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飛鳥時代|日本の政治の礎を作った天武天皇と持統天皇は仲良し夫婦だった

ちょこっと日本史

時は飛鳥時代へさかのぼります。
この時代は、ひとことでいうと天皇が絶大な力を持ち、日本国が完成した時代です。

飛鳥時代に活躍したのが天武天皇と持統天皇。ふたりは夫婦で、いまの日本の政治の礎を作り、奈良に藤原京を完成させました。

持統天皇は男性ではなく、皇室史上3人目の女性天皇です。

天武天皇(~686年)

天皇になる前の名は「大海人皇子(おおあまのみこ)」。

天智天皇の弟。

天智天皇(中大兄皇子)
中臣鎌足らと大化の改新と呼ばれる政治改革を進め、天皇中心の政治を目指していた。

大化の改新
聖徳太子の死後、豪族の蘇我氏勢力を強め、太子の子の山背大兄王とその一族を滅ぼすなど、天皇家をしのぐ力をもつようになった。中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足らは、中国()で政治や文化を学んで帰国した留学生とともに、を中心とする中央集権国家の建設をめざし,645年に蘇我氏を倒し、政治改革に着手した。

大化は日本初の元号で、中国に対する独自性のアピールでした。

壬申の乱(672年)

本来、天智天皇の弟・大海人皇子が後継者となるはずでしたが、天智天皇は息子・大友皇子を後継者にしようとしました。天智天皇が亡くなったことがきっかけとなり、大海人皇子と大友皇子は皇位を争い、大海人皇子が勝利しました。これが、日本古代史最大の戦である「壬申の乱」です。

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌年673年に天武天皇として即位しました。その後、天武天皇は皇族を中心とした天皇政治をより強化していきました。

薬師寺建立の発案(680年~)

奈良県奈良市にある薬師寺は、天武天皇の皇后・鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)の病気回復を祈って、680年に天武天皇により発願されました。

鵜野讃良皇女は、うののさららのひめみこと読みます。む、むずかしい・・・

しかし、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御、持統天皇が即位し新都・藤原京に薬師寺を完成させました。710年、元明天皇の命により藤原京から平城京へ遷都が行われると、それにともなって薬師寺も平城京へとうつりました。

しかし、薬師寺の多くの堂塔が火災や地震で失われました。特に戦国時代の兵火は激しく、金堂、西塔、大講堂などほとんどが焼失、唯一創建時から現存するのが東塔(国宝)です。現在、薬師寺は世界遺産になっています。

律令と国史の編纂に着手(681年)

天武天皇は、犯罪を犯した人を罰する刑法(律)と、人々が生活するうえで必要な民法や国の組織について定めた行政法(令)を持つ律令国家を作るために、飛鳥浄御原令制定に向けて動き出しました。

また、国の歴史をまとめることも命じており、のちの「日本書紀」となりました。

藤原京をつくりはじめる(682年)

中国に負けない強い国家を作るため、藤原京を造り始めました。しかし、藤原京の完成を見届けることなく、686年、天武天皇は亡くなりました。

持統天皇(645年~702年)

天智天皇の娘。天武天皇の皇后。

先ほども出てきましたが、天皇になる前の名は「鸕野讃良皇女」。うののさららのひめみこと読みます。大化の改新が始まった645年に誕生しました。

天智天皇の娘ですから、伯父と結婚したわけですね。昔にはよくあったことでした。

そして、天武天皇を助けて政治を補佐したといいます。

天武天皇と皇太子・草壁皇子が相次いで亡くなり、690年に即位
このとき、孫の軽皇子がいましたが、当時まだ7歳だったため、天皇にはできず持統天皇が中継ぎを務めたわけです。在位期間は、孫の軽皇子が文武天皇として即位するまでの7年です。

おもな功績は、以下となります。
中継ぎといっても、夫の遺志を引き継ぎ、手腕をふるいました。

また、孫の軽皇子(のちの文武天皇)に譲位してからも、持統天皇は上皇となり、文武天皇を支えて政治に関わりました。

律令を施行(689年)

天武天皇が進めていた飛鳥浄御原令を施行。701年には、天応を中心とした国家体制ができあがったことを示すように、日本初の本格的な法典「大宝律令」を完成させました。

これにより、国の呼び方が倭から日本となりました。

藤原京完成(694年)

日本で初めて、碁盤の目のように区画が並んだ条坊制を採用した都・藤原京を、飛鳥の北、今の奈良県橿原市と明日香村周辺の地に完成させました。

藤原京は耳成山、畝傍山、香具山の大和三山に囲まれており、飛鳥から藤原京へ都を移しました。

そのほかにも、自分のために天武天皇が造営を始めていた薬師寺を完成させています。また、現在も続く伊勢神宮の式年遷宮は持統天皇が始めたとされています。

小倉百人一首にも選出

持統天皇の詠んだ和歌は、小倉百人一首に選ばれています。小倉百人一首に選ばれている女性天皇は、持統天皇ただひとりです。

ちなみに、小倉百人一首は時代順に並んでおり、持統天皇の和歌は2番目にのっています。1番目は、持統天皇の父である天智天皇の和歌なんですよ。

春すぎて 夏來にけらし 白妙の 
衣ほすてふ 天の香具山

持統天皇

(現代語訳)
春が過ぎて夏が来たらしい。道理で、夏になると白い衣を干すといわれている天の香具山に、真っ白な衣が干してあることよ

春から夏に移り変わる季節、山の鮮やかな緑と、真っ白な衣のコントラストが目に浮かぶようなすがすがしい和歌です。

天武天皇とともに眠る

702年、病を発症し持統天皇は亡くなりました。持統天皇のなきがらは火葬され、奈良県高市郡明日香村にある野口王墓で夫の天武天皇とともに仲良く眠っています。天皇の火葬は、持統天皇が初めてであったようです。

生前は支えあい、夫が亡くなった後は夫の遺志を引き継ぎ、最後は一緒のお墓で眠る。うらやましくなってしまいます。

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