明賈がこたえていった。
「それはお話しした人の言いすぎでございましょう。あの方は、言うべき時になってはじめて口をひらかれますので、人があの方を口数の多い方だとは思わないのです。あの方は心から楽しい時にだけ笑われますので、お笑いになるのが鼻につかないのです。また、あの方は、筋道の立つ贈物だけをお取りになりますので、お取りになっても人が気にしないのです」
 すると先師がいわれた。
「なるほど、その通りでしょう。うわさなどあてになりませんね」
 先師がいわれた。
「臧武仲は、罪を得て魯を去る時、その領地であった防にふみとどまり、自分の後嗣を立てることを魯君に求めたのだ。彼が武力に訴えて国君を強要する意志はなかったといっても、私はそれを信ずるわけには行かない」
 先師がいわれた。
「晉の文公は謀略を好んで正道によらなかった人であり、斉の桓公は正道によって謀略を用いなかった人である」
 子路がいった。
「斉の桓公が公子糾を殺した時、召忽は公子糾に殉じて自殺しましたのに、管仲は生き永らえて却って桓公の政をたすけました。こういう人は仁者とはいえないのではありますまいか」
 先師がこたえられた。
「桓公が武力を用いないで諸侯の聯盟に成功し、夷狄の難から中国を救い得たのは、全く管仲の力だ。それを思うと、管仲ほどの仁者はめったにあるものではない。めったにあるものではない」
 子貢がいった。
「管仲は仁者とはいえますまい。桓公が公子糾を殺した時、糾に殉じて死ぬことが出来ず、しかも、桓公に仕えてその政を輔佐したのではありませんか」
 先師がこたえられた。
「管仲が桓公を輔佐して諸侯聯盟の覇者たらしめ、天下を統一安定したればこそ、人民は今日にいたるまでその恩恵に浴しているのだ。もし管仲がいなかったとしたら、われわれも今頃は夷狄の風俗に従って髪をふりみだし、着物を左前に着ていることだろう。管仲ほどの人が、小さな義理人情にこだわり、どぶの中で首をくくって名もなく死んで行くような、匹夫匹婦のまねごとをすると思ったら、それは見当ちがいではないかね」
 公叔文子の家臣であった僎は、大夫となって文子と同列で朝廷に出仕した。先師はそのことを知っていわれた。
「公叔文子は文の名に値する人だ」
 先師が、衛の霊公は無道な君主だと非難された。すると大夫の季康子がいった。
「仰しゃるとおりだとしますと、どうして国が亡びないのでしょう」
 先師がいわれた。
「仲叔圉が外交に任じ、祝駝が内政を司り、王孫賈が国防の責を負っています。これだけの人物がそろっていて、どうして国が亡びましょう」
 先師がいわれた。
「恥かしげもなく偉らそうなことをいうようでは、実行はあやしいものである」
 斉の大夫陳成子がその君簡公を弑した。先師は斎戒沐浴して身をきよめ、参内して哀公に言上された。
「斉の陳恆が君を弑しました。ご討伐なさるがよろしいと存じます」
 哀公がいわれた。
「先ずあの三人に話して見るがいい」
 先師は退出して歎息しながらいわれた。
「自分も大夫の末席につらなっている以上、默っては居れないほどの重大事なので、申上げたのだが、ご決断がつかないと見えて、あの三人に話せと仰せられる。いたしかたもない」
 先師はそういって三家に相談に行かれた。三人は賛成しなかった。先師はまた歎息していわれた。
「自分も大夫の末席につらなっている以上、默っては居れないほどの重大事なので、いったのだが、三人とも気にもかからぬと見える。何ということだろう」
 子路が君に仕える道をたずねた。先師はいわれた。
「いつわりのないのが先ず第一だ。そして場合によっては面を犯して直言するがいい」
 先師がいわれた。
「君子は上へ上へと進む。小人は下へ下へと進む」
 先師がいわれた。
「昔の人は自分を伸ばすために学問をした。今の人は人に見せるために学問をしている」
 蘧伯玉が先師に使者をやった。先師は使者を座につかせてたずねられた。
「御主人はこのごろどんなことをしておすごしでございますか」
 使者がこたえた。
「主人は何とかして過ちを少くしたいと苦心していますが、なかなかそうは参らないようでございます」
 使者が帰ったあとで、先師がいわれた。
「見事な使者だ、見事な使者だ」
 先師がいわれた。
「その地位にいなくて、みだりにその職務のことに口出しすべきではない」
 曾先生がいわれた。
「君子は自分の本分をこえたことは考えないものである」
 先師がいわれた。
「君子は言葉が過ぎるのを恥じる。しかし実践には過ぎるほど努力する」
 先師がいわれた。
「君子の道には三つの面があるが、私はまだいずれの面でも、達していない。三つの面というのは、仁者は憂えない、知者は惑わない、勇者はおそれない、ということだ」
 子貢がいった。
「それは先生がご自分で仰しゃることで、ご謙遜だと思います」
 子貢がある時、しきりに人物の品定めをやっていた。すると先師はいわれた。
「賜はもうすいぶん賢い男になったらしい。私にはまだ他人の批評などやっているひまはないのだが」
 先師がいわれた。
「人が自分を認めてくれないのを気にかけることはない。自分にそれだけの能力がないのを気にかけるがいい」
 先師がいわれた。
「だまされはしないかと邪推したり、疑われはしないかと取越苦労をしたりしないで、虚心に相手に接しながら、しかも相手の本心がわかるようであれば、賢者といえようか」
 微生畝が先師にいった。
「丘、お前は何でそんなに、いつまでもあくせくとうろつきまわっているのだ。そんなふうで、おべんちゃらばかりいって歩いているのではないかね」
 先師がいわれた。
「いや、べつにおしゃべりをしたいわけではありませんが、小さく固まって独りよがりになるのがいやなものですから」
 先師がいわれた。
「名馬が名馬といわれるのは、その力のためではなく調教が行き届いて性質がよくなっているからだ」
 ある人がたずねた。
「怨みに報いるに徳をもってしたら、いかがでございましょう」
 先師がこたえられた。
「それでは徳に報いるのには、何をもってしたらいいかね。怨みには正しさをもって報いるがいいし、徳には徳をもって報いるがいい」
 先師が歎息していわれた。
「ああ、とうとう私は人に知られないで世を終りそうだ」
 子貢がおどろいていった。
「どうして先生のような大徳の方が世に知られないというようなことが、あり得ましょう」
 すると先師は、しばらく沈默したあとでいわれた。
「私は天を怨もうとも、人をとがめようとも思わぬ。私はただ自分の信ずるところに従って、低いところから学びはじめ、一歩一歩と高いところにのぼって来たのだ。私の心は天だけが知っている」
 公伯寮が子路のことを季孫にざん言した。子服景伯が先師にその話をして、いった。
「季孫はむろん公伯寮の言にまどわされていますので、心配でございます。しかし、私の力で、何とかして子路の潔白を証明し、公伯寮の屍をさらしてお目にかけますから、ご安心下さい」
 すると先師はいわれた。
「道が行われるのも天命です。道がすたれるのも天命です。公伯寮ごときに天命が動かせるものでもありますまいから、あまりご心配なさらない方がよいと思います」
 先師がいわれた。
「賢者がその身を清くする場合が四つある。世の中全体に道が行われなければ、世をさけて隠棲する。ある地方に道が行われなければ、その地方をさけて、他の地方に行く。君主の自分に対する信任がうすらぎ、それが色に出たら、その色をさけて隠退する。君主の言葉と自分の言葉とが対立すれば、その言葉をさけて隠退する」
 先師がいわれた。
「立ちあがったものが、七人だ」
 子路が石門に宿って、翌朝関所を通ろうとすると、門番がたずねた。
「どちらからおいでですかな」
 子路がこたえた。
「孔家のものです」
 すると門番がいった。
「ああ、あの、だめなことがわかっていながら、思いきりわるくまだやっている人のうちの方ですかい」
 先師が衛に滞在中、ある日磬をうって楽しんでいられた。その時、もつこをかついで門前を通りがかった男が、いった。
「ふふうむ。ちょっと意味ありげな磬のうちかただな」
 しばらくして、彼はまたいった。
「だが、品がない。執念深い音だ。やっぱりまだ未練があるらしいな。認めてもらえなけりゃあ、ひっこむだけのことだのに」
 それから彼は歌をうたい出した。
「わしに添いたきゃ、渡っておじゃれ、
 水が深かけりゃ腰までぬれて、
 浅けりゃ、ちょいと小褄をとって。
 ほれなきゃ、そなたの気のままよ」
 それをきいていた門人の一人が、先師にそのことを話すと、先師はいわれた。
「思いきりのいい男だ。だが、思いきってよければ、何もむずかしいことはない。大事なのは、一身を清くすることではなくて、天下と共に清くなることなのだ」
 子張がいった。
「書経に、高宗は服喪中の三年間口をきかなかった、とありますが、どういう意味でございましょうか」
 先師がこたえられた。
「それは高宗にかぎったことではない。古人はみなそうだったのだ。君主がおかくれになると、三年の間は、百官はそれぞれの職務をまとめて、すべて首相の指図に従うことになっていたので、あとに立たれた君主は口をきく必要がなかったのだ」
 先師がいわれた。
「為政者が礼を好むと、人民は快く義務をつくすようになる」
 子路が君子の道をたずねた。先師がこたえられた。
「大事に大事に細心な注意をはらって、自分の身を修めるがいい」
 子路がまたたずねた。
「それだけのことでございますか」
 先師がこたえられた。
「自分の身を修めて人を安んずるのだ」
 子路がさらにたずねた。
「それだけのことでございますか」
 先師がこたえられた。
「自分の身を修めて天下万民を安んずるのだ。天下万民を安んずるのは、堯舜のような聖天子も心をなやまされたことなのだ」
 原壤が、両膝をだき、うずくまったままで、先師が近づかれるのを待っていた。先師はいわれた。
「お前は、子供のころには目上の人に対する道をわきまえず、大人になっても何一つよいことをせず、その年になってまだ生をむさぼっているが、お前のような人間こそ世の中の賊だ」
 そういって、杖で彼の脛をたたかれた。
 闕という村の出身だった一少年が、先師の家で取次役をさせられていた。そこである人が、先師にたずねた。
「あの少年もよほど学問が上達したと見えますね」
 先師はこたえられた。
「いやそうではありません。私はあの少年が成人の坐る席に坐っていたのを見ましたし、また先輩と肩をならべて歩くのを見ました。あの少年は学問の上達を求めているのでなく、早く成人になりたがっているのです。それで実は取次でもやらして、仕込んで見たいと存じまして……」

第十五 衛霊公

 衛の霊公が戦陣のことについて先師に質問した。先師がこたえていわれた。
「私は祭具の使い方については学んだことがありますが、軍隊の使い方については学んだことがございません」
 翌日先師はついに衛を去られた。
 陳においでの時に、食糧攻めにあわれた。お伴の門人たちは、すっかり弱りきって、起きあがることも出来ないほどであった。子路が憤慨して先師にいった。
「君子にも窮するということがありましょうか」
 すると、先師がいわれた。
「君子もむろん窮することがある。しかし、窮しても取りみださない。小人は窮すると、すぐに取りみだすのだ」
 先師がいわれた。
「賜よ、お前は私を博学多識な人だと思つているのか」
 子貢がこたえた。
「むろん、さようでございます。ちがっていましょうか」
 先師がいわれた。
「ちがっている。私はただ一つのことで貫いているのだ」
 先師がいわれた。
「由よ、ほんとうに徳というものが腹にはいっているものは少いものだね」
 先師がいわれた。
「無為にして天下を治めることが出来たのは、舜であろう。舜は何をしたか。ただ恭しい態度で、正しく南面していただけである」
 子張が、どうしたら自分の意志が社会に受けいれられ、実現されるか、ということについてたずねた。先師がこたえられた。
「言葉が忠信であり、行いが篤敬であるならば、野蛮国においても思い通りのことが行われるであろうし、もしそうでなければ、自分の郷里においても何一つ行われるものではない。忠信篤敬の四字が、立っている時には眼のまえにちらつき、車に腰をおろしている時には、ながえの先の横木に、ぶらさがって見えるというぐらいに、片時もそれを忘れないようになって、はじめて自分の意志を社会に実現することが出来るのだ」
 子張はこの四字を紳に書きつけて守りとした。
 先師がいわれた。
「史魚は何という真直な人だろう。国に道があっても矢のように真直であり、国に道がなくても矢のように真直だ」
 またいわれた。
「蘧伯玉は何という見事な君子だろう。国に道があれば出でて仕え、国に道がなければただちに才能を巻いて懐におさめる」
 先師がいわれた。
「共に語るに足る人に会いながら、その人と語らなければ人を失うことになる。共に語るに足りない人に会って、みだりにその人と語れば言葉を失うことになる。知者は人を失わないし、また言葉を失わない」
 先師がいわれた。
「志士仁人は生を求めて仁を害することがない。却って身を殺して仁を成しとげることがあるものだ」
 子貢が仁を行う道についてたずねた。先師がこたえられた。
「大工はよい仕事をやろうと思うと、必ず先ず自分の道具を鋭利にする。同様に、仁を行うには、先ず自分の身を磨かなければならない。それには、どこの国に住まおうと、その国の賢大夫を選んでこれに仕え、その国の仁徳ある士を選んでこれを友とするがよい」
 顔渕が治国の道をたずねた。先師がいわれた。
「夏の暦法を用い、殷の輅に乗り、周の冕をかぶるがいい。舞楽は韶がすぐれている。鄭の音楽を禁じ、佞人を遠けることを忘れてはならない。鄭の音楽はみだらで、佞人は危険だからな」
 先師がいわれた。
「遠い将来のことを考えない人には、必ず間近かに心配ごとが待っている」
 先師がいわれた。
「なさけないことだ。私はまだ色事を好むほど徳を好むものを見たことがない」
 先師がいわれた。
「臧文仲は位をぬすむ人というべきであろう。柳下恵の賢人たることを知っていながら、彼を推挙して共に朝廷に立とうとはしなかったのだ」
 先師がいわれた。
「自分を責めることにきびしくて、他人を責めることがゆるやかであれば、人に怨まれることはないものだ」
 先師がいわれた。
「どうしたらいいか、どうしたらいいか、と常に自らに問わないような人は、私もどうしたらいいかわからない」
 先師がいわれた。
「朝から晩まで多勢集っていながら、話が道義にふれず、小ざかしいことをやって得意になっているようでは、見込なしだ」
 先師がいわれた。
「君子は道義を自分の本質とし、礼にかなってそれを実行にうつし、へり下ってそれを言葉にあらわし、誠意を貫いてその社会的実現を期する。それでこそ君子だ」
 先師がいわれた。
「君子は自分に能力のないのを苦にする。しかし、人が自分を知ってくれないのを苦にしないものだ」
 先師がいわれた。
「君子といえども、死後になっても自分の名がたたえられないのは苦痛である」
 先師がいわれた。
「君子は何事も自己の責任に帰し、小人は他人の責任に帰する」
 先師がいわれた。
「君子はほこりをもって高く己を持するが、争いはしない。また社会的にひろく人と交るが、党派的にはならない」
 先師がいわれた。
「君子は、言うことがりっぱだからといって人を挙用しないし、人がだめだからといって、その人の善い言葉をすてはしない」
 子貢がたずねた。
「ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか」
 先師がこたえられた。
「それは恕だろうかな。自分にされたくないことを人に対して行わない、というのがそれだ」
 先師がいわれた。
「私は、成心をもって人に対しない。だから誰をほめ、誰をそしるということはない。もし私が人をほめることがあつたら、それは、その人の実際を見た上でのことだ。現代の民衆にしても、過去三代の純良な民衆と同じく、その本性においては、まっすぐな道を歩むものなのだから、ほめるにしても、そしるにしても、実際を見ないでめったなことがいえるものではない」
 先師がいわれた。
「私の子供のころには、まだ人間が正直で、いいことが行われていた。たとえば、史官が疑わしい点があると、調査研究がすむまでは、そこを空白にしておくとか、馬の所有者は気持よく人に貸して乗らせるとかいうことだ。ところが、今はそういうことがまるでなくなってしまった」
 先師がいわれた。
「口上手は道義をやぶり、小事に対する忍耐心の欠乏は大計画をやぶるものだ」
 先師がいわれた。
「多数の人が悪いといっても、必ず自分でその真相をしらべてみるがいい。多数の人がいいといっても、必ず自分でその真相をしらべてみるがいい」
 先師がいわれた。
「人が道を大きくするのであって、道が人を大きくするのではない」
 先師がいわれた。
「過って改めないのを、過ちというのだ」
 先師がいわれた。
「私は、かつて、一日中飯も食わず、一晩中眠りもしないで思索にふけったことがあった。しかし何の得るところもなかった。やはり学ぶにこしたことはない」
 先師がいわれた。
「君子が学問をするのは道のためであって食うためではない。食うことを目的として田を耕す人でも、時には饑えることもあるし、食うことを目的としないで学問をしていても、祿がおのずからそれに伴って来ることもある。とにかく、君子にとっては、食うことは問題ではない。君子はただ道の修まらないのを憂えて、決して食の乏しきを憂えないのだ」
 先師がいわれた。
「知見においては為政者としての地位を得るに十分でも、仁徳を以てそれを守ることが出来なければ、得た地位は必ず失われる。知見において十分であり、仁徳をもって地位を守り得ても、荘重な態度で人民に臨まなければ、人民は敬服しない。知見において十分であり、仁徳をもって地位を守ることが出来、荘重な態度で民に臨んでも、人民を動かすのに礼をもってしなければ、まだ真に善政であるとはいえない」
 先師がいわれた。
「君子は、こまごましたことをやらせて見ても、その人物の価値はわからない。しかし大事をまかせることが出来る。小人には大事はまかされない。しかし、こまごましたことをやらせて見ると、使いどころがあるものである」
 先師がいわれた。
「人民にとって、仁は水や火よりも大切なものである。私は水や火にとびこんで死んだものを見たことがあるが、まだ仁にとびこんで死んだものを見たことがない」
 先師がいわれた。
「仁の道にかけては、先生にも譲る必要はない」
 先師がいわれた。
「君子は正しいことに心変りがしない。是も非もなく心変りがしないのではない」
 先師がいわれた。
「君に仕えるには、恭敬の念をもって職務に精励し、食祿は第二とすべきである」
 先師がいわれた。
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない」
 先師がいわれた。
「志す道がちがっている人とは、お互いに助けあわぬがいい」
 先師がいわれた。
「言葉というものは、十分に意志が通じさえすればそれでいい」
 めくらの音楽師の冕がたずねて来た。階段のところまで来ると、先師はいわれた。
「階段だよ」
 やがて冕が座席の近くまで来ると、先師はいわれた。
「さあ、ここにおかけなさい」
 みんなが座席につくと、先師は、誰はここ、誰はそこ、というふうに、一々みんなの坐っている場所を冕に告げられた。
 冕が帰ったあとで子張がたずねた。
「あんなふうに、一々こまかにおっしゃるのが音楽師に対する作法でしょうか」
 先師がこたえられた。
「そうだ。相手はめくらなのだから、むろんあのぐらいなことはいってやらなければ」

第十六 季氏

 季氏が魯の保護国顓叟を討伐しようとした。季氏に仕えていた冉有と季路とが先師にまみえていった。
「季氏が顓叟に対して事を起そうとしています」
 先師がいわれた。
「求よ、もしそうだとしたら、それはお前がわるいのではないのかね。いったい顓叟という国は、昔、周王が東蒙山の近くに領地を与えてその山の祭祀をお命じになった国なのだ。それに、今では魯の支配下にはいっていて、その領主は明らかに魯の臣下だ。同じく魯の臣下たる季氏が勝手に討伐など出来る国ではないだろう」
 冉有がいった。
「主人がやりたがって困るのです。私共は二人とも決して賛成しているわけではありませんが……」
 先師がいわれた。
「求よ、昔、周任という人は『力のかぎりをつくして任務にあたり、任務が果せなければその地位を退け。盲人がつまずいた時に支えてやることが出来ず、ころんだ時にたすけ起すことが出来なければ、手引きはあっても無いに等しい』といっているが、全くその通りだ。お前のいうことは、いかにもなさけない。もしも虎や野牛が檻から逃げ出したとしたら、それはいったい誰の責任だ。また亀甲や宝石が箱の中でこわれていたとしたら、それはいったい誰の罪だ。よく考えて見るがいい」
 冉有がいった。
「仰しゃることはごもっともですが、しかし現在の顓叟は、要害堅固で、季氏の領地の費にも近いところでございますし、今のうちに始末をしておきませんと、将来、子孫の心配の種になりそうにも思えますので……」
 先師がいわれた。
「求、君子というものは、自分の本心を率直にいわないで、あれこれと言葉をかざるのをにくむものだ。私はこういうことを聞いたことがある。諸侯や大夫たる者はその領内の人民の貧しいのを憂えず、富の不平均になるのを憂え、人民の少いのを憂えず、人心の安定しないのを憂えるというのだ。私の考えるところでは、富が平均すれば貧しいこともなく、人心がやわらげば人民がへることもない。そして人心が安定すれば国が傾くこともないだろう。かようなわけだから、もし遠い土地の人民が帰服しなければ、文教徳化をさかんにして自然に慕って来るようにするがいいし、すでに帰服して来たものは安んじて生を楽むようにしてやるがいい。今、きいていると、由も求も、季氏を輔佐していながら、遠い土地の人民を帰服させることが出来ず、国内を四分五裂させて、その収拾がつかず、しかも領内に兵を動かして動乱をひきおこそうと策謀している。もっての外だ。私は、季孫の憂いの種は、実は顓叟にはなくて垣根のうちにあると思うがどうだ」
 先師がいわれた。
「天下に道が行われている時には、文武の政令がすべて天子から出る。天下に道が行われていない時には、文武の政令が諸侯から出る。政令が諸侯から出るようになれば、おそらくその政権が十代とつづくことはまれであろう。政令が大夫から出るようになれば、五代とつづくことはまれであろう。更に陪臣が国政の実権を握るようになれば、三代とつづくことはまれであろう。天下に道が行われておれば、政権が大夫の手にうつるようなことはない。天下に道が行われておれば、庶民が政治を論議することもない」
 先師がいわれた。
「国庫の収入が魯の公室をはなれてから五代になる。政権が大夫の手に握られてから四代になる。従って三桓の子孫が衰微して来たのも当然である」
 先師がいわれた。
「益友に三種、損友に三種ある。直言する人、信実な人、多識な人、これが益友である。形式家、盲従者、口上手、これが損友である」
 先師がいわれた。
「有益な楽しみが三つ、有害な楽しみが三つある。礼楽の節度を楽しみ、人の善をいうことを楽しみ、賢友の多いのを楽しむのは有益である。驕慢を楽しみ、遊隋を楽しみ、酒色を楽しむのは有害である」
 先師がいわれた。
「君子のそばにいて犯しやすい過ちが三つある。まだ口をきくべき時でないのに口をきく、これは軽はずみというものだ。口をきくべき時に口をきかない、これはかくすというものだ。顔色を見、気持を察することなしに口をきく、これは向う見ずというものだ」
 先師がいわれた。
「君子に戒むべきことが三つある。青年時代の血気がまだ定まらないころに戒むべきは性慾である。壮年時代の血気が最も盛んなころに戒むべきは闘争である。老年時代の血気がおとろえるころに戒むべきは利慾である」
 先師がいわれた。
「君子には三つの畏れがある。天命を畏れ、長上を畏れ、聖人の言葉を畏れるのである。小人は天命を感知しないのでそれを畏れない。そして長上に猥れ、聖人の言葉をあなどる」
 先師がいわれた。
「生れながらにして自然に知るものは上の人である。学んで容易に知るものはその次である。才足らず苦しんで学ぶものは、またその次である。才足らざるに苦しんで学ぶことさえしないもの、これが下の人で、いかんともしがたい」
 先師がいわれた。
「君子には九つの思いがある。見ることは明らかでありたいと思い、聴くことは聰くありたいと思い、顔色は温和でありたいと思い、態度は恭しくありたいと思い、言語は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑いは問いただしたいと思い、怒れば後難のおそれあるを思い、利得を見ては正義を思うのである」
 先師がいわれた。
「善を見ては、取りにがすのを恐れるようにそれを追求し、悪を見ては、熱湯に手を入れるのを恐れるようにそれを避ける。そういう言葉を私はきいたことがあるし、また現にそういう人物を見たこともある。しかし、世に用いられないでも初一念を貫き、正義の実現に精進して、道の徹底を期する、というようなことは、言葉ではきいたことがあるが、まだ実際にそういう人を見たことがない」
 先師がいわれた。
「斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで饑死したが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。詩経に、
『黄金も玉も何かせん
 心ばえこそ尊けれ』
 とあるが、そういうことをいったものであろう」
 陳亢が伯魚にたずねた。
「先生もあなたにだけは、何か私共に対するとはちがった特別のご教訓をなさることでしょう」
 伯魚がこたえた。
「これまでには、まだこれといって特別の教えをうけたことはありません。ただ、いつでしたか、父が独りで立っていましたおり、私がいそいで庭先を通り過ぎようとしますと、私を呼びとめて、詩を学んだか、とたずねました。私が、まだとこたえますと、詩を学ばない人間は話相手にならぬ、と叱りました。それ以来私も詩を学ぶことにしています。またある日、父が一人で立っていました時、私がいそいで庭先を通り過ぎようとしますと、私をよびとめて、礼を学んだか、とたずねました。私が、まだとこたえますと、礼を学ばない人間は世に立つ資格がない、と叱りました。それ以来、私も礼を学ぶことにしています。私が父に特別に何かいわれたことがあるとすると、まずこの二つぐらいのことでしょう」
 陳亢は、伯魚とわかれたあとで、よろこんでいった。
「今日は一つのことをたずねて、三つのことをきくことが出来た。詩を学ぶことの大切さをきき、礼を学ぶことの大切さをきき、そして、君子は自分の子をあまやかすことがないということをきいたのだ」
 国君の妻は、国君が呼ぶ時には「夫人」といい、夫人自ら呼ぶ時には「小童」といい、国内の人が呼ぶ時には「君夫人」といい、外国に対しては「寡小君」といい、外国の人が呼ぶ時にはやはり「君夫人」という。

第十七 陽貨

 魯の大夫陽貨が先師を引見しようとしたが、先師は応じられなかった。そこで陽貨は先師に豚肉の進物をした。先師は陽貨の留守を見はからってお礼に行かれた。ところが、運わるく、その帰り途で陽貨に出遇われた。すると陽貨はいった。
「まあ、私のうちにおいでなさい。話があるから」
 先師が仕方なしについて行かれると、陽貨がいった。
「胸中に宝を抱きながら、国家の混迷を傍観している人を、果して仁者といえましょうか」
 先師がこたえられた。
「いえません」
 陽貨がいった。
「国事に挺身したい希望を持ちながら、しばしばその機会を失う人を、果して知者といえましょうか」
 先師がこたえられた。
「いえません」
 陽貨がいった。
「月日は流れ、歳は人を待ってはくれないものですが……」
 先師がこたえられた。
「よくわかりました。いずれそのうちには、私もご奉公することにいたしましょう」
 先師がいわれた。
「人間の生れつきは似たものである。しかししつけによる差は大きい」
 先師がいわれた。
「最上位の賢者と、最下位の愚者だけは、永久に変らない」
 先師が武城に行かれた時、町の家々から弦歌の声がきこえていた。先師はにこにこしながらいわれた。
「雞を料理するのに、牛刀を使う必要もないだろうにな」
 武城は門人子游がその代官をつとめ、礼楽を盛んにして人民を善導し、治績をあげていた小さな町であった。
 で、子游は先師にそういわれると、けげんそうな顔をしていった。
「以前私は、先生に、上に立つ者が道を学ぶとよく人を愛し、民衆が道を学ぶとよく治まる、とうけたまわりましたが……」
 すると、先師は、お伴をしていたほかの門人たちをかえりみて、いわれた。
「今、偃がいったことはほんとうだ。私のさっきいったのは、じょうだんだよ」
 公山弗擾が、費に立てこもって叛いたとき、先師を招いた。先師はその招きに応じて行こうとされた。子路はそれをにがにがしく思って、いった。
「おいでになってはいけません。人もあろうに、何でわざわざ公山氏などのところへおいでになるのです」
 先師がいわれた。
「いやしくも私を招くのだ。いいかげんな考えからではあるまい。私は、私を用いるものがあったら、第二の周をこの東方に建設しないではおかないつもりだ」
 子張が仁について先師にたずねた。先師はいわれた。
「五つの徳で天下を治めることが出来たら、仁といえるだろう」
 子張はその五つの徳についての説明を求めた。すると、先師はいわれた。
「恭・寛・信・敏・恵の五つがそれだ。身も心もうやうやしければ人に侮られない。他に対して寛大であれば衆望があつまる。人と交って信実であれば人が信頼する。仕事に敏活であれば功績があがる。恵み深ければ人を働かせることが出来る」
 仏肸が先師を招いた。先師はその招きに応じて行こうとされた。すると子路がいった。
「かつて私は先生に、君子は、自分から進んで不善を行うような人間の仲間入りはしないものだ、と承ったことがあります。仏肸は、中牟に占拠して反乱をおこしている人間ではありませんか。先生が、そういう人間の招きに応じようとなさるのは、いったいどういうわけでございます」
 先師がいわれた。
「さよう。たしかに私はそういうことをいったことがある。だが、諺にも、ほんとうに堅いものは、磨っても磨ってもうすくはならない、ほんとうに白いものは、そめてもそめても黒くはならない、というではないか。私にもそのぐらいの自信はあるのだ。私をあの匏のような人間だと思ってもらっては困る。食用にもならず、ただぶらりとぶらさがっているあの匏のような人間どうして私がそんな無用な人間でいられよう」
 先師がいわれた。
「由よ、お前は六つの善言に六つの暗い影があるということをきいたことがあるか」
 子路がこたえた。
「まだきいたことがございません」
 先師がいわれた。
「では、おかけなさい。話してあげよう。仁を好んで学問を好まないと、見さかいのない痴愚の愛に陥りがちなものだ。知を好んで学問を好まないと、筋道の立たない妄想を逞しうしがちなものだ。信を好んで学問を好まないと、小信にこだわって自他の幸福を害しがちなものだ。直を好んで学問を好まないと、杓子定規になり、無情非礼を敢てしがちなものだ。勇を好んで学問を好まないと、血気にはやって秩序を紊しがちなものだ。剛を好んで学問を好まないと、理非をわきまえない狂気じみた自己主張をやりがちなものだ」
 先師が門人たちにいわれた。
「お前たちはどうして詩経を学ぼうとしないのか。詩は人間の精神にいい刺戟を与えてくれる。人間に人生を見る眼を与えてくれる。人とともに生きるこころを培ってくれる。また、怨み心を美しく表現する技術をさえ教えてくれる。詩が真に味わえてこそ、近くは父母に仕え、遠くは君に仕えることも出来るのだ。しかも、われわれは、詩をよむことによって、鳥獣草本のような自然界のあらゆるものに親しむことまで出来るのではないか」
 先師が子息の伯魚にいわれた。
「お前は周南・召南の詩を研究して見たのか。この二つの詩がわからなければ、人間も土塀に鼻つきつけて立っているようなものだがな」
 先師がいわれた。
「礼だ、礼だ、と大さわぎしているが、礼とはいったい儀式用の玉や帛のことだろうか。楽だ、楽だ、と大さわぎしているが、楽とはいったい鐘や太鼓のことだろうか」
 先師がいわれた。
「見かけだけはいかにも厳めしくして、内心ぐにゃぐにゃしている人は、これを下層民の場合でいうと、壁をぶち破ったり、塀を乗りこえたりしながら、びくびくしている泥棒のようなものであろうか」
 先師がいわれた。
「郷党のほめられ者の中には、得てして、道義の賊がいるものだ」
 先師がいわれた。
「途中でよいことをきいて、早速それを途中で人にいつて聞かせる。それでは徳を棄てるようなものだ」
 先師がいわれた。
「心事の陋劣な人とは、到底いっしょに君に仕えることが出来ない。そういう人は、まだ地位を得ないうちは、それを得たいとあせるし、一旦それを得ると、それを失うまいとあせるし、そして、それを失うまいとあせり出すと、今度はどんなことでもしかねないのだから」
 先師がいわれた。
「昔の人に憂うべきことが三つあつたが、今はその憂うべきことを通りこして、全く救いがたいものになっているらしい。昔の理想狂の弊は、自由奔放で小事にこだわらない程度であった。然るに今の理想狂は徒らに放縦である。昔、ほこりをもって己を高くした人々の弊は、廉直に過ぎて寄りつきにくい程度であった。然るに今のそうした人々は強情でひねくれている。昔の愚か者は正直であった。然るに今の愚か者はずるくて安心が出来ない」
 先師がいわれた。
「ご機嫌とりにろくな人間はいない」
 先師がいわれた。
「私は紫色が朱色を圧して流行しているのを憎む。鄭声が雅楽を乱しているのを憎む。そして、口上手な人が国家を危くしているのを最も憎む」
 先師がいわれた。
「私はもう沈默したいと思っている」
 子貢がいった。
「先生がもし沈默なさいましたら、私共門人は何をよりどころにして、道をひろめましょう」
 先師がいわれた。
「天を見るがいい。天に何の言葉があるのか。しかも四季の変化は整然と行われ、万物はたゆみなく生育している。天に何の言葉があるのか」
 孺悲が先師に面会を求めた。先師は病気だといって会われなかったが、取次の人がそれをつたえるために部屋を出ると、すぐ瑟を取りあげ、歌をうたって、わざと孺悲にそれがきこえるようにされた。
 宰我がたずねた。
「父母の喪は三年となっていますが、一年でも結構長過ぎるぐらいではありますまいか。もし君子が三年間も礼を修めなかったら、礼はすたれてしまいましょう。もし三年間も楽に遠ざかったら、楽がくずれてしまいましょう。一年たてば、殻物も古いのは食いつくされて新しいのが出てまいりますし、火を擦り出す木にしましても、四季それぞれの木が一巡して、またもとにもどるわけです。それを思いますと、父母の喪にしましても、一年で十分ではありますまいか」
 先師がいわれた。
「お前は、一年たてば、うまい飯をたべ、美しい着物を着ても気がおちつかないというようなことはないのか」
 宰我がいった。
「かくべつそういうこともございません」
 先師がいわれた。
「そうか、お前が何ともなければ、好きなようにするがよかろう。だが、いったい君子というものは、喪中にはご馳走を食べてもうまくないし、音楽をきいてもたのしくないし、また、どんなところにいても気がおちつかないものなのだ。だからこそ、一年で喪を切りあげるようなことをしないのだ。もしお前が、何ともなければ、私は強いてそれをいけないとはいうまい」
 それで宰我はひきさがった。すると先師はほかの門人たちにいわれた。
「どうも予は不人情な男だ。人間の子は生れて三年たってやっと父母の懐をはなれる。だから、三年間父母の喪に服するのは天下の定例になっている。いったい予は三年間の父母の愛をうけなかったとでもいうのだろうか」
 先師がいわれた。
「たらふく食ってばかりいて、終日ぼんやりしている人間ほど始末におえない人間はない。雙六とか碁とかいうものもあるではないか。そんなつまらん遊びごとでも、何もしないよりは、まだしも取柄があるよ」
 子路がたずねた。
「君子は勇をたっとぶものでございますか」
 先師がこたえられた。
「君子にとって何より大事なのは義だ。上に立つ人に勇があって義がないと、反乱を起し、下に居る人民に勇があって義がないと盗みをする」
 子貢がたずねた。
「君子も人を憎むということがありましょうか」
 先師がこたえられた。
「それはあるとも。他人の悪事をいい立てるものを憎むのだ。下位にいて、上をそしる者を憎むのだ。勇のみあって礼のないものを憎むのだ。思いきりがよくて道理にもとるものを憎むのだ」
 それから、子貢にたずねられた。
「お前にも憎む人があるのか」
 子貢がこたえた。
「先まわりして物事をさぐっておいて、知ったかぶりする者を憎みます。傲慢不遜を勇気だと心得ている者を憎みます。人の秘密をあばいて正直だと思っている者を憎みます」
 先師がいわれた。
「女子と小人だけには取扱いに苦労をする。近づけるとのさばるし、遠ざけると怨むのだから」
 先師がいわれた。
「人間が四十歳にもなって人にそしられるようでは、もう先が見えている」

第十八 微子

 微子・箕子・比干は共に殷の紂王の無道を諌めた。微子は諌めてきかれず、去って隠棲した。箕子は諌めて獄に投ぜられ、奴隷となった。比干は極諌して死刑に処せられ、胸を剖かれた。先師はこの三人をたたえていわれた。
「殷に三人の仁者があった」
 柳下恵が法官となつて三たびその職を免ぜられた。ある人が彼にいった。
「どうしてこんな国にぐずぐずしておいでです。さっさとお去りになったらいいでしょうのに」
 柳下恵がこたえた。
「どこの国に行ったところで、正道をふんでご奉公をしようとすれば、三度ぐらいの免職は覚悟しなければなりますまい。免職がおそろしさに正道をまげてご奉公するぐらいなら、何も父母の国をすてて、わざわざ他国に行く必要もなかろうではありませんか」
 斉の景公が、先師を採用するにつき、その待遇のことでいった。
「季氏ほどに待遇してやることは、とても力に及ばないので、季氏と孟氏との間ぐらいのところにしたいと思う」
 しかし、あとになって、またいった。
「自分も、もうこの老年になっては、孔子のような遠大な理想をもっている人を用いても仕方があるまい」
 先師はそのことをもれ聞かれて、斉の国を去られた。
 斉が、魯の君臣を誘惑してその政治をみだすために、美人の歌舞団をおくった。魯の権臣季桓子が喜んでこれをうけ、君臣共にこれに見ほれて、三日間朝政を廃するにいたったので、先師はついに職を辞して魯を去られた。
 楚の国で、狂人をよそっていた接輿という人が、先師の車のそばを通り過ぎながら、歌った。
「鳳凰よ、鳳凰よ、
 神通力は、どうしたか。
 すんだことなら仕方がない。
 これから先はしっかりせい。
 国の舵取りゃあぶないぞ。
 やめたらどうぞい、やめたらぞい」
 先師は車をおりて、接輿と話をしようとされた。しかし、接輿が大急ぎでどこかにかくれてしまったので、お話しになることが出来なかった。
 長沮と桀溺の二人が、ならんで畑を耕していた。巡歴中の先師がそこを通りがかられ、子路に命じて渡場をたずねさせられた。すると長沮が子路にいった。
「あの人は誰ですかい。あの車の上で今手綱をにぎっているのは」
 子路がこたえた。
「孔丘です」
 長沮がたずねた。
「ああ、あの魯の孔丘ですかい」
 子路がこたえた。
「そうです」
 長沮がいった。
「じゃあ、渡場ぐらいはもう知っていそうなものじゃ。年がら年中方々うろつきまわっている人だもの」
 そこで子路は今度は桀溺にたずねた。すると桀溺がいった。
「お前さんはいったい誰かね」
 子路がこたえた。
「仲由と申すものです」
 桀溺がいった。
「ほう。すると、魯の孔丘のお弟子じゃな」
 子路がこたえた。
「そうです」
 桀溺がいった。
「今の世の中は、どうせ泥水の洪水見たようなものじゃ。お前さんの師匠は、いったい誰を力にこの時勢を変えようとなさるのかな。お前さんもお前さんじゃ。そんな人にいつまでもついてまわって、どうなさるおつもりじゃ。この人間もいけない、あの人間もいけないと、人間の選り好みばかりしている人についてまわるよりか、いっそ、さっぱりと世の中に見切りをつけて、のんきな渡世をしている人のまねをして見たら、どうだね」
 桀溺はそういって、まいた種にせっせと土をかぶせ、それっきり見向きもしなかった。
 子路も仕方なしに、先師のところに帰って行って、その旨を話した。すると先師はさびしそうにしていわれた。
「世をのがれるといったところで、まさか鳥や獣の仲間入りも出来まい。人間と生れたからには、人間と共に生きて行くよりほかはあるまいではないか。私にいわせると、濁った世の中であればこそ、世の中のために苦しんで見たいのだ。もし正しい道が行われている世の中なら、私も、こんなに世の中のために苦労はしないのだ」
 子路が先師の随行をしていて、道におくれた。たまたま一老人が杖に草籠をひっかけてかついでいるのに出あったので、彼はたずねた。
「あなたは私の先生をお見かけではありませんでしたか」
 老人がこたえた。
「なに? 先生だって? お見かけするところ、その手足では百姓仕事をなさるようにも見えず、五穀の見分けもつかない方のようじゃが、それでいったいお前さんの先生というのはどんな人じゃな」
 老人はそれだけいって杖を地につき立てて、草をかりはじめた。
 子路は手を胸に組んで敬意を表し、そのそばにじっと立っていた。
 すると老人は何と思ったか、子路を自分の家に案内して一泊させ、鶏をしめたり、黍飯をたいたりして彼をもてなしたうえに、自分の二人の息子を彼にひきあわせ、ていねいにあいさつさせた。
 翌日、子路は先師に追いついて、その話をした。すると先師はいわれた。
「隠者だろう」
 そして、子路に、もう一度引きかえして会って来るように命じられた。
 子路が行って見ると、老人はもういなかつた。子路は仕方なしに、二人の息子にこういって先師の心をつたえた。
「出でて仕える心がないのは義とはいえませぬ。もし、長幼の序が大切でありますなら、君臣の義をすてていいという道理はありますまい。道が行われないからといって自分の一身をいさぎよくすれば、大義をみだすことになります。君子が出でて仕えるのは、君臣の義を行うためでありまして、道が行われないこともあるということは、むろん覚悟のまえであります」
 古来、野の賢者として名高いのは、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連などであるが、先師はいわれた。
「あくまでも志を曲げず、身を辱かしめなかったのは、伯夷と叔斉であろう」
 柳下恵と少連とについては、つぎのようにいわれた。
「志をまげ、身を辱しめて仕えたこともあったが、いうことはあくまでも人倫の道にかなっていたし、行動にも筋道が立っていた。二人はその点だけで、十分立派だ」
 虞仲と夷逸については、つぎのようにいわれた。
「隠遁して無遠慮な放言ばかりしていたが、しかし一身を守ることは清かったし、世を捨てたのは時宜に適した道だったと言えるだろう」
 先師は、それにつけ加えて更にいわれた。
「私は、しかし、こうした人たちとはちがう。私は、はじめから隠遁がいいとかわるいとかを決めてかかるような、片意地な態度には出たくないのだ」
 楽長の摯は斉に去った。亜飯の干は楚に去った。三飯の繚は蔡に去った。四飯の欠は秦に去った。鼓師の方叔は河内に逃げた。振り鼓師の武は漢に逃げた。楽官補佐の陽と、磬打ち役の襄とは海をこえて島に逃げた。
 周公が魯公にいわれた。
「君主たるものは親族を見捨てるものではない。大臣をして信任のうすきをかこたせてはならぬ。古くからの臣下は、重大な理由がなければ棄てないがいい。一人の人に何もかも備わるのを求めてはならぬ」
 周に八人の人物がいた。伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随・季騧がそれである。

第十九 子張

 子張がいった。
「士たるものは、公けの任務において危難に直面したら生命を投げ出してそれに当るべきだ。利得に恵まれる機会があったら、それをうけることが正義に合するかどうかを思うべきだ。そして祭事には敬虔の念があふれ、喪には悲哀の情があふれるならば、士と称するに足るであろう」
 子張がいった。
「何か一つの徳に固まって、ひろく衆徳を修めることが出来ず、正道を信じても、それが腹の底からのものでなければ、そんな人は居ても大して有りがたくないし、いなくても大して惜しくはない」
 子夏の門人が人と交る道を子張にたずねた。子張がいった。
「子夏は何といったのか」
 子夏の門人がこたえた。
「為めになる人と交り、為めにならない人とは交るな、といわれました」
 子張がいった。
「それは私の学んだこととはちがっている。君子は賢者を尊ぶと共に衆人を包容し、善人を称讃すると共に無能の人をあわれむ、と私はきいている。自分がもし大賢であるなら、誰と交ろうと平気だし、自分がもし賢くなければ、こちらが相手をきらうまえに、相手がこちらをきらうだろう」
 子夏がいった。
「一技一芸の小さな道にも、それぞれに意義はある。しかし、そうした道で遠大な人生の理想を行おうとすると、おそらく行き詰りが来るであろう。だから君子はそういうことに専念しないのである」
 子夏がいった。
「日ごとに自分のまだ知らないことを知り、月ごとに、すでに知り得たことを忘れないようにつとめる。そういう心がけであってこそ、真に学問を好むといえるだろう」
 子夏がいった。
「ひろく学んで見聞をゆたかにし、理想を追求して一心不乱になり、疑問が生じたら切実に師友の教えを求め、すべてを自分の実践上の事として工夫するならば、最高の徳たる仁は自然にその中から発展するであろう」
 子夏がいった。
「もろもろの技術家はその職場においてそれぞれの仕事を完成し、君子は学問において人間の道を極める」
 子夏がいった。
「小人が過ちを犯すと、必ずそれをかざるものである」
 子夏がいった。
「君子に接すると三つの変化が見られる。遠くから望むと儼然としており、近づいて見ると柔和な顔をしており、その言葉をきくと確乎として犯しがたい」
 子夏がいった。
「君子は人民の信頼を得て然る後に彼等を公けのことに働かせる。信頼を得ないで彼等を働かせると、彼等は自分たちが苦しめられているように思うだろう。また、君子は君主の信任を得て然る後に君主を諌める。まだ信任されないうちに諌めると、君主は自分がそしられているように思うだろう」
 子夏がいった。
「大徳が軌道をはずれていなければ、小徳は多少の出入りがあっても、さしてとがむべきではない」
 子游がいった。
「子夏の門下の青年たちは、掃除や、応対や、いろんな作法などはなかなかうまくやっている。しかし、そんなことはそもそも末だ。根本になることは何も教えられていないようだが、いったいどうしたというのだろう」
 子夏がそれをきいていった。
「ああ、言游もとんでもないまちがったことをいったものだ。君子が人を導くには、何が重要だから先に教えるとか、何が重要でないから当分ほっておくとか、一律にきめてかかるべきではない。たとえば草木を育てるようなもので、その種類に応じて、取りあつかいがちがっていなければならないのだ。君子が人を導くのに、無理があっていいものだろうか。道の本末がすべて身についているのは、ただ聖人だけで、一般の人々には、その末になることさえまだ身についていないのだから、むしろそういうことから手をつけるのが順序ではあるまいか」
 子夏がいった。
「仕えて餘力があったら学問にはげむがいい。学問をして餘力があったら、出でて仕えるがいい」
 子游がいった。
「喪にあたっては、哀悼の至情をつくせばそれでいいので、形式をかざる必要はない」
 子游がいった。
「友人の張は、困難なことをやりとげる男ではあるが、まだ仁者だとはいえない」
 曾先生がいわれた。
「堂々たるものだ、張の態度は。だが、相たすけて仁の道を歩める人ではない」
 曾先生がいわれた。
「私は先生がこんなことをいわれたのをきいたことがある。人間が自己の全部を出しきってしまうということは、先ずないものだが、せめて親の死を悲しむ時ぐらいは、そうありたいものだ、と」
 曾先生がいわれた。
「私は先生がこんなことをいわれたのを聞いたことがある。孟荘子の親孝行も、ほかのことはまねが出来るが、父の死後、その重臣とその政治方式とを改めなかった点は、容易にまねの出来ないことだ、と」
 孟氏が陽膚を司法官に任用した。陽膚は曾先生に司法官としての心得をたずねた。曾先生はいわれた。
「政道がみだれ、民心が離散してすでに久しいものだ。だから人民の罪状をつかんでも、なるだけあわれみを、かけてやるがいい。罪状をつかんだのを手柄に思って喜ぶようなことがあってはならないのだ」
 子貢がいった。
「殷の紂王の悪行も実際はさほどではなかったらしい。しかし、今では罪悪の溜池ででもあったかのようにいわれている。だから君子は道徳的低地に居って、天下の衆悪が一身に帰せられるのを悪むのだ」
 子貢がいった。
「君子の過ちは日蝕や月蝕のようなものである。過ちがあると、すべての人がそのかげりを見るし、過ちを改めると、すべての人がその光を仰ぐのだから」
 衛の公孫朝が子貢にたずねていった。
「仲尼は誰について道を学ばれたのか」
 子貢がこたえた。
「文王・武王の道は地におちてほろびたわけではありません。それはまだ人々の間に生かされています。賢者はその大道を心得ていますし、不賢者もその小道ぐらいは心得ていますので、万人に道が残っているともいえるのです。かようなわけでございますから、私共の先生にとっては、すべての人が師でありまして、これといってきまった師があるわけではありません」
 叔孫武叔が朝廷で諸大夫に向っていった。
「子貢は仲尼以上の人物だと思います」
 子服景伯がそのことを子貢に話した。すると子貢はいった。
「とんでもないことです。これを宮殿の塀にたとえて見ますと、私の塀は肩ぐらいの高さで、人はその上から建物や室内のよさがのぞけますが、先生の塀は何丈という高さですから、門をさがしあてて中にはいって見ないと、御霊屋の美しさや、文武百官の盛んな装おいを見ることが出来ないのです。しかし、考えて見ると、その門をさがしあてるのが容易ではありませんので、大夫がそんなふうにいわれるのも、或は無理のないことかも知れません」
 叔孫武叔が仲尼をそしった。すると子貢がいった。
「そういうことは仰しゃらない方がよろしいかと存じます。仲尼先生は傷つけようとしても傷つけることの出来ない方です。ほかの賢者は丘陵のようなもので、ふみこえることも出来ましょうが、仲尼先生は日月のように高くかかっていられて、ふみこえることが出来ません。仲尼先生をそしって、絶縁なさいましても、日月のようなあの方にとっては何の損害もないことです。却ってそしる人自身が自分の力を知らないということを暴露するに過ぎないでしょう」
 陳子禽が子貢にいった。
「あなたはご謙遜が過ぎます。仲尼先生といえどもあなた以上だとは私には思えません」
 すると子貢がいった。
「君子は一言で知者ともいわれ、一言で愚者ともいわれる。だから、口はうっかりきくものではない。先生が、われわれの到底及びもつかない方であられるのは、ちょうど天に梯子をかけて登れないのと同じようなものだ。もし先生が国家を治める重任につかれたら、それこそ古語にいわゆる、「これを立つればここに立ち、これを導けばここに行われ、これを安んずればここに来り、これを動かせばここに和らぐ。その生や栄え、その死やかなしむ」とある通り、民生もゆたかになり、道義も作興し、人民は帰服して平和を楽しみ、先生の御存命中はその政治をたたえ、亡くなられたらその徳を慕うて心から悲しむだろう。とても、とても、私などの及ぶところではないのだ」

第二十 堯曰

 堯帝が天子の位を舜帝に譲られたとき、いわれた。
「ああ、汝、舜よ。天命今や汝の身に下って、ここに汝に帝位をゆずる。よく中道をふんで政を行え。もし天下万民を困窮せしめることがあれば、天の恵みは永久に汝の身を去るであろう」
 舜帝が夏の禹王に位を譲られるときにも、同じ言葉をもってせられた。
 夏は桀王にいたって無道であったため、殷の湯王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。
「小さき者、履、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、敢て至高至大なる天帝にことあげいたします。私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、天帝に罪を得た者を誅しました。天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳が蔽われないよう致したいと思います。私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります」
 更に諸侯に告げていわれた。
「もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、万民の罪ではない。もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、われひとりの罪である」
 殷は紂王にいたって無道であったため、周の武王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、武王は天帝に誓っていわれた。
「周に下された大きな御賜物を感謝いたします。周には何と善人が多いことでございましょう。いかに親しい身内のものが居りましょうとも、仁人の多きには及びませぬ。かように仁人に恵まれて、なお百姓に罪がありますならば、それは私ひとりの罪でございます」
 武王はこうして、度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、すたれた官職を復活して、四方の政治に治績を挙げられた。また、滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、野にあった賢者を挙用して、天下の民心を帰服せしめられた。とりわけ重んじられたのは、民の食と喪と祭とであった。
 かように、君たる者が寛大であれば衆望を得、信実であれば民は信頼し、勤敏であれば功績があがり、公正であれば民は悦ぶ。これが政治の要道であり、堯帝・舜帝・禹王・湯王・武王の残された道である。
 子張が先師にたずねていった。
「どんな心がけであれば政治の任にあたることが出来ましょうか」
 先師がこたえられた。
「五つの美を尊んで四つの悪をしりぞけることが出来たら、政治の任にあたることが出来るであろう」
 子張がたずねた。
「五つの美というのは、どういうことでございましょう」
 先師がこたえられた。
「君子は恩恵を施すのに費用をかけない。民に労役を課して怨まれない。欲することはあるが貪ることはない。泰然としているが驕慢ではない。威厳はあるが猛々しくはない。これが五つの美だ」
 子張がその説明を求めた。先師はこたえられた。
「人民自ら利とするところによって人民を利する、いいかえると安んじて生業にいそしませる、それが何よりの恩恵で、それには徒らに財物を恵むような失費を必要としないであろう。正当な労役や人民が喜ぶような労役をえらんで課するならば、誰を人民が怨みよう。欲することが仁であり、得ることが仁であるならば、貪るということにはならないではないか。君子は相手の数の多少にかかわらず、また事の大小にかかわらず、慢心をおこさないで慎重に任務に当る。これが泰然として驕慢でないということではないか。君子は服装を正しくし、容姿を厳粛にするので、自然に人に畏敬される。これが威厳があって猛々しくないということではないか」
 子張がたずねた。
「四つの悪というのは、どういうことでございましょう」
 先師がこたえられた。
「民を教化しないで罪を犯すものがあると殺す、それは残虐というものだ。何の予告も与えないでやにわに成績をしらべる、それは無茶というものだ。命令を出す時をいい加減にして、実行の期限だけをきびしくする。それは人民をわなにかけるというものだ。どうせ出すものは出さなければならないのに、勿体をつけて出し惜しみをする、それは小役人根性というものだ」
 先師がいわれた。
「天命を知らないでは君子たる資格がない。礼を知らないでは世に立つことが出来ない。言葉を知らないでは人を知ることが出来ない」

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