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2024年大河ドラマ「光る君へ」|平安時代に活躍した女性たち

2024年大河ドラマ

894年に菅原道真の進言により遣唐使が廃止され、簡単に書けるかな文字が普及したことにより、思ったことをそのまま表現できるようになり文学の世界が広まった。

漢詩に代わって和歌がさかんになり、900年代初頭には、醍醐天皇の勅命を受けて紀貫之らが編纂した「今昔物語集」ができた。また、現存する最古の物語とされる「竹取物語」や、在原業平をモデルにしたとされる男性とたくさんの女性の恋を描いた「伊勢物語」など様々な物語も書かれるようになった。

また、平安時代中期は、女性による作品が中心であったのが特徴。
紫式部や清少納言をはじめとする女官や女房たちが、現在も世界で愛される名作を残している。

・藤原道綱の母「蜻蛉日記」
・紫式部「源氏物語」
・清少納言「枕草子」
・和泉式部「和泉式部日記」
・赤染衛門「栄花物語」

清少納言(966~1025年頃)

枕草子の作者として有名な清少納言。著名な歌人・清原元輔の娘である。

文才あふれる家庭に育ち、和歌や漢詩などの教養も兼ね備えた才女であったという。10代半ばで橘則光と結婚、息子を産むが離婚。20代半ばで再婚、娘を産んだ後に別居している。その後、993年に定子に仕えるようになった。

定子・・・一条天皇の中宮で、関白・藤原道隆の娘。

清少納言は外交的で頭の回転が速く、公達との知的な会話や歌のやり取りを楽しみ、定子サロンを代表する存在となった。内気で悩みをかかえがち、華やかな後宮になかなかなじめなかった紫式部とは対照的である。

定子が1000年に亡くなると、清少納言はほどなくして宮仕えをやめ、約10年間の宮中生活中に書き留めたものに加えて、宮仕えをやめたあとにも書き続け、枕草子を完成させた。

清少納言が仕えていた時代の定子は、栄華の絶頂から転落の人生をたどったが、枕草子には悲しい事実については語られず明るく教養にあふれた定子サロンの様子、上品で聡明な定子のふるまい、いきいきと描かれているのが特徴である。

小倉百人一首に選ばれた清少納言の和歌は?四納言のひとりと詠んだ和歌だった!
>>光る君へ|一条天皇や道長を支えた「四納言」のキャストは?町田啓太ら大河ドラマ3度目

紫式部は、紫式部日記の中で、清少納言について「得意げで、利口ぶって漢字を書き散らかしているが、知識不足のようで中身がない。」などと批判している。

紫式部が彰子に出仕したのは、清少納言が宮仕えをやめてから4年後のことで、直接の面識はなかったとされる。しかし、定子サロンの華やかさ、清少納言の才気は宮中でも度々評判となっていたようで、紫式部は清少納言にライバル心を持っていたともいわれる。

大河ドラマ「光る君へ」では、ファーストサマーウイカさんが清少納言役を演じます。大河ドラマ初出演となりますが、明るくてきらびやかな感じがよく似合いそうです。

和泉式部(978~1027年以降)

恋多き名歌人と言われ、数多くの恋をした「和泉式部日記」の作者である。紫式部より数年あとに彰子の女房となった。

橘道貞と結婚し、娘・小式部内侍が生まれたが、別居。

子式部内侍・・・母同様恋多き女流歌人といわれ、小倉百人一首にも選ばれた。彰子に仕えたが、出産した際に25歳で亡くなった。

その後、冷泉天皇の息子で、三条天皇の弟である為尊親王と恋仲に。しかし彼は26歳の若さで疫病でこの世を去ってしまった。

失意の和泉式部に言い寄ったのは、為尊親王の弟である敦道親王。1年も経たないうちに二人は恋に落ち、和泉式部が敦道親王の邸に入ると、正妻は邸を出てしまう。現代の略奪婚のような恋の顛末をつづったのが「和泉式部日記」で、2人の恋の歌が140首以上のっている。

ところが、敦道親王も27歳で病死。こうしてふたりの親王と死別した和泉式部は、のちに彰子に仕え、藤原家につとめていた藤原保昌と再婚した。

和泉式部の詠んだ和歌は、小倉百人一首にも選ばれている。

あらざらむ 此よの外の 思い出に
今ひとたびの あふ事もがな

(意味)私は間もなくこの世を去るでしょう。せめて、あの世への思い出に、熱く情熱的に愛し合ったあの方に、もう一度お会いしたい。

これは和泉式部自身が病にかかり、寿命が長くないことを悟った時に詠んだもの。

「愛し合ったあの方」というのは一体誰なのか、やはり、和泉式部日記に出てくる敦道親王でしょうか。想像を掻き立てられます。

伊勢大輔(?~1060年)

紫式部の代役を務め、一躍有名になった伊勢大輔。「いせのたいふ」と読み、男性ではなく女性である。伊勢大輔の曾祖父と祖父は三十六歌仙に選ばれており、歌才豊かな家系に育った。紫式部の数年あとに彰子の女房となった。

一条天皇のもとに奈良の僧侶から八重桜が送られた際に、それを受け取り和歌を詠む役を紫式部から譲られ、そのときに詠んだ歌が小倉百人一首に採用された。

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな


(意味)遠い昔の都・奈良の八重桜が、今日、宮中(九重)で咲き誇っているよ

「いにしへ(昔)」と「けふ(今)」、「奈良(古都)」と「九重(新都)」という対になる言葉を使うことで、時間と空間の対比が際立ち、また、「八重」と「九重」が数字の対比にもなっている。

かつての都・奈良から届いた八重桜が、現在の都・九重で咲き誇っていることを示すことで、京の繁栄を歌っている。この和歌が詠まれた直後、藤原道長は感嘆、周囲からもどよめきが起こったと言われている。

晩年には、院政をおこなったことでも有名な第72代白河天皇の養育にもあたった。

院政
天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となる。
院政は、上皇または法皇が天皇に代わり実権を握ること。

和泉式部や伊勢大輔のキャストは2023年12月現在発表されていませんが、大河ドラマ「光る君へ」に登場するのでしょうか。次のキャスト発表が楽しみですね。

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