死の壁を砕け!

赤い侵略とグローバリズムから皇国日本と世界を守る

捏造歴史、WGIPからの解放。反キリスト軍ソロス、ディープステート、イエズス会、家庭連合(旧統一教会)、そして支那との戦い。

ショッカー(SHOCKER)と宗教二世

ショッカーの目的は、世界平和。
やはり統一教会とリンクさせたのは、私だけではない。
悪は必ず「世界平和」というワードを掲げてくる。
そもそも悪の世界を実現しようなどと、愚かなことを言うはずない。


少し気になったので、yahooニュースから抜粋させて頂きました。


『シン・仮面ライダー』に 織り込まれた宗教二世問題


 2023年、庵野秀明監督の『シン・仮面ライダー』が公開された。この作品は、オリジナルのシリーズだけではなく石ノ森章太郎の原作へのリスペクトにあふれつつも現代的かつ庵野秀明らしいアレンジが加えられた作品で、公開直後の評価は少々割れたものの、私は後からじわじわと「来る」、忘れられない作品になったのではないかと感じている。


 そのような印象と評価はともかく、『シン・仮面ライダー』は、どれくらい意識的かは分からないが、元総理大臣の安倍晋三銃撃殺害事件と、それによって明らかになった政権与党と旧統一教会との関係が社会を揺るがした日本の雰囲気を捉えたものになっていた。

つまり、一言で言えば「宗教二世問題」が織りこまれていたのだ。


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この作品ではショッカー(SHOCKER)は「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling(計算機知識を組みこんだ再造形による持続可能な幸福組織)」の略称だとされ、その目的は人類の支配ではなく、人類の幸福であることが、その名称にも示されている。そのようにして、宗教団体色が強められている。


 実際、この作品に対する私の印象の1つは、「外側の現実世界にはほとんど何も起きていない」というものだった。すべてはショッカーと、ショッカーから離脱しようとする本郷猛や緑川ルリ子との間の内ゲバでしかない。政府のエージェントは登場するものの、竹野内豊と斎藤工という最近の庵野関連作品の常連俳優たちがサービスのように出てくるだけで、下手をすれば彼らが本当に政府の人間なのかを疑うことさえ可能である。


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倒れた本郷猛の遺志を継いだ 仮面ライダー2号はどう生きるか


 この作品はどこまでも、宗教二世たち(正確には二世なのかどうかも分からないが、とにかく生まれながらにして宗教に入信させられていた人たち)が信仰と宗教組織の軛から逃れようともがく物語なのである。

普遍的な正義の物語ではありえない。


 結末は、志半ばにして倒れた緑川ルリ子と本郷猛の遺志を仮面ライダー2号の一文字隼人が受け継ぐという形になっているが、この結末は偽物の正義(宗教)を脱して、真の正義に彼が目覚めたものと言えるのだろうか。または、偽物の現実から脱して本当の現実に足を踏み出したものと説明できるのだろうか。


 私にはどうもそうは思えない。一文字隼人はこの後、一体何と戦うのか。ひょっとすると彼らはずっと、政府機関の男たちの手のひらの上にいるのではないか。彼らはショッカーという宗教から脱して、別の宗教に入信しただけではないのか。そのような疑問が拭えない結末であった。


 しかし、「仮面ライダー」とはそもそもそのような物語だった。そして、あえて断言すれば、ポストトゥルースの現在をいかに生きていくかという教訓を、この作品は授けてくれているのだ。「本当の現実」に目覚めるという物語をこそ、現在の私たちは警戒せねばならない。かといって、すべてはフェイクだという居直りに陥らずに、そのあわいでいかにして生きていくか。一文字隼人が続けていくと決心する「戦い」がそのような戦いであるのなら、私もその戦いには参加したいと感じる。


 なお、庵野秀明監督は続編の構想を明らかにしており、そのタイトルは『シン・仮面ライダー 仮面の世界(マスカーワールド)』で、「日本政府がショッカーと同じレベルの人工知能・ブレインを開発して」「ショッカーに入った政治家や官僚がいろいろやろうとする。それと戦う一文字隼人を描く」ものになるそうである。まさに、マスク/フェイクの陰謀論的世界をいかに生きるか、というテーマが追究されるらしいのだ。


河野真太郎






私には、どうしても蜂女とツルコが、オーバーラップしてしまう。

国家の起源と相続の失敗

日本人は、相続に失敗している。
相続に成功している家族は、その財力が正統に引き継がれているので、少なくとも生活に困ることは少ない。


もしこの国で、三度のメシが食えて、寝るところも確保され、少しばかりの幸せを堪能できているとしたら、それは自身の力によるものではなく、その多くが先祖から引き継いだ恩恵であることに気付いてほしい。
悲惨な戦争もあったし、多くの命が犠牲になったが、それらを乗り越えて、今がある。
今、国家の主権を侵害されることなく、個人の自由を侵されることなく生活が出来ているとしたら、それは間違いなく、先祖が託してくれた、我々への大いなる遺産である。


だが、そこに繋がらない者たちが日本人を名乗り、その遺産を食いつぶし始めた。
キチガイ、自称、クルド、不法移民・・・等々
こういったカテゴリーの者たち。


一応言っておくと、日本人であることと、日本国民であることでは意味が違う。
これを故意に混同させ、政治的に悪用している者も多い。
英利アルフィヤなどが、わかりやすい。
私は日本人の話をしている。


勝手に日本に住み着いたか、住まわせてもらってきた者らが、大口を叩いて、あろうことか、日本人相手に裁判を起こしたり、排除しようとまでしている。


少し統一教会向けに書いておく。
統一教会は、霊的相続を失敗している。
相続とは真逆の、着服という世界に染まってしまった。
相続とは財だけのことを言うのではない。
北斗神拳のように一子相伝の場合もあったり、何らかの文化や奥義の伝承の場合も多い。


統一教会も、久保木氏亡き後は愛国者が去り、ほぼ侵略者の世界。
今まで戦争から逃げ惑ってきた、国家観の無い者らに、いったい何ができようか。
母国に責任を持てなかった者が、大口を叩いたところで、誰からも受け入れてはもらえない。
要は実体であり、実績なのだ。
だから韓国人からすれば、在日というのは国家に責任を持たない棄民者として映る。
クルドはトルコ政府から認定されたテロリスト。
この2つは同じ要素を持つ。
日本に住むなら、なぜ日本人として生きられないのか。
自国文化の押し付けは、もはや侵略でしかない。
例えば日本での自称とか、キチガイなんて名乗りは、まともな日本人からすれば、嫌悪の対象でしかない。
こうして国家観の無い者には、永遠に何も知ることは無い。


フィルマーは 「国家とは男女の愛から誕生した」 と述べたんじゃ。

アダムとイブが愛し合い、子どもたちを産んだ。


そして、田畑や家畜など財産を相続させた。


この相続を何十世代も繰り返すと やがて生まれた時点で莫大な財産を持つ子どもが生まれる。


この財産で飢えた人を救い、 兵士を雇い安全を守ると、 その血統がみんなから尊敬され、「王権」になる。


この王権から国家が生まれた、と説明した。



統一教会にも優れた教えがある。
個人は家族、家族は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は神(天宙)のために存在する。


橋本さん曰く「男女の夫婦」が「国家の起源」
だから、国家に責任を持てない者は、家庭にも責任を持てないことになる。


統一教会に身を置いている者は、自覚したほうがいい。
天国行きの列車と思っていたら、実は・・・
なんてことはよくある話。
初心に戻るとは、原点回帰とは、教団に身を捧げることではなかろう。
神に身を捧げるとは、たとえ教団が敵となっても、それと戦う覚悟を決めることだ。
低俗な幹部やキ印に足を取られているようでは、天の声は永遠に届かない。


難民とは
自分が生まれた祖国の危機に立ち向かわず、放棄した者を指します。
祖国の為に立ち上がり、祖国の為に命を懸け、祖国を立派にする為の苦労をいとわない生き方を放棄した者たち。

祖国を捨てて逃げた卑怯者。


欠落した国家観の無い者は、何に対しても責任を持とうとしない、永遠の流民。




「ジョジョリオン」より


私の人生は、自身で何かを選択したというより、大きな流れの中で、泳がされてきたように感じる。最初から、そう方向づけられていたような。
良いも悪いも無い。
その中で、必死にもがいてきただけ。
だが、その流れにも意味があるのなら、そこで生きる意味を見出していきたい。