社会と個人 どう向きあうの

林住期 どのように暮らすのか。日々、自問自答する。

(303) 見習いたいと思う、阿弖流為 (アテルイ) 等のしたたかさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気になったところ、心に響いたところ。


774年、蝦夷が桃生城を攻撃。ここから蝦夷大和朝廷との防衛戦争が始まる。いわゆる38年戦争。

続いて、伊治城の伊治呰麻呂が反乱を起こす(780年)。阿弖流為が登場するのはここから。物部が後ろ盾となる。

 

 

上巻 ページ98。  

母礼の言葉。  
「だからこそ、物部は同族の暮らす陸奥を頼ってきたのだ。 かつては出雲が我ら蝦夷と物部の祖先の暮らす。 土地であったらしい。 それを海を渡ってきた朝廷の者らの祖先が奪い取った。 我ら蝦夷は北へ逃れたが、物部はなんとか止まって朝廷に従うことなったのだ」  
阿弖流為。 
「我らと物部が同族。」  
母礼。  
「祀る神とて同一ではないか? 共にアラハバキの神を信仰している」

 

 

789年 征夷大将軍紀古佐美との戦いに勝利した後、物部の天鈴に付き添って阿弖流為らは都に

 

 

下巻 ページ92。  

(天鈴)

「どれほど悲惨な敗北を喫したとして、帝は戦場を知らん。死んだ兵も書状に記された数にすぎぬ。 百が千に増えようとさしたる違いはない。 だからこそ次の戦ができるのだ。目の前で首が飛び、 胸を槍で貫かれたものを千も見れば戦などたくなくなろう。 無慈悲と言えば言えるが、それが敵の強さだ。 何度も懲りずに仕掛けてくる。やがては根負けするぞ 」

「 一度の戦で済むなら20年も前に呰麻呂がやり遂げていたであろう。 兵を起こせば気の遠くなるような戦の始まりとなる。それを承知していたゆえに呰麻呂も耐えるしかなかった。呰麻呂がようやく決意できたのは胆沢や江差、和賀の蝦夷の力が長い戦に耐えられると見極めたからのことぞ」

 

 

794年 征夷大将軍大伴弟麻呂、副将軍坂上田村麻呂との戦いで

 

 

 下巻 ページ258。  

御園(田村麻呂の直属の部下)は平静のまま重ねた。  

「ご貴殿らの強さは殿もむろん承知。しかし最後には数の戦となりましょう。 そこをとくとお考えいただきたい。 あるいはご貴殿らに運が味方して勝利を得られるやもしれませんぬが、内裏は諦めずに次の戦を企てまする。 それを思えばここあたりが潮時ではないかと殿が申しております」  

阿弖流為)  

「断じて降伏せぬと決めて始めた戦さ。 蝦夷とはなんであるか知ってもらわねばならぬ。 ここで恭順してはこれまでに果てた多くの蝦夷らの礼に対して言い訳が立たぬ」 

阿弖流為は笑いを浮かべて断った。

蝦夷とは何であると?」  

御園は眉根をを寄せて阿弖流為にたずねた

「なにものでもない。 都に暮らすものだと変わらぬ人にすぎぬ」  

「それはそうでござろう」。

 

 

坂上田村麻呂征夷大将軍との戦い 801年

 

 

下巻 ページ459。  

(阿弖流為)

「都の者らの蝦夷に対する嘲りが消えぬ限り、戦は500年も千年も繰り返されましょうな。 今は戦を無意味と感じる子らもやがて大人となって、都人の侮蔑を我が身で感ずれば 抗う心が必ず芽生えるはず。 我らの心に呰麻呂様が常に生きておられたごとく、我らも蝦夷の道しるべとなりたい。 ただの意地ではござらぬ。かなわぬと知りながらも、最後の最後まで抗った者達があったということを蝦夷の子らの胸に刻みつけたいだけ」 

 

 

 

蝦夷(えみし)」は蔑称とのこと。「蝦夷(えぞ)」も同様。

4~5世紀頃に西日本で誕生した大和朝廷は、勢力外の地域に住む人々を” 異民族 ”と見なして、一方的に『蝦夷(えみし)』と呼んだ。

大和朝廷の支配は広がっていき、奈良時代になると残った東北・北海道地方に住む朝廷に従わない人々を、まつろわぬ民=蝦夷と呼ぶようになる。

阿弖流為は、母礼や飛良手らと共に 人としての尊厳をかけて蝦夷の部族を束ねて20数年、大和朝廷と対峙した。

迫力の歴史小説。読みごたえがある。



 

 



阿弖流為とは

 

阿弖流為阿弖流為)の精神は、彼の生涯と行動から見て取ることができます。以下に、その特徴を箇条書きで列挙します¹²。

 

・勇敢さ:
阿弖流為は、大和朝廷の侵攻に対抗し、地域の統一と自立を目指しました¹。彼の勇敢さは、多くの蝦夷部族を結束させ、朝廷軍に対して長期にわたる抵抗を指導しました¹。

・自己犠牲:
阿弖流為は、自分の命を犠牲にしてでも、蝦夷の文化とアイデンティティを守ろうとしました¹。彼の自己犠牲の精神は、現代の私たちにとっても重要な意義を持ちます²。

・リーダーシップ
阿弖流為は、蝦夷の連合軍を率いた人物であり、彼の戦略的なリーダーシップは、多くの蝦夷部族を結束させ、朝廷軍に対して長期にわたる抵抗を指導しました¹。

・正義への追求:
阿弖流為は、不正や不平等に立ち向かう精神を持っていました²。彼の正義への追求は、現代の私たちにとっても大きなインスピレーションとなります²。

・多様性と共生の価値:
阿弖流為の物語は、多様性と共生の価値を教えてくれます²。これは、現代社会においても非常に重要な教訓です²。

 

以上の特徴は、阿弖流為の精神を象徴しています。彼の生涯とその遺産は、現代にも影響を与え続けています¹²。

 

ソース: Bing との会話 2024/4/22

(1) 阿弖流為阿弖流為)は何者?坂上田村麻呂との関係をわかり .... https://education.suhsuu.com/sakanounenotamuramaro/.

(2) 阿弖流為 子孫の歴史探訪:古代蝦夷の首領とその影響. https://momonomo.work/aterui-offspring/.

(3) 阿弖流為(あてるい)|Historist(ヒストリスト). https://www.historist.jp/word_j_a/entry/048779/.

(4) 日本史の授業で有名な阿弖流為阿弖流為)や安部氏の子孫は?. https://jolg7.com/2024/02/04/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%8f%b2%e3%81%ae%e6%8e%88%e6%a5%ad%e3%81%a7%e6%9c%89%e5%90%8d%e3%81%aa%e9%98%bf%e5%bc%96%e6%b5%81%e7%82%ba%ef%bc%88%e3%82%a2%e3%83%86%e3%83%ab%e3%82%a4%ef%bc%89%e3%82%84%e5%ae%89/.

 

 

蝦夷 VS 朝廷の戦歴

 

 

 

生き方は阿弖流為(あてるい)に学べ!蝦夷征討(えみしせいとう)の真実 から

 

  

 

天平感宝(749年)

陸奥国小田郡(湧谷町)で金が産出

奈良の大仏建設と都の遷都で資金を必要とした大和朝廷は東北の資源に目をつけ東北征伐を強行する

 

宝亀5~8年(774~777年)

蝦夷が桃生城を攻撃

・ここから蝦夷の防衛戦争が始まる、朝廷軍の兵2万7000。紀広純が陸奥守、陸奥国按察使、鎮守府将軍を歴任

 

宝亀11年~天応元年(780~781年)

伊治呰麻呂の反乱

蝦夷だが朝廷側に従っていた伊治城の伊治呰麻呂が反乱を起こす。多賀城が焼かれ紀広純が討たれる。次の征東大使は大伴家持で朝廷軍の兵数万に対して胆沢の蝦夷・吉弥候部伊佐西古4千の蝦夷が迎え撃つ

 

延暦8年(789年)

巣伏の戦い

・征東大使・紀古佐美が坂東兵5万2800を引き連れ、阿弖流為をリーダーとした蝦夷連合軍3000と対決。圧勝した蝦夷側は多くの村を焼かれたが 戦死者89人、朝廷軍側は戦死者1061人だった。

 

延暦15~19年(796~800年)

坂上田村麻呂陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍兼任

征夷大将軍坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろは城柵の建設や駅の整備をしていく、関東や越後などから人々を伊治城へ移住させる・蝦夷に仏教の布教や養蚕を教え、衣食住の知識を教えてまわった・税の免除などから朝廷側に帰順する蝦夷が次々と現れる

 

延暦20年(801年)

蝦夷が帰順?

・『日本紀略』によると、坂上田村麻呂からの報告で「夷賊を討伏す」とだけあった

 

延暦21年(802年

阿弖流為、母礼の処刑

・田村麻呂、胆沢城の造営、翌年には志波城も造営。阿弖流為と母礼が500人の仲間を引き連れて降伏・阿弖流為と母礼は京の都へ連れていかれる、坂上田村麻呂は2人の助命を嘆願したが公卿に聞き入れられず河内国(大阪)で斬首される

 

弘仁2年(811年)

文室綿麻呂の征討

文室綿麻呂征夷大将軍となる・陸奥国出羽国の俘囚2万を動員してにさ体(岩手県二戸から青森県南部)・弊伊(岩手県上閉伊郡下閉伊郡)に軍を進め降伏させる・和賀郡、稗貫郡、斯波郡が設置され翌年は徳丹城が建造される

 

 

 

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