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さぁ今日の冒険が始まります!!


A la can は若死の家系で、両親は二人ともずいぶん前に亡くなりました。


父母ともに毒親でした。


父は毒っぷりを存分に発揮し、最期までやらかしてくれました。


父の最期のやらかしはこちらです。


母は長く患った後、50歳そこそこで亡くなり、ごく一部の者を除き、周囲はその死を非常に悼んだものです。


母の死を悼まなかったごく一部の者とはズバリ、母の子供たち(つまり私とその弟妹)です。


母の育児法は「体罰万歳」で、お尻ペンペンがデフォルトでした。



服の上からではなく、お尻を出させられて素肌を叩かれました。


頭を殴ると死んでしまうことがあるから頭は叩いちゃダメ、お尻は叩いても大丈夫(死なない)、というのが母の理論です。


私は一番初めの子供だったので、若くて体力があり子育ての理想に燃えた母によく叩かれました。


私の弟妹ともなると、親も子育ての現実がわかってきて手を上げる回数は減りましたが、それでも弟妹もけっこう叩かれてましたっけね。


私が3歳になった頃、こちらにも筋力がつき、叩かれると暴れて抵抗できるようになりました。


子供が暴れてうまく叩けない、叩くと自分の手も痛い、となった母は、私を柱に縛り付けてスリッパで叩くという究極の躾方法を編み出しました。


火のついた線香を近づけるというのもありました。


「躾」には他にもいろいろと。


私の弟妹も大なり小なり「躾」をされていました。


今だったら、児相が入るレベルだと思います。


しかもですね、私はいまだに叩かれた理由がわからない件が多々あるんですよ。


あれは絶対に、自分の憂さ晴らしで叩いていたんだろうなと思うわけです。


直接の体罰は、私が小学校に入学した時、家の改築をした際に私を縛り付けられる柱がなくなったことから終わりを告げました。


その後も「躾」はあり、家から閉め出すとか、物置に閉じ込めるなどに変わりましたっけ。


家庭内で特別な「躾」が行われていたことは秘密で、子供心に「これは外では言ってはいけないこと」だと思っていました。


でも、親の「躾」がおかしいことも感じていました。


ですので、子供が母親に抱く情愛を、私は残念ながら持ち合わせていません。


はっきり書いてしまうと、母が亡くなった時に感じた感情は「ほっとした(嬉しい気持ちを含む)」です。


そんな母ですが、周囲からのウケはとても良かったです。


母は周囲への気配りで疲れ、私を叩いて憂さ晴らししてたのかなと思います。


毒母エピソードは他にもまだまだありますが、それはまたいつか別の機会に。


去年の師走、叔父から喪中欠礼の葉書が届きました。


その人は母の弟で、80歳過ぎのおじいちゃんになりました。


奥さんの親族に不幸があったので喪中なことと、自分も高齢になったので年賀状終いをすることが書かれていました。


それで今年、松が取れてから、叔父の家にご挨拶の電話をしてみたんです。


最近は年賀状だけのお付き合いだったので、お互いに「この世でもう会うことはないだろう。話すのもたぶんこの電話が最後になるだろう」と思っていたはずです。


叔父から「桃子ちゃんのお母さんは早くに亡くなってしまったけれど、僕は弟としてすごく可愛がってもらった。いい人だった」と言われました。


母の周囲、母の知り合いは、異口同音に同じようなことを言います。


言い返しはしませんが、


ぶっちゃけ、気分は悪いです。


母が周りに注いだ愛情と同じものを私たち兄弟にも注いでくれたら、私の人生はちょっと違ったものになってたかもね。


もしできるなら、なぜ周囲にはいい顔をして、自分の子供には手を上げていたのか、その理由を母に聞いてみたいです。


続きはまた今度ね!!

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