TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

マスクの話題再び

2024年05月04日 | エッセイ
大型連休後半。
週3日勤務でもやはり休みはうれしい。
とはいえ、どこもかしこも込み合っているご様子。
近所に散歩に出てみると、ほとんどの人がマスク無しである。

職場でも、新年度からマスクが「任意」となった。
昨年度までは医療機関に準じるということで、マスクは必須アイテムだったのだ。
とはいえ、実際にマスクをはずしている職員は見かけない。
やはり皆さんが「一、二、の三」で足並み揃えてはずさないと、自分ひとりだけというのは、勇気がいるのだろう。
夏場になって暑くなればひとり、ふたりと増えていくだろうか。
わたしは今の職場にいる今年度はマスクをはずさないつもりである。
皆がはずすから敢えてはずさないのである。
ウイルスは消滅したわけではない。
なんだかキョーフ心と習慣が身についてしまった。
しゃれた型や色合いのマスクも増えた。
さらに、皺やシミ隠し、化粧の手抜きなど、マスクには感染症予防効果以外の役割もあるのだ。
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電話交換

2024年05月02日 | エッセイ
再就職してからひと月が経った。
むずかしい仕事はないが、簡単な仕事ほど体力を使うことがわかった。
コピーを取ったり、健康診断の希望項目を聞きに回ったり、福利厚生のパンフレットや郵便物を配ったりという、ひとつひとつの作業量はたいしたことではないものが、塵も積もればなんとやらで、1日の終わりにはちょっとした運動量になる。

電話交換のスタッフが休みの日には、その業務も受け持つのだが、わたしはこの電話交換業務が好きであることにも気づいた。
電話応対が好きなのではない。あくまでも「交換業務」。
電話は何を差し置いても優先される。
「〇〇さんお願いします」と受話器の向こうから声がする。
遠くのほうで同僚と話している〇〇さんが見える。
電話をつなぐ。すると〇〇さんは(当然のことながら)話をやめて電話に出てくれる。
その優先性がどういうわけか気に入っているのである。
加えて、重要(と思われる)な電話をつないで、相手の仕事を前に進めるために貢献したというプチ・達成感もこの業務のいいところである。
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口癖

2024年04月23日 | エッセイ
「どうせなら」。これは父の口癖である。
それが母にとっては気に入らないらしい。
どうせ、という言葉には、どこか投げやりなニュアンスが含まれている。
弁護するわけではないが、これは、「どうせ、わたしなんか」のように、ひがんだ「どうせ」ではなく、「せっかくなら」という意味で言っていると思っていたので、母に言われるまでそのネガティブ性に気がつかなかった。
しかし、母と同じように感じる人もいるだろう。
親子の口癖は似る(と思う)。
これまで、「どうせなら」という言葉が口を突いて出ようとするたびに、「せっかくなら」と言い換えるようにしていた自分にも気がついた。

口癖というもの、本人は自覚しないで口にしていることが多い。
相手がどう思うかについて、案外無頓着だ。
人によって、受け取り方もさまざまである。
年下の同僚に、「さっきも言いましたけど」と言われるのが、心底嫌だと話していた知人がいる。
そう言われると、こちらの物分かりや記憶力の悪さをことさら指摘されているように感じられるのだとか。
悪意を含んでわざとそう言っているのかどうかは、日頃の関係性によるだろう。
もともとせっかちな人が、わかってもらえないのをじれったく思って、誰に対してもつい、口走ってしまうのだとしたら、そういう性分なのだなあ、と納得もいく。

「だから」を連発する上司がいた。
仕事の説明や指示をする合間に「だから」「だから」が何度もはいる。
どう説明していいかわからない自分の語彙力に対するもどかしさと、相手にうまく伝わっていないもどかしさ。
これも言われた当人にしてみれば、自分の物分かりが悪いのではないか、と思ってしまう。
回りにもそう聞こえるかもしれない。
「だから」が会話の中で何回はいるのか数えてみたこともある。

彼女は、高齢の両親の介護をしながら働いていた。
おそらく両親を前に、「だから、さっき言ったじゃないの!」とじれながら日々の世話に明け暮れていたのではないか。
その口調が職場にまで持ち越されたのかもしれない。
だとすると、きっと本人に自覚はなく、もちろん悪意もないのだろう。

かく言うわたしの口癖は、「でも」と「〇〇ですけど」。
相手にしてみれば、せっかく肯定的なことを言っているのに、「でも」と覆されているように感じるのではないか。
「ですけど」にいたっては、そのあとに「それがなにか?」と続きそうである。
なにやらケンカを売っているようだ。

とまあ、他人の口癖の揚げ足をとっていないで、自分のネガティブな口癖を減らすことに心を配ったほうが良さそうである。
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折り返し

2024年04月18日 | エッセイ
退職したという実感のないまま、今月も折り返し。
3年連用日記の予定表欄。
今年の3月の欄に「ゴール」の文字を書き、ひと月終わるごとにシールを貼って退職日までを待ち望んでいた。
その3月ももうとっくに過ぎてしまったというのに、同じように生活は続いている。
いったいなにをもってゴールとしていたのか、何を目指していたのか、こうなってくるとよくわからない。
仕事内容は大幅に変わったものの、同じ庁舎に足を運び、弁当当番をこなしている。

しかし見える景色は変わったかもしれない。
部署が変わったのだから席から眺める景色が変わるのはあたりまえだが、回りを見回す余裕ができたというのだろうか。
下っ端の立場上、とばっちりを受けることはあるが、振り回されることがなくなった。
課どうしで繰り広げられる”責任”の押し付け合いにも巻き込まれることもなくなった。
「あれあれ、またやっているわ」
「もっともらしいこと言ってるけど、ホントはメンドクサイだけなんじゃないの」
などと思いながらコピーを取っている。
言われたことだけを淡々と忠実にこなしていればいいというのは、気楽ではある。

新しい席からは、3月まで在籍していた部署全体を見渡すことができる。
あの席には2度と戻りたくないと思う一方では、懐かしくもある。
利害関係や、仕事上の関わりがほぼなくなったので、彼らとの関係性も実に気軽なものになった。
当時の課長と廊下で顔を合わせたおりに、「〇〇さん、元気~?」と問われ「おかげさまで」などと(表面的には)気安く答えたりしている。
上下関係がなくなると、ただのおじちゃん、おばちゃんなのである。
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2週間

2024年04月11日 | エッセイ
新たな職場で働き始めて2週目が終わった。
たった6日働いただけだが、月の半分が終わったことになる。

週3日勤務といえば少なく聞こえるが、体力的にはいっぱいいっぱいであることがわかった。
来客があるたびに、席から立ち上がって窓口に向かう。たいした距離ではないのだが、積み重なればちょっとした運動量になる。
郵便物を受け取る、庁舎案内をするといった程度のものならお安い御用だが、「どこそこの鍵を貸してください」となると、そうはいかない。
じゃらじゃらとたくさんの鍵がぶらさがったキーボックスから、お目当ての鍵を探し出すのはことのほか難儀である。
部屋の名前を書いてある文字も見づらい(というか、こちらの視力がおちているのである)。
どこの鍵がどこらへんにぶら下がっているか、見当がつくようになる前に退職日を迎えるかもしれない。

さらに基本的な事務作業について、知らなかったことが多いことに気づく日々でもあった。
束ねた紙をまっすぐに切断するスライサーの操作方法や、ラベルを作るテプラ、カラー用紙を使ったコピーなど、これまでやったことがなかったことを頼まれると、いちいち緊張する。
「31年も事務職をやってきてこんなことも知らないのか」とあきれられるのではないかと思うからだ。
こちらのヒガミかもしれないが、3月まで丁寧語で接してくれていた非常勤職員さんの態度が、心なしかつっけんどんになったような気がする。

以前、定年退職した職員が、若い男性職員に怒鳴られながら、コピー機の前で、おたおたしながら資料のコピーをしていた姿が自分と重なる。
今のところ平穏ではあるが、周囲の職員たちも、「こうしてほしい」と感じていても、言わずに我慢してくれていることもあるかもしれない。
そう考えると、思いはフクザツである。
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