那閉神社(青木の森左口社)

焼津市浜当目3丁目字那閉崎12−13

那閉神社鳥居

概要

由緒

那閉神社は継体天皇三年(509)、物部氏により当目山(虚空蔵山)上に勧請されたという延喜式内社である。
のちに海上の「神の岩(観音岩)」に遷座されたが、風浪の害を避けて現在地に遷座したという。
また、ある時期には当目山の海側断崖、その海面付近にある岩窟の「御座穴」に祀られていたともいう。

那閉神社拝殿

祭神は八重事代主命、大国主命であり、海の神として信仰されている。
なお、駿河国神名帳の正五位下 益頭郡「奈閇天神」は当社を指すとされ、
かつては八楠加茂神社と同様に、「当目の衆は片方の目が小さい」という古社特有の伝承があった。

虚空蔵尊との関係

一方、当目山上にあった香集寺の虚空蔵尊も焼津中の漁師の信仰を集めており、
浜当目では那閉神社と虚空蔵尊による神仏一体的な信仰空間が形成されている。

香集寺
香集寺

例えば、毎年二月十三日に山上で行われる筒粥神事は本来那閉神社の神事であったが、
現在は虚空蔵尊の神事として定着している。

なお、現在虚空蔵尊は山上の香集寺から那閉神社隣接の弘徳院に移されている。

弘徳院
弘徳院

信仰圏

那閉神社は浜当目南側の焼津地区の更に南側、小川地区に鎮座する熊野神社の境内摂社としても祀られている。
元来は小川地区でも那閉神社を奉斎していたが、熊野信仰の広がりとともに熊野神社が本社となったようだ。

また、駿河記によれば浜当目のオカ側に当たる岡当目の西宮神社は那閉神社を勧請したものだという。

岡当目西宮神社
岡当目西宮神社

さらに、岡部町の若宮八幡宮の棟札には、
崇神天皇十年(BC88)に四道将軍の一人として東海に派遣された武渟川別が、
那閉神社を岡部の里に勧請したと記されているという。

岡部若宮八幡宮
岡部若宮八幡宮

これらは那閉神社の信仰圏が東益津村域を越えて広がっていたことを示している。
この広がりは、古代、那閉神社を奉斎していた氏族の、ある時期における勢力圏を示しているのかもしれない。

鎮座地名について

当目

「浜当目」の「当目」については、
特徴的な山容の当目山(虚空蔵山)が海からのヤマアテの「目当」となっていたことや、
駿河湾に突き出した地形により「遠目」が利く見張りの場となっていたことに由来するなどの説がある。

当目山(虚空蔵山)
海側が断崖になっている。
当目山(虚空蔵山)
海側が断崖になっている。

なお、元来は「当目」地区のみだったが、
当目が後にオカ側に拡大したため「浜当目」と「岡当目」を区別するようになったという。

那閉崎

また、鎮座地の小字名「那閉崎」は、
かつて海上の「神の岩」まで続いていたという鍋弦状の州崎が「鍋崎」と呼ばれていたことに由来するとされる。
元来は当目全体が那閉崎と呼ばれていたともいう。

こうした伝承から、当社は駿河志料では鍋嶋大明神社、駿河国新風土記では鍋崎大明神とされている。
ただし、本来は「波辺崎」に由来するともいわれる。

神の岩

「神の岩」(カンノイワ)の名称は、かつてこの岩に那閉神社が鎮座していたことに由来するとされるが、
他に、応安年間(1368~1375)に鎌倉の村岡郷から流れ着いた観音像がこの岩に立っていたため、
「観音岩」と名付けられたという伝承もある。
その観音像は現在も村岡山満願寺(藤枝市郡)に安置されている。

境内社青木神社(左口社)と須藤左門

境内社に青木神社(左口社)、津島神社、稲荷神社がある。

青木神社(右側は津島神社)
青木神社(右側は津島神社)
清水美濃輪稲荷を勧請
山神も祀られている
山神も祀られている

このうち青木神社は武田方の足軽大将だった須藤左門を祀る。
須藤左門についてはいくつかの伝承が伝わるが、概要は以下のとおりである。

須藤左門の最期

戦国末期、当目を含む持舟城付近では武田と徳川の攻防が繰り返されていた。
徳川家康による天正七年(1579)の駿河侵攻により、当時武田方だった持船城は落城したが、
翌年には武田勝頼が奪還。朝比奈信置が城代となった。
さらに翌天正九年五月五日、田中城を攻める徳川方に対し、
武田方の須藤左門らは持船城から峠を越えて攻めかけ、
葭鼻(よしばな)古戦場と呼ばれる青木の森付近で合戦になった。

迎え撃つ石川数正ら徳川方には初陣の石川又四郎重次がいた。
徳川方を次々に討ち取った須藤左門は、槍を合わせた石川重次を難なく組み敷いたが、
そのあまりの若さに情けをかけ、討ち取らずにその場を立ち去ろうとしたところ、思いがけず石に躓き、
そこを容赦なく石川重次に討たれたと伝わる。

石川家が青木の森に石社を造立

須藤左門を討った武功が認められ、石川重次は家康に召し抱えられた。
その後、朝鮮撤兵時の諸将への使者を務めるなどの功績によって石川家は四千石の旗本となり、
さらには駿府城の三加番に任ぜられることになった。

ところが、三加番となった後、石川家の当主が駿府勤務後に不慮の死を遂げることが相次いだため、
石川家は須藤左門の祟りを恐れ、
宝暦四年(1754)、当時の当主石川右京が須藤左門を祀る石社を青木の森に設置したという。

青木の森左口大明神

青木の森に須藤左門の石社を設置した際、
当時から那閉神社の宮司を務めていた松下家の吉兵衛が残した文書には、
「青木ノ森左口大明神ノ社地 須藤大明神石社 新造立」とある。
つまり、青木の森には元々「左口大明神」があり、そこに「須藤大明神」を新たに勧請したというのである。

那閉神社境内に遷座

その後明治に入ると青木の森は開墾され、石社は那閉神社境内に遷された。
須藤左門の豪勇にちなみ、例祭日には子供の「虫除け」のお守を授与しているという。
なお、群馬県松井田町に居住する須藤左門後裔の一族は現在も毎年那閉神社を訪れ、左門の霊を弔っているとのことである。

(焼津市史民俗調査報告書第二集「浜当目の民俗」、「ふるさと東益津誌」、塩澤藤雄「高草山麓のむかし話」、「東益津村々誌」、「焼津市史民俗編」、「志太地区神社誌」)

踏査結果

那閉神社に着くと、その背後では当目山が大きな存在感を示していた。
当社が山体遥拝の場であることを改めて実感する。

那閉神社から当目山(虚空蔵山)を望む
那閉神社から当目山(虚空蔵山)を望む

神社は浜当目海岸に面している。
波間に垣間見える「神の岩」は、当目山を中心としたこの地が古代からの信仰の場であったことを今に伝えている。

神の岩
神の岩

神社創建の地とされる当目山に登ると、樹間からわずかに駿河湾や静岡市街地方面が見えた。
刈り払えば広範囲に「遠目」が利くだろう。

樹間から見える静岡市街地
樹間から日本平山麓が見える

さて、那閉神社の境内には須藤左門伝承の紹介とともに青木神社が祀られていた。
境内社ながら立派な社名標も据えられている。
しかし、左口社の存在を示すものは見当たらない。

青木神社

一方、かつて青木の森があった場所は、現在サッポロビール静岡工場敷地の一角になっているものの、かつて青木神社があったことを示す石碑が建てられている。
しかし、ここにも左口社についての記載はない。
つまり、現在の浜当目にシャグジの痕跡を示すものはもはや存在しないようだ。

青木の森青木神社跡
青木神社と須藤左門

考察

袖もぎ信仰

須藤左門は討たれる前に石に躓いて転んだとされるが、
青木の森には「森の前で転んだ時は片袖を置いてこなければ災いに遭う」という
いわゆる袖もぎ信仰が伝えられていた。
明治に入っても森の前を通るときは片袖を頭にかぶって駆け足で通り抜けたという。
こうした風習は全国的に見られ、道の神の信仰とつながっているとされる。

あるいは先にあった袖もぎ信仰に須藤左門の伝承が混淆し、
それ故に須藤左門も転ぶことになったのかもしれない。

土地の霊性が出現させた怨霊

また、青木の森付近の地名は「葭鼻(よしばな)」と呼ばれ、
現在も「吉花トンネル」にその名を残すが、
この「鼻」は、当目砦があった殿山丘陵の先端部を指すと考えられ、浜当目と岡当目の境界でもある。

このように、道の神への信仰があり、
山と平地、さらには村落間の境界としてシャグジを祀るこの地の霊性が
須藤左門の怨霊を出現させたように思う。

須藤左門が伝えたシャグジ信仰

なお、「高草山麓のむかし話」は、青木の森に加え、
字塩田にあった那閉神社の神饌田にもシャグジがあった可能性を指摘している。
しかし、同地もサッポロビール静岡工場の敷地となった現在、その検証はできそうもない。
一方で、青木の森のシャグジのみ、かろうじて今に伝わるのは、
この地に須藤左門が祀られていたからなのだろう。

それにしても、どうやらこの地域には江戸期の記録にも表れないシャグジがそこかしこにあったようだ。
ほとんどは伝承も途絶えてしまっているだろうが、
できるだけその痕跡を見出すことに努めたい。

2023/8/13、11/11踏査

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