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2023年12月09日

戦争より平和あいいでしょ

取り調べでは「虚偽の供述」強要も〜28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】

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RKB毎日放送
連載:あるBC級戦犯の遺書

スガモプリズンに収容されていた人たちが、1952年5月12日に出版した「戦犯裁判の実相」という書物がある。戦犯に問われた人たちが、自らが関わった事件や裁判について、記録を残そうと製作したものだ。1981年に復刻発行されている。この書物から石垣島事件の被告たちの取り調べ状況が明らかになった―。

【写真で見る】戦犯が収容されたスガモプリズン(東京)

「戦犯裁判の実相」取り調べ状況は…
スガモプリズン(現・東京都豊島区)

「戦犯裁判の実相」の冒頭、獄中歌が掲載されている。

“四十一人次々に 絞首刑を受けければ 遂に泣き伏す女弁護士”

石垣島事件でBC級戦犯に問われた、石垣島警備隊迫撃砲隊の二等兵曹が詠んだ句だ。横浜裁判の再審査資料によると、1949年1月当時25歳。前年の3月、石垣島事件の判決で41人の被告が絞首刑を宣告されていく中で、アメリカ人の弁護人、ブリーフィールド女史が取り乱した様子を歌にしたという。二等兵曹は佐賀県の農家出身。妻と3人の娘がいた。スガモプリズンに収監される前、福岡での取り調べの様子も書いている。福岡市中央区にあった土手町刑務支所に呼び出された。

顔を殴られ、首を締め付けられた
戦犯裁判の実相 復刻版

(二等兵曹:第一回取り調べ)
「私は昭和22年(1947年)2月上旬、博多で3日間、米軍調査官ダイヤーと通訳山田から取り調べを受けた。事件は戦時中石垣島で起こった米軍俘虜3名の処刑のことである。私は処刑現場には居たが、処刑には参加して居なかったのでその旨を述べたところ、二人は、『君は嘘を言っている。銃剣で俘虜を刺突した筈だ』と云って顔を殴りつけ、壁に押しつけて首を締めつけた。こんなことを何回となく繰り返したが、残念なことにはその取り調べ場所は外に誰ひとり居ない2階なので何の証拠もなく、裁判の時、拷問を受けたことを軍法委員に述べたが取り上げられなかった」(「戦犯裁判の実相」巣鴨法務委員会編1952年)

「今日中に銃剣で刺突したと云え」
福岡で取り調べを受けた土手町刑務支所(現・福岡市中央区)

(二等兵曹:第二回取り調べ)
「同年9月15日から24日まで、東京の総司令部法務局に於いて、二人の検事の取り調べを受けたが、何の拷問も強迫も受けなかった。ところが、25日に又、前記ダイヤーと山口通訳が現れ、いきなり私が腰掛けている椅子を蹴飛ばして、顔を殴りつけ、『是非、今日中に俘虜を銃剣で刺突したと言え』と迫った。私はついに真実を曲げて処刑に参加したと言い、一生の不覚をとってしまったのであった」

この二等兵曹は、捕虜を現場に輸送し、処刑の現場には居たが、懐中電灯を手にして必要なところに照らしていたので、銃も所持せず、刺突には参加していなかった。しかし、執拗に「処刑に参加した」という調書への署名を迫られたという。暴行したかと思えば、甘言をもって誘導しようとする場面もあった

虚偽の処刑参加を自白
スガモプリズン

(ダイヤー調査官)
「君が処刑に参加したという陳述書を書いて署名すれば、今日の夕方は家に帰してやる。そして後日裁判が行われたら、単に証人で呼び出すかもしれぬ。しかし、もし『処刑に参加していない』という陳述書を君が書けば、巣鴨拘置所に入れて『処刑に参加しました』と書くまでは拘置所から出さぬ。君はどちらを選ぶか」

結局、総司令部法務局に通うこと15日間、4度も「自分は処刑に参加しておらず、何もしていない」という陳述書を書き上げたものの、どれも破って捨てられ、受け付けてもらえず、仕方なく最後には「虚偽の処刑参加」を自白した形で署名させられたという。この二等兵曹は、1審で絞首刑を宣告され、約1年後、重労働20年に減刑された。1954年12月に仮出所している。

実弾入りの拳銃を突きつけられて
スガモプリズン

ほかにも石垣島事件の関係者で、取り調べの際に拷問を受けたと書いている人がいた。判決時23歳位の上等水兵だ。愛媛県出身のこの人は、山口県庁で同じくダイヤー調査官と山口通訳に取り調べを受けているが、「彼等は虚偽の供述を強要し、首を絞め、頬を殴打すること数回に及ぶ。取り調べ中に拳銃の実弾を入れたり、突きつけたりして強迫した。調べ中に思考していた時は日本の警察官に命じて、一般囚人が居る山口刑務所の独房に監禁された」という。

上等水兵は、ダイヤー調査官から「君は上官の命令によって行動したゆえに罪はない。これにサインすればすぐに釈放する」と言われたので、虚偽の口述書にサインをした。この事を裁判中述べたが、ダイヤー調査官のうその証言により、取り消されたと書いている。

"敵愾心"…自分も突いたかもしれない
前出の二等兵曹は仮出所後、10年以上が経過した1967年に、法務省の聞き取り調査に応じている。その中で

「私が最後に刺突参加、殴打について肯定したのは、長い日数にわたる取り調べにより根気を失い、もうどうにでもなれと半分、捨て鉢になってのことであったが、私の部下の衛兵の中には敵愾心で『こんチクショウ』という気持ちで殴打した者も居たし、私自身も、もし衛兵伍長としてではなく現場に行っていたら、突いたかも知れないのだという考えも交じっていた。それにしても、ダイヤー調査官さえ現れなかったら、最後まで否認したであろうと思う。自分で自分の首を絞めるような結果になったことは、今から考えると残念でならない」
と語っている。

一方で、「刺突した」とあっさり認めた者は、拷問を受けることなく取り調べを終えたということも記録に残っている。この連載の主人公、福岡県出身の藤中松雄はどうだったのか。次回から検証する―。(12月15日公開のエピソード21に続く)
*本エピソードは第20話です。

連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
筆者:大村由紀子

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
タグ:平和
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