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石錐2024年05月04日 17:39

石錘、大阪府立弥生文化博物館、

石錐(せきすい/いしきり、Borer/stone awl)は穴をあけるための道具である。 「ドリル」、「ツインケン」、「揉錐器」と呼ばれることもある。

概要

縄文時代に特徴的な石器である。長さ3cm前後の一端を針状にとがらせた打製石器である。 キリのように回転穿孔の道具として使われたと考えられている。錘状の突出部を刃として用いた。「いしきり」の名で、縄文時代石器として用いられた。 頭部を平たくしたものと全体を棒状にしたものとがある。江戸時代には石鏃の一種とされていたが、1886年に羽柴雄輔が石錐と指摘した。旧石器時代と弥生時代の石錐はすべてが打製石器である。北部九州では石錐はまれである。朝鮮半島に類例がある。

分類

石錐の形態は錐部の長短、調整加工の方法、横断面形、頭部の形状、錐部両側縁の角度などの形状によりA類、B類、C類がある。

  1. A類:基部に短い身部を作り出したもの。旧石器時代唐ある形状。
  2. B類:膨らんだ基部から身部が細長く棒状に突出する。縄文文化に独特。
  3. C類:基部がなく、全体が棒状のもの。

使い方

先が細く尖っており、獣の皮や木の皮などを縫い合わせるため、木器や皮革製品などの有機質に穴をあける道具と推察される 柄部にアスファルトによる固定痕が残るものがみられる。

出土例

  • 石錐 - 南方遺跡、岡山市北区国体町、弥生時代
  • 石錐 - 境A遺跡、富山県朝日町、縄文時代、重要文化財
  • 石錐 - 御経塚遺跡、石川県野々市市御経塚、縄文時代後期から晩期

参考文献

  1. 西谷正(1981)「朝鮮の環状様穿孔具について)」朝鮮学報99,100
  2. 加藤晋平、小林達雄、藤本強(1983)『縄文文化の研究』雄山閣
  3. 大野左千夫(1981)「石錘についての覚書」『古代学研究』81
  4. 内田律雄(2016)「九州型石錘についての覚書」『海と山と里の考古学』山崎純男博士古稀記念論集編集委員会
  5. 渡辺仁(1969)「所謂石錐について-先史学における用途の問題-」『考古学雑誌』5512

池子遺跡群2024年05月03日 11:14

池子遺跡群(いけごいせきぐん)は神奈川県逗子市にあるから弥生時代から近代までの複合遺跡である。

概要

三浦半島の付け根に位置し、逗子湾に注ぐ田越川支流の池子川が開析した谷戸開口部にある。弥生時代の河跡から土器・石器のほか、地下水に浸かっていたために保存された多種多様な木製品・骨角製品が見つかった。木製農具・機織り具・骨角製漁労具などの様々な生活道具、シカ・イノシシなどの動物やカツオ・カジキ・サメ・タイなどの魚の骨、サメや鯨の歯を加工したペンダント、大型蛤刃石斧、扁平片刃石斧、鹿や猪の骨を利用した卜骨、祭祀具(陽物品)が出土した。 弥生時代の生活がよく分かる資料である。

調査

旧池子弾薬庫跡地は1937年(昭和12年)に旧日本帝国海軍の弾薬庫として接収され、戦後はアメリカ軍への提供用となった。1996年(平成8年)4月に池子米海軍家族住宅として使用されるようになったが、住宅建設事業んの前に、1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、神奈川県立埋蔵文化財センターと財団法人かながわ考古学財団が発掘調査を行った。出土遺物は先土器時代から近代までの長期に渡り、1999年(平成11年)3月、整理箱で4,000箱の出土遺物が池子遺跡群資料館および旧弾薬庫内に保管された。弥生時代の河道跡から大量の農具などの木製品が見つかった。

考察

遺構(弥生中期)

  • 河川
  • 水田1
  • しがらみ1

遺物

  • 弥生土器 食事用具
    • 高坏
    • ひしゃく状製品
  • 狩猟具
  • 石器 磨製石斧、磨製石剣、環状石錘
  • 牙製品(腕輪)
  • 木製品
    • 丸棒状製品
    • 櫂状製品
    • 有頭製品
    • 剣形製品
    • 把手状製品
    • 有頭棒状製品
    • 有頭方柱状製品
  • 農耕具
    • 横槌
    • 竪杵
    • 広鍬握り・広鍬
    • 横鍬
    • 組合式鋤柄
  • 機織具
    • 緯打具
    • 布巻具
    • 経巻具
    • 綜絖
    • 紡錘車
    • 卜骨
  • 骨角製品
    • 漁労具 ヤス、銛頭、釣針、回転式離頭銛、釣針、銛
    • シカの角や骨、
    • イノシシの牙
    • 装身具 垂飾 かんざし
    • Y形柄
    • 腕(足)飾
  • 編物
    • かご
    • 網代
    • 簗状製品

指定

  • 2002年(平成14年)2月12日 -神奈川県指定重要文化財指定

展示

  • 池子遺跡群資料館

アクセス

  • 名 称:池子遺跡群
  • 所在地:〒249-0003 神奈川県逗子市池子 Hisagi St, 1丁目
  • 交 通:

参考文献

龍頭遺跡2024年05月02日 00:04

龍頭遺跡(りゅうずいせき)は大分県杵築市にある縄文時代から弥生時代の遺跡である。

概要

龍頭遺跡は北側は丘陵、南側は八坂川となる標高100mの河岸段丘に位置する。 龍頭遺跡から縄文時代の編袋3点が出土した。ツルやイヌビワなどの植物で編んだもので、食べ物を保存する貯蔵穴に入っていた。貯蔵穴付近から横倒しの形で出土した。運搬具や容器として利用していたものが廃棄された可能性がある。編袋の内部には堅果類は入っていなかった。破損により貯蔵穴内に遺棄されたものと見られる。平行する縦方向の帯状素材に横方向の帯状素材を編み込む「縄目編み」技法または網代編み技法等で作られる。 縄文時代後期の通称ドングリピットの貯蔵穴(土坑)が60以上発見された。大きさは直径1m、深さは80cmである。カシ類(イチイカシ、アラカシ)を主体とした多数のドングリが格納されていた。約13000個、kgのドングリが出土した。

龍頭遺跡

漢字で同名の龍頭遺跡(りゅうとういせき)は福岡県筑紫郡那珂川町大字安徳8にある弥生時代、古墳時代の遺跡である。

考察

遺構

  • 土坑60以上

遺物

  • 縄文土器
  • 編物
  • 製品

指定

  • 大分県の有形文化財指定

展示

  • 大分県立埋蔵文化財センター
  • 豊の国考古館

アクセス

  • 名 称:龍頭遺跡
  • 所在地:大分県杵築市山香町野原
  • 交 通:九州旅客鉄道日豊本線 中山香駅

参考文献

  1. 大分県教育委員会(1999)「龍頭遺跡 大分県文化財調査報告書第 102 輯」大分県教育委員会
  2. 堀川久美子(2011)「日本における遺跡出土カゴ類の基礎的研究」植生史研究,第 20 巻 第 1 号,pp.3-26

籩豆2024年05月01日 08:42

籩豆(へんとう)は高坏の意味である。

概要

魏志倭人伝に「食飲用籩豆 手食」「すなわち飲食には籩豆を用い、手で食べると記述する。 『漢辞海』によれば、「籩」(へん)は食物を盛るために竹を細かく編んだ容器、祭祀や宴会に用いたとされる。「豆」(とう、ず)はたかつき、食器、祭礼器としても用いた。「籩豆」で木、竹や土器でできた高坏を表す。 高坏の材質は土、木、竹、ガラス、金属などがある。

文献

論語に「籩豆之事、則有司存(包曰子忽大務小、故又戒之以此。籩豆、禮器)」と書かれる。 金泰虎(2007)は「籩豆とは,中国で祭祀・宴会に用いる器で,籩は竹製で果実類,豆は木製で魚介・禽獣の肉を盛る」とする。つまり、籩と豆は素材と盛り付けるものが異なる。

考察

木製の高坏は唐古・鍵遺跡、青谷上寺地遺跡で出土している。

参考例

  • 高坏 - 唐古・鍵遺跡、奈良県磯城郡田原本町、木製蓋付高杯、弥生時代
  • 高坏 - 青谷上寺地遺跡、花弁文様高坏、弥生時代
  • 土器高坏 - 東野遺跡、岐阜県加茂郡坂祝町黒岩・大針、弥生時代後期

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』三省堂
  2. 金泰虎(2007)「日韓の食事作法」言語と文化 11 pp.99-116
  3. 門田誠一(2018)「魏志倭人伝の籩豆をめぐる史的環境」佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 14,pp. 1-21

網代2024年04月30日 00:18

網代(あじろ)は木や竹などの植物を薄く加工した物を材料として縦横交互または斜めに編んだものである。

概要

縄文時代の網代は土器の底面の圧痕「網代圧痕」で知ることができる。縄文人は敷物に利用した網代編の上で縄文土器を作ったため圧痕が残る。 國井秀紀(2013)によれば「網代編み」では、ヤマブドウやクルミの軟質な素材が製品全体に使用される。「ござ目編み」では、マタタビやネマガリダケなどの硬質な素材がカゴの胴 部などに使用され、軟質な蔓を使用するアケビは、製品の全体に使用される。 茨城県野中貝塚では花積下層式土器や宮城県大木貝塚の大木1式、2式土器に縄文時代前期後半の「網代圧痕」が見られる。縄文時代中期から後期に掛けて顕著に見られるとされる。 神奈川県平沢道明遺跡では中期の網代が出土する。網代は一般的には縦条と横条で編まれるが、後期では三方編みが見られる。青森県千歳遺跡、秋田県雲穣野遺跡で見られる。

考察

参考例

参考文献

  1. 國井秀紀(2013)『縄文土器底部に見られる網代圧痕の素材検討』福島県文化財センター白河館研究紀要
  2. 加藤晋平・小林達雄(1983)『縄文文化の研究』雄山閣出版

半島南部の倭2024年04月29日 00:23

井上秀雄、山尾幸久、佐藤信編、藤堂明保の各図

半島南部の倭(はんとうなんぶのわ)は3世紀の朝鮮半島南部に倭があったという説である。

概要

半島南部の倭を図で描く井上説を紹介する。 井上秀雄(2004)は「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64)として、半島南部に倭の領域を描いている(図1:左図)。図の理由となる史料を以下に求めている。

  1. 魏志韓伝(馬韓)「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接」(韓は帯方郡の南あり、東西は海で、南は倭に接する)
  2. 魏志韓伝(弁辰)「其瀆盧国與倭接界」(弁辰の瀆盧国は倭と界を接する)
  3. 魏志倭人伝「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國」(帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに韓を南に東に進み、北岸の狗邪韓國まで7千里、海を渡り対馬国に至る)

つまり韓の南は倭に接し、弁辰の中の瀆盧国は倭に接していると記述されている。 しかし井上は『三国史』の記述を分かりやすく図に示しただけであり、井上秀雄(2004)自身が主張する図ではない。「接する」とは必ずしも地続きを意味するわけではない。 井上秀雄(2004)は「『百済本紀』の記事を読めば分かるように、任那日本府と大和朝廷とは何の関係もない」(p.107)「『百済記』では近肖古王から始まる任那諸国との国交を大和朝廷との国交にすりかえた。『百済記』のように史実をかえて政治的意図に迎合する歴史書」(p.109)と書いている。つまり井上は半島南部に倭の政治的な領域があったとは断定していないのである。任那日本府を大和朝廷の機関であったという説も否定している。

魏志倭人伝

山尾幸久(1986)は「断片的な記載を根拠に「3世紀後半の中国の史官は朝鮮半島南部を「倭」と称していたとまで言って良いかとなると、私ははっきり否と答えざるを得ない」(p.19)と否定的である。「(南部朝鮮=倭とするのは)史料の拡張解釈である」(p.20)とする。山尾による3世紀の朝鮮半島南部の勢力図を図2に示す。

三国史記

『三国史記」新羅本紀(295年春条)に「海に浮かび、入りてその国(倭)を撃たんと欲す」と書かれる。つまりこの時点で、海の向こうに倭国があるという認識があるので、倭国が半島の南にあったら海は渡らない。新唐書百済伝に「西界越州。南倭、北高麗。皆踰海之至」と書かれる。百済の南に倭があるが、海を越えると書かれる。ただし百済と高句麗の間に海はないと思われる。

任那日本府

任那日本府が倭国の代表的な現地の政治的な組織であったとするのは誤解である。佐藤信編(2023)は「任那日本府は「在安羅諸倭臣」であり、倭国の使節団を指すというのが有力な見解となっている。それを何らかの機関であったと主張するのは問題であった」(P.79)「特定の問題のために派遣された使節団であった」「倭国から派遣された使節団は安羅に居住する倭系安羅人たちに主導されて、安羅国に意向に沿って、百済を詰問したり、新羅と通行したりした」(P.81)とされる。すなわち任那日本府は恒常的な政治的統治機構ではなかったというのが実態とされている。佐藤信編(2023)による3世紀の中国と朝鮮半島南部の勢力図を図3に示す。

考察

「南部朝鮮=倭」という説は史料上の根拠がない空説といえる。井上秀雄(2004)はそのような主張をしていないが、不用意な図(「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64))が誤解を与えている。南部朝鮮に倭がいたという主張は、「任那日本府」という幻想につながる。倭から来た倭人が侵攻などで一時的に滞在したことはありえるが、政治権力や支配権をもった勢力ではなかった。なお百済王権に倭系官人・武人が勤務していたことはあるが、南部朝鮮の政治勢力ではなかった。 当時の正しい南部朝鮮の勢力図は藤堂明保・竹田晃他(2017)のp.24に掲載されている図(図4)である。そこには当然ながら南部朝鮮に「倭」の勢力は描かれていない。

参考文献

  1. 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
  2. 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
  3. 佐藤信編(2023)『古代史講義 海外交流編』
  4. 藤堂明保・竹田晃他(2017)『倭国伝』講談社

木緜2024年04月28日 00:07

木緜(ゆう)は樹皮をはいで水にさらしたり蒸したりして繊維状にしたものである。

概要

木綿(もめん)とは異なる。木綿は15,16世紀に日本にもたらされたので、3世紀にはまだない(石川欣造(1998))。コウゾやカジなどの樹皮を剥がし、水にさらしたり蒸したり、細かく裂いて糸にしたものとされる。佐原真(1997)は布の鉢巻きでは無く、繊維状の糸をを頭にまいていたとする。

魏志倭人伝

『魏志倭人伝』に「其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫」と書かれる。大意は、風俗は淫らでは無く、男子の髪はみなみずらである。木緜を頭にかける。鳥越(2020)は「木緜は木綿に同じ」(p.111)としているが、いわゆる木綿とは同じではないので、誤りである。招頭とは鉢巻きにするという意味である。

吉野ヶ里遺跡の木緜

吉野ヶ里遺跡SJ0367 甕棺墓から、毛髪様のものから毛髄質が確認され、7層の層状構造の各層が毛小皮を形成する小皮に一致し、内部に小皮細胞特有の層構造がみられ、さらに髄示数(0.20~0.30 前後)、空胞の配列(一列に長軸方向)などからヒトの頭毛であろうと推測された。頭毛の束に付着していた紐状のものはパルプの繊維に似ていることから木緜と考えられている。『魏志倭人伝』の記述が裏付けられたといえる。

考察

木綿の布を鉢巻きにしたとの誤解もあるが、実際はゴワゴワした硬めの糸を鉢巻き状にして付けていたのであろうか。月桂樹の枝で作った王冠と位置づけが似ているかもしれない。

参考例

  • 木綿 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代

参考文献

  1. 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
  2. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』角川書店
  3. 石川欣造(1998)『第三訂版 繊維』 東京電機大学出版局1-4
  4. 奥山誠義(2017)「考古資料からみた植物性繊維の利用実態の解明」作物研究62:pp.57-63
  5. 塩田 泰弘(2023)『「魏志倭人伝」を考える ―髪型と衣服形態についてー』10号