「英語学習」は「自己主張」抜きにはないはずなのに | ひとときのときのひと

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外資系で英語を再開し、アラカンでも英検1級1発合格。
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そんな人間が、ためになる言葉を発信します。
だいたい毎日。



まずは英語から。

 ここでは、英検1級1発合格とは少し切り口を変えた形で「ためになる英語」ならぬ「だめになる英語」について考えを共有してみたいと思います。

 

 それは、「せっかく英語を学んでも、あいかわらず外国人に対して空気を読んでるような日本人らしい姿勢のままでは、学んだ意味が無いのではないでしょうか」と言う問いかけです。

 

 これに類したいくつか投稿はしています(未読の方は、こちらを↓一読願います)が、もう少し補足してみましょう。興味のある方は、ぜひお付き合いください。

 

 

 

 たとえば前回のショパン・コンクールを思い出してみましょう。このコンクール開催に際してテレビで(と記憶している)こんな解説がまことしやかに紹介されていました。

 

 すなわち、「日本人の入賞の可能性ですか?確かに日本のピアニストは、技術は十分備えているのですが、個性ある演奏ができるかどうかと言う点では、必ずしもそうとは言えない状況ですので、どうでしょうか」といった内容の解説を聞かされました。

 

 ちなみに、この下馬評は大きく外れました。優勝こそ逃しましたが、二位に反田恭平と四位に小林愛実と二人も日本人が上位入賞しました。

 

 つまり、日本人には個性とか自己主張がないわけではないのです。「やればできる」のです。

 

 だからこそ、疑問に感じます?日本人は、

 

「個性とか自己主張が乏しい」

 

と、さもわかったようなことを口にする解説(者)に対して。

 

 なぜ「個性が乏しい」といった、できあえの、いい加減な、中身がからっぽの、どこかで聞いた風な、そして出場者、演奏家をおとしめかねない趣旨のコメントをするのでしょうか。

 

 そして、英語学習の世界においては、なぜ、この個性や自己主張とは、ほぼ正反対の気遣いの世界。つまり受動的でおとなしい、まじめな、おすましな態度そのままにしておくのでしょうか。

 

 結果的に、英語力を高める仕組みといえば高校、大学受験等あるいは資格試験といったところですが、それらほとんどが知的ゲームになってしまっている。

 

 全く実用性にないとまでは、言いませんが。穴埋め問題などは、どうなのでしょうか。「英語で自分を伝える」ことからあまりにも遠いではありませんか。

 

 英語学習と言ったら、条件反射的に「道案内」とくる発想も、一見実用的なようで、個性とも自己主張とは全く関係ない。

 

 そもそも道に迷っている人が「いい人」であるのは、日本だけかもしれないではありませんか。

 

 あるいは、外国人旅行者の中には

 

「道案内」をただでしてくれるやつは怪しい

 

 と思う感覚があるかもしれない。

 

 にもかかわらず、そういう可能性を頭に思い浮かべないきわめて「閉鎖的な」感性。頑固なまでの「ガラパゴス」的性格。

 

 いつになったら、自己主張したり他人に働きかけるような、他人を動かすような、英語らしい英語を話せる姿勢になれるのでしょうか。

(こちらも↓ぜひお読みいただきたい)

 

 外国旅行に出ても旅先のホテルの冷遇や不始末に対して文句の一つも言わず(クレーマーになりなさいと言っているのではありません)、じぶんさえ耐え忍めば丸くおさまる話」として、「言語的鎖国」を続けるのでしょうか。つまり、外国人の側化からすれば、ただのおとなしい、見様によっては「ぽかーん」とし続ける生物でい続けるのでしょうか。

 

 英語を本当に使うべき時はこんなときにもかかわらず。

 

 いや、それは英語として自分には難しすぎるですって?

 

 いやそうではないのです。

 

 英語学習の初めから本来はこのあたりを学ぶべきなのです。文法だ単語だといった「基礎ができてから自己表現」では遅い。

 

 最初から自己表現を含んだ英語学習でないと、使い物にならないのです。

 (未読の方は↓をこちらも一読ください)

 

 

 以上、参考書には出ていないかもしれませんが、本当にあなたの「ためになる英語」すなわち「自己主張する英語」を考えていただくためのヒントになれば、幸いです。