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身辺の変化

お断り

以下の記事において、信仰や他の仏教宗派を否定するように見受けられる文面があります。わたくしは、信仰者をはじめ、他の仏教宗派について尊重しています。万が一、不快と捉えそうな方は、読まずに離脱してくださいますようお願い申し上げます。

はじめに

お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、今年の3月に「僧侶の独り言」とタイトルを変更しました。僧侶を辞し還俗(げんぞく)1したためです。

名の「葉慶」というのは法名ではなくただのペンネームです。深い意味はございません。また還俗に伴って、ドメインも(shoja.blog)に変更しています。shojaとは、「聖者」の意です。人が、人の次に目指す目標を現わしています。

今回は、僧侶を辞した経緯などを残しておきたいと思います。

結論から言ってしまえば、わたしが抱く仏塔の下の出家者にあるべき修行の姿と、日本における大乗仏教という宗教形態とのギャップが次第に大きくなったためです。

当初、このブログは自分が出家した寺院で経験した出来事や教義などを紹介するために開設しました。日本仏教寺院特有の教義を伝える難しさを改めて感じてはしていましたが、寺院の教義そのものに疑問を持つことはありませんでした。

それが揺らぎ始めたのは、このブログで何度も紹介している過去生の経験からでした。

ここでの「疑問を持つ」としたのは、出家した寺院の教義について排除とか否定といったネガティブな意味はなく、お釈迦さまが伝えたかった教えがストレートに入ってこないもどかしさみたいなものがあったと解釈してください。

出家した寺院においては、まず信仰があって、その先に神があり、さらなる先にお釈迦さまが祀り上げられています。これでは、お釈迦さまの教えは埋没してしまいます。

日本仏教宗派のほとんどは、神の在る無し、仏の違いはありますが、おおよそこの流れに沿っています。そしてこの流れの中で多くは、信徒は神(シンボルとしての仏)への信仰まで、出家者は神(シンボルとしての仏)への傾注までに留まってしまう傾向にあります。ここに、もどかしさの要因があります。

その後、以下のようにブログの主旨の変更へと至りました。

還俗の経緯

仏塔下のギャップの意識は次第にわたしの中で大きくなっていきました。すると、大乗仏教における儀式や教義に共鳴できなくなってしまい、師匠である住職に申し訳なく思うようになってきたのです。

以下の記事で、目に見えない世界のことに触れない他の宗派にズレを感じていたことを書きました。これは、出家前に感じていたことです。

出家した寺院ではもはや変わることのないと思っていたわたしの信条のズレは、大乗仏教そのものに対してまで及びはじめました。

還俗の申し出をした中、大乗仏教の一教祖である住職は、最後に「辟支仏2」が枝葉に過ぎず悟りの境地ではないことと、自分の内々で完結することなくアウトプットすることの大切さを指導して頂きました。

寺院もわたしもお釈迦さまを信奉し、目に見えない世界に対峙しています。それでも、教義に異を感じていては受け入れられないとした、釈迦滅後から連綿と続いている仏教世界の排他性みたいなものを目の当たりにした次第です。

まあ、信徒ではなく出家者なのですから仕方のないことですね。

まとめ

読者の中には、わたしの場合、大乗仏教でないならば、初期仏教の流れになるかと思われたかもしれません。しかし、初期仏教を継いでいるとしているスリランカの団体が日本にありますが、興味の対象にもなりません。

きっと、わたしの中で縁を結び終わった実感があるためでしょう。

住職の面談後、兄弟子のひとりが、「先代から続いている住職との間の道筋が切れたならばバスの運転手にでもなる」と言っていました。

わたしの場合、お釈迦さまとの道筋があったとしても、当の昔に切れてしまっています。例えてみれば、糸が切れた凧のような状況かも知れません。

お釈迦さまの言葉はわたしの中では永遠のものです。それを自分の中で純粋に練成していくことが自由となった一方で、師のいないわたしは、阿羅漢に至る道筋を自分で見出していかねばなりません。

ちなみに実際還俗してみると、思いのほかすっきりとした心持ちで、今はそれを楽しんでいます。

これからは、少し肩の力を抜いて、住職の示されたアウトプットについて考えながら、俗に戻った余生の在り方を模索していきたいと思っています。

  1. 出家した僧侶などが再び俗人に戻ること ↩︎
  2. 師に頼らずに真理を悟った聖者 ↩︎

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