近代史

「革命の父」孫文とは?孫文の生涯を追いながら当時の中国の歴史を解説!

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孫文
孫文

清国を崩壊させ、中華民国を成立させた辛亥革命の精神的支柱となったのが孫文でした。ここでは、そんな孫文がどんな人生を送っていったのかをまとめていきます。

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革命以前の孫文

孫文は1866年、同治の中興と呼ばれる国内外の混乱が(清王朝の衰退期の中では)比較的落ち着いていた時代に海外移民の多い広東省香山県の貧しい農民の子として誕生しました。

幼い頃に出稼ぎに行っていた兄を頼って母と共にハワイへ移住。西洋思想にも触れていますが、キリスト教に傾倒する孫文を心配した兄や母によって結局帰国させられました(後にキリスト教に入信しています)

清に戻った翌年に清仏戦争(1884~85年)が起こると、まだ若く、清の知識人とは異なる環境で学んでいた孫文は政治問題に興味を擁くように。その後、イギリスの植民地となっていた香港で医学を学んだ一方で革命思想にも出会うのでした。

興中会の結成

そんな孫文は、医師として開業した2年後の1894年。政治改革を求めた具申書が李鴻章に受け入れられず、ハワイにて打倒清朝を目指す興中会を組織しています。

その翌年に終結した日清戦争後には広州蜂起(日本では恵州事件と言われる事件)を起こしますが、事前に計画が漏れて日本に亡命。失敗に終わりました。

日本滞在中の孫文は、彼の考えに感銘を受けた社会運動家・宮崎滔天繋がりで

  • 日本での活動費や生活費の援助
  • 戊戌の政変(西太后の記事ですが軽く触れています)により日本亡命中の康有為や梁啓超を引き合わせる

などの数々のバックアップを受けていたようです。バックアップした人物の中には犬養毅の名前も出てきます。

中国同盟会の結成と三民主義

日本に留まらずにアメリカ経由でイギリスに入国した孫文でしたが、これまで蜂起した件もあって清国から目をつけられていました。一時的に公使館に軟禁されるという事件が起こります。

この出来事を知ったイギリス政府が介入し無事釈放されたニュースが取り上げられた件に加えて、孫文の著作『倫敦被難記』も知名度を上げる一因になりました。

ただ本来の目的である革命は上手くいきません。1899年に起きた義和団事件に乗じた挙兵も失敗しています。

そんな感じで何度も革命に失敗した孫文でしたが、知名度を高めていたことが幸いし、世界中を飛び回って革命資金をかき集めることができました。

1905年には滅満興漢(「満州族を滅し、漢族を興す」の意味)運動を続けていた興中会を含む複数の組織が東京に集結して中国同盟会を結成した際には、ロンドンでの活動中に着想を得た三民主義を発表しています。

三民主義
  • 民族主義:民族の独立
  • 民権主義:民主政の実現
  • 民生主義:平均地権による国民生活の安定化

なお、三民主義に関しては、また別の記事で詳しく紹介します。

また、孫文は渡日中に後の中華民国の総統で国民党の永久総裁となる蒋介石に出会います。

辛亥革命(1911年)

辛亥革命に関しては過去記事に詳しく載っているので割愛しますが、簡単に言うと満州族による王朝・清国を滅亡させ中華民国を樹立させた革命です。

辛亥革命で革命軍が優勢になると1911年11月に14省が独立宣言をしますが、諸省をまとめるのに困難を極めていました。うまくまとまったのが革命開始時に海外にいた孫文が帰国してから。

南京に集まっていた各省の代表が孫文を臨時大統領に選び、翌1912年1月1日に中華民国の建国を宣言しました。なお、この時点では清朝は存命中です。

袁世凱
袁世凱

その翌月に清朝滅亡の悲願を達成できたのは清朝の実力者・袁世凱の存在が大きく関係していました。孫文と袁世凱の間に袁世凱を臨時大総統とする約束したことで最後の皇帝である宣統帝を退位させ、政権を終わらせたのです。

袁世凱との対立

ようやく建国に至った中華民国の主導権を握ったのは、若い頃から革命に投じてきた孫文ではなく、清朝の重臣で軍事力を持ちイギリスなど列強から期待されていた袁世凱でした。

約束通り袁世凱が臨時大総統に就任しますが、強い中央集権体制を目指して革命派の意図は無視。孫文が要求していた南京での就任をやめ、北京で就任したことを受けて中華民国北京政府が成立しました。

さらに、国会議員選挙で中国同盟会を発展させた孫文を理事長とする国民党が躍進すると国民党の実質的指導者・宋教仁を暗殺し、議会の主導権を握ります。

加えて、列強からの借金による基盤強化や反対派の地方長官の罷免と孫文達からすればたまったものじゃないことをやり続けました。

こうして反対派の諸省は蜂起(=第二革命、1913年7月)しますが、清朝の時代からの軍の実力者には敵わず鎮圧されると、反対派にいた孫文は日本に亡命、中華革命党を結成したのです。

第一次世界大戦と袁世凱の死

一方で袁世凱は1913年10月に臨時ではなく中華民国の初代大総統に就任しますが、この辺りの時期は中国だけでなく世界的にきな臭い情勢に。

翌年の6月にオーストリアの皇位継承者と妻が暗殺されたサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦へ突入していきました。ちなみに、1915年に中華民国は日本から『二十一カ条の要求』が突きつけられています。

辛亥革命前後の流れ

↑訂正!初代『総統』となっていますが、『大総統』の間違いです。申し訳ありません

この頃の袁世凱は反対派を抑え、国民党を解散させ中央集権体制の確立に努めた上に、1915年には帝政運動まで展開。国号を中華帝国と改めて初代皇帝に即位しますが、反発(第三革命)にあって帝政を取り消すと、失意の中で病死しました。

結果、袁世凱が抑えていた北洋軍閥の統率が揺らぎ、袁世凱に従っていた軍事指導者が各省の長官として各地域を割拠する軍閥割拠の時代に移行しています。

軍閥割拠の時代に突入

孫文は西南の軍閥の力を利用し、1917年に広州で広東軍政府を樹立するなどして打倒中華民国北京政府を目指しますが失敗すると再び日本へと亡命しました。

抗日愛国運動の激化

中国の内部で北京政府の統制が効かなくなり、軍閥割拠となったのが大体1916~28年まで。軍閥時代とも呼ばれます。

その軍閥時代に中国は第一次世界大戦に連合国側として参戦。と言っても始まった当初は中立宣言をしており、1917年のドイツへの宣戦布告したことで始まりました。

一方で、かねてから中国の日本への感情は

  1. 朝鮮半島をめぐる対立 → 日清戦争の敗戦
  2. 二十一ヶ条の要求
  3. (途中参戦ではあるが)WW1に参戦したのに、1919年パリ講和会議でドイツの山東省権益が日本に譲渡

などによってかなり悪いものになっていました。

特に③の問題において中国全土では反日・反帝国運動である五・四運動がかつてない規模の大衆運動として発展。中華民国はこの運動の最中に第一次世界大戦のドイツとの講和条約・ヴェルサイユ条約(1919年)の調印を拒否しています。

その後、日本側も要求の一部を引き下げて山東省の問題は一応の解決をはかり、旧ドイツの権益のほとんどは中国が回収することとなったのです(山東問題)。

1919年の孫文はというと、中国革命党を中国国民党に改組して大衆政党へと転換。1923年3月には北京の中央政府に対抗して広東政府を組織し方針転換しています。

ロシア革命の影響による共産主義の広まり

さて、上記のような抗日運動が盛んになる中で青年たちの間に広がったのが共産主義思想でした。

国際的に社会主義者の組織コミンテルンが結成され、ロシア革命ではロシアが倒れて世界初の社会主義国家が誕生していた時期でもあります。毛沢東陳独秀など後の中国のキーパーソンたちがこの時期にマルクス主義に接近しました。中国国内で1921年に陳独秀らが中国共産党が創立して力をつけるようになりました。

孫文が方針転換したのには、そうした抗日愛国運動や共産主義から大きな影響があったようです。

第一次国共合作(1924~27年)

実際に孫文が何をしたのか?というと…

広東政府を組織したのと同年(1923年)にはソ連のヨッフェと会談し、孫・ヨッフェ宣言を発表してソ連との連携を決定し、国民党はソ連との「連ソ・容共・扶助工農」という政策を掲げました。

連ソ・容共・扶助工農とは?

「ソ連との連携をはかり、中国国民党は中国共産党とも協調路線を取ろう、工業や農業を育てていこう」という宣言です。

さらに、軍閥に依存した当時の状況に限界を感じていたことから、党の軍隊設置の重要性を認識。ソ連からはコミンテルン代表を国民党最高顧問に迎えたり赤軍にあたる軍と軍官学校の設立も図ったりしています。

なお、軍や軍官学校設立にあたっては蒋介石がソ連に派遣され、準備。ソ連式の組織でソ連式の訓練を行う軍官学校の校長となり、将校の養成を開始しています。

また「容共=共産党員との連携」ということで、共産党員のまま国民党員に加わることも認めました。これは後に第一次国共合作と呼ばれるようになります。

同年四月には三民主義と五権憲法(司法・行政・立法の三権+監察・人事)に基づく建国大綱に基づく中華民国を建設すること、国を建設する順序(軍政→訓政→憲政)を定めています。

が、これを実現することなく1925年3月、肝臓がんにより北京で亡くなりました。享年58歳。

孫文亡き後の中華民国

国民党の精神的・政治的支柱であった孫文の死により国民党は混迷します。

後に起こる上海での日系紡績企業の労使紛争が激化しておこった事件に抗議するデモに対し、イギリスを中心とした租界警察が発砲する事件を発端とした大規模なストライキ五・三十運動を背景に汪兆銘が広州国民政府を樹立(1925年7月)。軍隊は国民革命軍に改変されました。

樹立時点では軍閥の力が強く、広州国民政府は地方政権の一つに過ぎませんでしたが、翌年には国民革命軍の総司令官・蒋介石が孫文の遺言にもあった北伐を開始します。

蒋介石は軍官学校の校長だった経歴もあって黄埔軍官学校出身者との個人的つながりが強く、北伐で勢力を拡大するにつれて政治権力の源となっていきました。

これに対して国民革命軍の反蒋介石勢力と台頭を危惧したソ連から派遣されていた政治顧問は蒋介石の力を弱めようと動くと、国民革命軍内部で共産党勢力の力が増すようになりました。

そのうえ中国では共産党系の指導する農民運動や労働運動が過激化して国民政府軍の将校や兵士たちの間でも不満が募っていたという状況だったことから蒋介石は上海クーデターを決行。共産党員を弾圧して国共合作は崩壊、新たな局面に移行したのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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