仏様への参拝の日は、いつもゆっくりと朝の支度をさせて頂いています。
ですが出発予定の時間が近づくと、はやる気持ちが波のように押し寄せてくるのを感じます。
魂も楽しみにしているのです。
道すがらに空を見上げると、仏様の波動が空にしゅんしゅんと広がっているのが見えました。
朝日や季節の風や風景など、お参りのための移動も神仏へ心を向かわせるための、大切な過程なのです。
お寺さんの本堂には、お不動さんがいらっしゃいました。
観音様は、その建物の隣にいらっしゃいます。
今回は観音様からお招きを頂きましたが、「私にだけに会いにきなさい」というメッセージではないことは、十分わかっていました。
ご本堂の中央には護摩壇があり、手前には靴を脱いで上がれる広いスペースがありました。
右手にはお守りの授与所と、ご祈願のお申し込みの場所です。
するとここへ来てすぐに、4人のお坊さんがぞろぞろと護摩壇に上られました。
私は仏教のルーツを持っていないので、分からないことも多いです。
近くのご婦人に尋ねると、お不動さんのご縁日だと教えてくれました。
さらに「誰でも参加できるよ」とも。
そこで、このまま護摩壇スペースに上がらせて頂いて、見学することになりました。
あとから知りましたが、このご婦人は住職の奥様でした。
お寺さんには、個人でお申し込みをするご祈祷だけではなくて、お寺さんが定める勤行や行事があります。
一般の人も参加できたり、見学できることもあるそうで、とてもありがたいなと思います。
そのときは実家でお世話になっているお寺さんではなかったので、分からないことも多く、
授与所の売り子さんが知り合いだったことから、ご縁日のお布施について少し聞いてきました。
おふだがほしい人は、授与所でお申し込みして、祈願料を納め参加します。
おふだの大きさによって、金額は色々あります。
おふだは護摩祈祷中に、仏様の護摩火に潜らせて、仏様のエネルギーを注入して頂き、
それをご祈祷後に頂いて帰り、お家の目線より高い場所に飾って一年間仏様のご加護を頂いたり、仏様の高波動に触れたりできます。
おふだがいらない人は、無料で参加もできますが、わずかなお布施を納める方法もあります。
護摩祈祷では、護摩木を焚べて、お不動さんの火を灯します。
この護摩木は一本数百円くらいで、どなたでも納めることができます。
護摩木にペンでお願いごとや名前などを書いて、お布施とともに納めます。
ペンや書き方も、記載台に用意されていることが多いです。
どの方法でも、お坊さんのお力添えと護摩火によって、みなさんの願いごとは仏様の世界に届けられます。
おふだと護摩木、金額によって、願掛けの叶う確率が変わるわけではないので、ご自身が必要なものを選びます。
実家でお世話になっているお寺さんでは、お札代、護摩木、お供え、お布施などまとめて祝袋に包んでお渡ししていたので、そこそこのルールがあるのかなと思います。
護摩壇手前のお座敷スペースの端っこに座って様子を見ていると、私の後ろにもう一人、どなたかがいらっしゃった気配を感じました。
後ろを振り向いてもいないのに、その気配の人は黒い靴に、黒いスラックスの年配の男性のようだと思いました。
ですがそこから靴を脱いで、こちらのスペースに上がる様子はありませんでした。
そのとき祭壇のほうでは鈴の音色が鳴り、護摩祈祷のはじまりの合図となりました。
護摩祈祷中は色々なお経が読まれて、分かる人や冊子を持つ人は、お坊さんに合わせてそれらを一生懸命に唱えていました。
私は分からないお経ばかりだったので、合掌しながら祭壇の様子を見学していました。
お経がはじまってしばらくしても、私の背後には年配の男性の気配を感じています。
どなたかの付き添いでもなさそうで、こちらのお座敷に上がることなく、一段低い三和土(たたき)にいらっしゃいます。
しかし振り向くと誰もいなくて、前を向くとまた気配を感じます。
不思議に思いながらもそのままお経は進み、護摩壇では、お不動さんの護摩火が高く上がりはじました。
火が上がると、仏様の波動が一層濃く感じられます。
お経は、般若心経に変わりました。
般若心経だったら知っている、と私も一緒に唱えはじめました。
すると、4人いたお坊さんのうちのお一人が、私たちのほうへくるりと向かれました。
どうやら私たちの鞄をお坊さんが預かり、お不動さんの火に潜らせて下さるようで、慣れた檀家さんは一人ずつ順番に、お坊さんに自分の鞄を預けています。
お坊さんはそれを、お不動さんの護摩火によーく当ててくれていました。
私たちは日ごろ普通に暮らしているだけでも、たくさんの念や垢がついてしまいます。
鞄を代表して払うことで、それにつながるものも清めているのです。
実家でお世話になるお寺さんでは、鞄のお祓いはありませんでしたが、代わりに護摩火にくぐらせた教本で、背中をとんとんと叩いてもらっていました。
護摩火のパワーを込めた仏様の教本で、背中をとんとんしてもらうと、
背中や足は羽が生えたように軽くなり、体はぽかぽかになり、心はいっぱいに満たされた気持ちになります。
念や垢が取れると、スキップしたくなるくらい心も体も軽くなります。
心の垢を洗い流してもらうと、小さな幸せや感動に気づけるようになったり、何にでも感謝できるようになります。
仏様の高波動に触れ、心の安寧や、満たされた気持ち、魂そのままの素直さと、この世の喜びを思い出します。
体感のあるなしに関わらず、その空間にいるだけで魂も体も護摩火に照らされ、仏様の高波動のお湯に浸かったようになり、
ご縁を頂いたり、修行をしたり、恩恵効果を頂いています。
体が軽いのも、背中や、指先もぽかぽかなのもとても心地良くて、数日するとだんだんと元の自分の波動に落ち着いて来るのですが、少しするとまた会いに行きたい、体感したい思ってしまいます。
般若心経が終わると、今度は色んな仏様の真言を唱えます。
檀家さん方もお坊さんにつづいて唱えていますが、これも私はほとんど分からないものばかりだったので、私は合掌したまま、お堂に響く真言を聞いていました。
突然、私の合掌が前後に震え出しました。
ぶるぶる震えるというより、誰かが熱心に祈願して前後に揺すっているように見えます。
その熱心にお参りしている誰かに意識を向けてみると、それは背後にいる年配の男性のようだと感じました。
もちろん振り返ってみても、誰もいませんでした。
護摩祈祷のはじまりからの見えない男性は、やはりいるのだと確信しました。
その年配の男性は熱心に祈願をし、ご自身の合掌を前後に揺すっていました。
それに私が同調してしまい、私の合掌も前後に揺れていたのです。
私は指を揃えて合掌していますが、男性の一生懸命な合掌の形に呼応するように、指と指の感覚が開いた合掌のスタイルになって行きました。
前後に揺れる自分の両手を、まるで他人ごとのように眺めながら、心の中で「誰か付いて来たのか?」と思いを巡らせました。
気づいたからには振り落とすこともできますが、仏様の聖域までついて来ることができ、さらに仏様がそれを許可しているようなので、変なことにはならないのでは?とも思いました。
同時に思い出したのが、母方のご先祖様のお話でした。
私の母方には、宗教やスピリチュアルに携わる方が多くいますが、あの世でもそのような修行を選ばれる人がいます。
ときどきそのご先祖様方が修行の一環として、私たちの参拝について行ったり、実家でお世話になる和尚さんの修行に同行することがあります。
もしも幽霊だったなら、お不動さんにお願いできそうですし、母方の親族であれば、私への負担のないように取り計らってくれるでしょう。
何とかなりそうだと思うと不思議なもので、合掌の揺れは止めずに好きにさせておきました。
周りを見渡すとお坊さん方は前を向いていて、檀家さんは手元の冊子を見ていたり、目を瞑って祈願しています。
幸い、こちらに気づいている人はいませんでした。
その間も、色々な仏様の真言が唱えられていました。
しばらくすると、背後にいる男性の熱心なお願いごとが聞こえてきました。
心の中は一つのことでいっぱいで、私にも聞こえてくるほどの強い強い思いでした。
「あかねのことを、どうかお願い致します。」
「え?」と思わず、心の中で聞き返してしまいました。
私の後ろにいた年配の男性は、星になった母方のおじいちゃんだったことが分かり、さらにわざわざ私のことをお願いしてくれていたから。
あの世へ帰ると、この世で当たり前だったことが、当たり前ではなくなります。
私たちは参拝へ行こうと思えば、いつでも行けますが、あの世にいると色々な制約があって、
自分のいる次元や波動とかけ離れたところや、生前に行ったことのない場所に行くのは、とても大変な場合があります。
波動が高すぎるところへは、自分の波動を一生懸命に上げてからでないと行けないことも。
そんなとき、子孫に同行すれば、それを簡単に突破できます。
ご先祖様が、この世にいる子孫の参拝や修行に同行するのは、自身の修行や供養のためだったり、一族全体の繁栄のためだったり、子孫のためなど色々な理由があります。
ですから私は「せっかく来たんだから、おじいちゃんの修行もさせて頂いたら?」と、おじいちゃんに言いました。
「人のことをお願いする」「人のために力を尽くす」のは、徳を積む大変尊い行いです。
私たちの願掛けでもそれは同じで、誰かのための願掛けは良い行いになります。
ですが滅多にない、お不動さんの護摩祈祷の機会に、おじいちゃんは孫の私のことで頭がいっぱいでした。
私の声も耳に入らないくらい熱心な様子。
おじいちゃんはお坊さんにつづいて、私が知らない真言を唱えながら、私のことを仏様にお願いしつづけています。
それは人間でいう頑固さや意固地さとは違っていて、欲のない、純粋で、肉体がないからこその、とてつもない集中力でした。
もしかしたら真言を唱えられない未熟な私の代わりに、唱えてくれているのかもしれませんし、
そこにいらっしゃるそうそうたる仏様の中に、今後の私の人生に重要な仏様がいらっしゃるのかもしれません。
おじいちゃんがこんなに前に出ることは、これまでほとんどありませんでした。
それほどに、何らかの意味や思いがあるのだろうなと感じました。
すると、唱えられていた真言がお不動さんの真言になりました。
「これなら分かる!」と私も唱え始めました。
私の合掌は、相変わらず熱心に揺れています。
ですがお不動さんの真言を唱えはじめて、それが二回目に入ったところで、ぴたりと止まりました。
おじいちゃんは私がちゃんと唱えるところを見届けて、バトンタッチしてくれたのです。
すると、おじいちゃんはお役目が終わったからなのか、私の背後からもいなくなってしまいました。
そしてとうとう最後まで、姿を見せてくれなかったおじいちゃん。
それには深い理由がありました。
全てのご先祖様がそうではなく、私の二人のおじいちゃんだけは、そういう接し方を選んでくれていました。
未熟なころは色々な判別がつかなくて、「視る」ことは、私の心身への負担があまりに大きなことでした。
今は幽霊や関係薄い人は怖いけど、近しい人なら大丈夫。
それは、この世での人間関係にも似ているかもしれません。
他人や関係薄い人と接するのは、とても「気を使い」ますよね。
身内だったら思いやってくれることも、関係が薄いほど思いやりが薄れて、容赦がありません。
見えない世界もそういう部分があって、自分の思いを抑えて接してくれるのは、近しい人だけです。
関係が遠く慣ればなるほど、「何してほしい」「何がほしい」「自分が自分が」と暴力的なくらい、
容赦なく、自分の欲求をぶつけて来て、そのエネルギーは歪んだ醜い姿として見えることもあります。
今では色々分かるようになって、対処もできるようになりましたが、
当時のおじいちゃんは、そんな私に合わせて接してくれていたのです。