小さな母(がんサバイバー)とその娘の歩み|母と手を繋ぎ―――自分でできるが自信に繋がる

母と娘と当事者研究

こんにちは!

通い介護のミドルケアラー(母の付添人で代筆者、家政婦でマッサージ師、一人娘)で、ひとり当事者研究者(いこ専門家)のいこです。

この初夏、大腸がんでステージ4と宣告された母は、その翌日に入院(ここまでのことはプロフィールで詳しくお話ししています。まだでしたら読んでみてくださいね。)

ストーマ造設のための手術と術前術後の療養とリハビリのため、40日余りの入院を余儀なくされ、帰宅後はやはり完全にフレイル―――足腰がかなり弱っていて一人で歩くのは危なっかしいほどに筋力が衰えていました。

そんな母を助けるべく立ち上がったのが、母の一人娘である私。

私はこの時から、ケアラー(もう若くはないのでミドルケアラー)としての人生を受け入れ、歩み始めたのでした。


今回はこの50日余りの、母と娘、まだ始まったばかりの小さな歩みについてお話しします。

小さく可愛くなった母

退院後の母はあまりにも痩せ、弱っていました。

当時の母の体重は29㎏台で、30㎏にも達していませんでした。

身長は147㎝で小柄だとはいえ、あまりにも痩せすぎです。

退院後、次に病院で計測した体重30㎏(今の時点ではもっとあると思いますが)でのBMIは13.9で、世界保健機構(WHO)の評価では最も低い値の「痩せすぎ」となります。

BMIの計算方法は、BMI=体重(kg) ÷ {身長(m) X 身長(m)}です。

皆さんも試しに計ってみては?

ちなみに私は、16.4で「痩せ」でした。

やっぱり母の娘です。

体形体質共にしっかり遺伝しています。

WHOの評価では、18.5>が「痩せぎみ」、17>16が「痩せ」、16>「痩せすぎ」となるそうです。

BMIとは肥満指数であり、BMIが22となる体重が、統計上最も病気になりにくいとされる標準体重だといわれています。

標準体重の計算方法は、22×体重(㎏)×体重(㎏)で、母の身長147㎝で計算すると47.5㎏となり、母の体重はそれと比較するとあまりにも少ない―――そんなことは、今に始まった話ではありません。

母はずっと以前から、見るからに痩せすぎで弱々しかったのです。
母が痩せすぎなことは、計算するまでもなく明らかでした。

ですが、さすがに30㎏ないなんて、ショックでした。

30㎏といえばお米一袋(都会の方は馴染みがないかと思いますが、農家から購入する際の玄米一袋は30㎏の場合が殆どです)……そう考えるとけっこうな重量だけど(すごく重くて私には持ち上げられない)……秋田犬なんか40㎏以上あるらしい……母は30㎏もないなんて……。

この体重で、この細さで、どうやって生きているのか、また生きていくのかと不安にもなれば、小さく弱った母を見ていると無性に悲しくなってしまい、入院直前などは見ていられなかったです。

ちなみにねこは、先々月動物病院に行ったときには2.14㎏でした。体調不良で通院していたこの春には2㎏切ってしまっていたのですが、なんとかここまで復活。ちゃんと自分の足で立ててますし、走り回ってもいます。

ですが、母は体が小さくなった分、どういうわけか可愛げが増しており、どこか小さな子供のように見えてくるので、先ほどの見ていられないは撤回、見ていられました。

また、突然自分が大腸がんだと判明したと思ったら人工肛門(ストーマ)になり、相当に辛いだろうに、術後幾度かに渡って行われた面会では、終始、私や叔母に明るい笑顔を見せてくれていました。

そんな健気な母を見ていると、「私が守ってあげなきゃ!」そんな気持ちになるものです。


母と手を繋ぐ

退院後は看護師さんがやっていたように、母の手首と見間違うような骨ばった二の腕を握り、母がふらついて倒れてしまわないよう、つまずいて転んだりしないよう、風に飛ばされてしまわないよう、常に母にひっついて、しっかりエスコートして、ゆっくり母の歩調に合わせ、母娘二人三脚のように歩くのが普通になりました。

ですが、退院から1ヵ月以上が経過したここ最近では、うっかり母の二の腕をとることを忘れてしまうことも多くなりました。

それだけ母の足取りがしっかりしてきたということです。


「一人で歩ける?」

「歩けるよ!」

母は元気です。

なのに、時々さり気なく私と手を繋ごうとしてきます。

ですが、どうも母と手を繋いで歩く気にはならないので、そんな時は、母の二の腕を握ってあげます。

やっぱり、一人で歩くのは不安なのでしょうか。

それとも、甘えているだけなのでしょうか。

母がどこか子ども返りしているように感じることが時折あり、母親を求める子供のように見えてくることまであります。

そんな母の手を握り返してあげられない私は、まだまだそんな母を受け入れられていない、母にはまだ私の母親でいて欲しいと心のどこかで思っている子供なのかもしれません。

私たち母娘はお互いを、「頼りにならない母」「頼りにしてはいけない娘」だとこれまで思っていたと思います。

つまり、互いに頼れない存在でした。

ですが、私も心の奥底では母を頼りにしていたのでしょうし、母も私を頼りにしたかったのでしょう。

ついに、頼っていいという娘の受け入れ態勢が整ったことで、母の頑なだった心も柔らかく解け、私の手を取ろうとしているのに……私はどこか、母娘の逆転現象に抵抗しているようでもあります。

私は、そのような母娘の逆転現象の一体何に抵抗しているのでしょうか?

私は母親役になりたくないのでしょうか?

私は子供のままでいたいのでしょうか?

どっちもあるのかもしれません。

私の思い残しがそうさせるのかもしれません。

未だに心のどこかでは、母を頼りたい、母に甘えたい、そんな思いに未練があるのかもしれません。

母の望みと私の望みのお弁当

先日、母にお弁当を作ってあげました。
母が私にお弁当をねだってきたからです。

「私はお弁当作れなかったから、お弁当に憧れがあるんだよね。」

「そうなんだ。じゃぁ、作ってあげるね。」

そう二つ返事で答えた私でしたが、内心では(私だって作って欲しかったけどね……)と少しばかり毒づいていました。

実は私も母と同じく、お弁当を作ってもらうことに憧れをもっています―――いました。

私が小さかった頃、母は保育園や小学校の行事の際には毎回、私のためにお弁当を作ってくれようとしていました。

ですが、母は体に障害があり手先も不自由なため、お弁当作りのような細かな作業は苦手中の苦手。

ですから、母が一人で私のお弁当を完成させたことはありませんでした(私の記憶では)。

母が用意してくれたごはんやおかずを、お弁当箱に詰めるのは私の仕事でした。

卵焼きをくるくる巻きながら焼くのも、すぐに担当となりました。

私は小さな物を扱ったり、細かな作業が大好きだったので、お弁当作りは嫌ではなかったと記憶しています。

ですが、遠足などの日当日に、まだ薄暗い早朝からキッチンに立つのは、体力的に負担になっていたのだろうなと今となっては思います。

バスが苦手で乗り物酔いの薬を毎回飲み挑んでいましたが、元気いっぱいの状態で遠足を余すことなく楽しんだという記憶はありません。

また、お弁当を開ける時の楽しみなどまったくなかったわけではありませんでしたが、あまりなかったように思います。

だって、自分で詰めたお弁当なんですもん。

何が入ってるのかなと蓋を開ける時の楽しみは、当然なく……。

さらには、友だちに自分のお弁当を見られたくなくて、隠すようにして食べていました。

子供がやることですのであまり上手ではありませんし、母が一人で作ってくれたのではなく自分も一緒に作っていることを友だちに知られたくなかったのです。

普通じゃないことが恥ずかしかったのです。

お弁当のことに限らず、私は子供時代、いつもコソコソ、家の事情を隠そうと必死でした(―――というお話しは置いといて―――)。


幼い頃の思いが報われる

「あっ!まだ見ないで!開ける時の楽しみが減っちゃうでしょ。」

そう言って、置いていったお弁当がこちらです―――カパッ。

母が以前食べたいとこぼしていたのを思い出し鶏そぼろに。ちょっと味付け薄かったかな、ごめん。きゅうりは皮をむいてちくわにイン。トマトの皮ももちろん湯剥きしてあります(腸閉塞予防のために野菜の皮は剥いてます)。


私の密かな願望は叶うことはありませんでしたが、私は母の願望を叶えてあげることはできました。

不思議ですが、そのことによって私の気持ちも報われたように感じます。

私はもう、お弁当を作ってもらうことに憧れてはいません。
それよりも、「母にまた何度でも、お弁当を作ってあげたい」―――それが私の望みとなりました。

無意識の部分で自分がどう思っている、何がどう作用しているのかは、推測することはできても実際にどうなのかまでははっきりとは分かりません。

実際に母と手を繋いだり、母娘の立場が逆転したからといって、何だっていうのでしょう?

恐れるに値しないようなことに無意識は恐れているだけかもしれませんし、母にお弁当を作ってあげられて嬉しかったのと同じように、母の手を取ることがの幼い頃の報われなかった思いを拾い上げて、満たしてあげる行為になるのかもしれません。

また、の幼い頃の報われなかった思いをも満たせるのかもしれません。

実際にはよく分かりませんが……。
何にしろ、マイナスに働くことなどないでしょう。

そんなことを考えていたら、手ぐらい握ってあげようかと思えてきました。

自分でできるが自信に繋がる

がんの進行だけでなく、母が老いていくこと、老いやがんによって意識が虚ろになっていくことを、私は拒否しています。

母にはこれまで通りの母でい続けて欲しいと思ってしまいます。
ちゃんと自分の足で立って、歩いて、祖母のようにボケたりなんて絶対にしないで欲しい。

母も同様に思っているようです。

「なんでもいこにやってもらっていたら、一人になったとき困っちゃうよね。」

いこだってずっとこっちに来ているわけにいかないんだから。」

「このくらい自分でやらなきゃね!」

最近の母はこのような言葉を多用します。
母は、私のことを心配しているのでしょう。
また、自分のことを自分でできなくなることを心配しているのでしょう。

甘えたい気持ちも見え隠れしますが、自立しようと自分を奮起させる言動が目立ってきていた母の変化を見ながら、「母はどうやったら私に遠慮しなくていいようになるのかな」「どうすれば迷惑かけちゃいけないとか考えなくて済むのかな」と薄っすら考えはじめていたそんな時、訪問看護師さんと母抜きでお話しする機会があり、言っていただいた言葉が胸に刺さりました。

本人の自信にも繋がりますし」

私は母がそう言うのは、私を気遣ったり、私に悪いと思っているのが一番なのかと思っていたのですが、それもあるのでしょうが、それよりも何よりも、母は自分でできるようになりたい、人の手を借りなければ生活できない自分ではなく、自分で生活できる自分に戻って自信を取り戻したいんだと、ハッとさせられました。

私は少しばかり母に対し過保護になっていたのではないか、そのことによって母の自立の機会を奪っているのではないかと反省

ということで、そろそろ母が一人で過ごす時間を作り始める時期なのだと確信し、母と今後は具体的にどうしていこうかと話し合った結果―――まずは、お弁当の日を決行。

あの鶏そぼろ弁当は、母が退院後初めて一人で食事するために用意したお昼ごはんだったのです。

私はその日、10時半から夕方5時まで出かけ、母は一人で食事をし、片付け、お茶を入れておやつを食べ、終始テレビを観ながら一人だけの時間を過ごしていました。

9月からはさらに、母の一人時間を増やしていく予定です。
作り置きをバッチリしておけば、大丈夫そう。
半日、1泊、最大2泊までを予定しています。

ホームヘルパーさんが週に2度来てくれ、お風呂とトイレの掃除に加え、掃除機がけもしてくれますし、訪問看護師さんも週に2度来てくれ、ストーマ(人工肛門)装具の張替えをしてくれます―――ということは、看護師さんが日頃から母の体調を見守ってくれているのだから、安心です。

家族の者が常にいなくても、今だったら、母は生活できるのです。

「私はまだ若いと思ってるんだから。」

「うん、お母さんはまだ若いよ。」

母はまだ、介護される身になるつもりなどないようです。

実際、今ならまだできます。
だから、できるうちは好きにさせてあげたいですし、いつ何時も、可能な限り、母の意向に沿うようにしてあげたい。

また、母の自立心を摘まない、母の自信に繋がる機会を奪わないやり方で、母に手を貸し続けたいと思います。


最後までお読みいただきありがとうございました。

今日は母のがんサバイブ92日目。

明日は2度目の「ストーマ外来」に行ってきます。

母のストーマは、最初の頃から比べると大分小さくなりました。

経過は順調、まったく問題なさそうです。

少しばかり装着部分にかぶれが出たことがありましたが、肌の保護剤を使用したのが良かったのか、それもすぐ落ち着きました。
それよりも何よりも、訪問看護師さんたちが丁寧に張り替えてくださっているお陰ですね。

いつも良くして頂いて、有難い限りです。

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